教育ICTリサーチ ブログ

ICTを教育にどう活用できるか、現場目線でリサーチします。

JAPET&CEC海外調査部会 オーストラリア視察研修報告8「日本の教育、オーストラリアの教育」

 これまで7回に渡って実際の視察で見てきたことの報告を行ってきましたが、まとめに代えて最後に自分の考えを少し述べておきたいと思います。
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 日本の教育にどっぷりつかって生きてきた人間にとっては、今回の視察で見た学校の様子は驚きの連続でした。教室にとらわれず廊下や床など思い思いの場所で学習するスタイルや、児童の進度に合わせて同じ教室内で異なる課題・教科を学習する個別化された学習形態などはどれも日本の教室のイメージとは全く違います。そういった違いはどこからくるのか、また日本の教育に何を取り入れたらいいのでしょうか。

平等に関する考え方の違い

 根底にあるのは、平等ということに対する考え方の違いなのだと思います。日本の教育がどの子にも等しく可能性があると考え、同じ力をつけさせることを平等と考えるのに対し、オーストラリアでは、それぞれの子の違いを前提として、その子にあった課題を与えることを平等と考えているのだと思います。
 今回の学校訪問で先生が「この子たちは遅れているから別の課題をやっている」というような話を本人の目の前でしている場面を何度か目にしました。日本だと先生が児童の目の前で第三者に向かって特定の児童の進度の遅れや特性について言及することはまずありません。最初は少し驚いたのですが、見学を続けるうちに、先生も生徒も「違い」というものをあまりマイナスに捉えていないのかもしれないなと思うようになりました。
 授業の受け方にしても、日本では授業中は席に座り先生の話を聞くことが大切で、授業中に立ち歩いたりする児童は問題があると受け取られてしまうことが多いと思います。一方、今回見てきた授業のように思い思いの場所で授業を受けるスタイルでは立ち歩くのが普通なのでそれを問題と考える必要がないばかりか「活発な子」と評価さえされるかもしれません。もちろん限度というものはあるのでしょうが、そういったおおらかさや違いを受け入れる包容力のようなものに救われる子ども達もきっとたくさんいるのだと思います。

 一方でそういった個人を重視する考えの弊害のようなものも垣間見られました。今回見たある児童は、算数の問題で自分の間違いに気づかないまま進んでしまっていました。ペアになってお互いに確認したり説明したりしながら進めていたのですが、相手の児童も間違いに気づかなかったために、結局授業が終わるまでそれを正すことができませんでした。一斉授業であれば全員が同じ課題に取り組んでおり、授業で扱った課題をクラス全体で確認することが可能なため、教師のフォローも比較的容易です。しかし、今回のように各々が別の課題に取り組んでいる場合には、1人の先生が授業中にフォローできる人数には限りがあるため、どうしても目の行き届かない部分が出てきます。今回訪問した学校の中には授業中に児童に作成させたポートフォリオを活用して授業後に評価しているところもありましたが、毎時間全児童についてそれをやっているととても時間が足りないでしょう。もちろん学習とは1時間ではなくその文脈全体で評価されるべきものであり、今回見たことだけで評価できるものでは到底あり得ません。しかし、少なくとも知識や技能を効率的に伝えるという点においては、学習指導要領と、それに沿って編集された教科書、研鑽を怠らない先生方の努力によって全国的に一定の質的保証がされている日本の教育システムの良さがあると言えるのではないかと思います。

ICTの使い方の違い

 今回訪問した学校では、いずれも就学前準備学級からタブレットやPCを使って学習し、インターネットの常時接続も当たり前の環境でした。もちろん、それはオーストラリアの中でも決して一般的ではありません。しかし、このように低年齢の段階からインターネットやICT機器を道具として使いこなしている子どもたちと、全く触らないまま大きくなる子どもたちとでは情報格差は開いていく一方です。ただでさえ日本の子どもたちは英語を母語とするオーストラリアの子どもたちと比べてアクセスできる情報量が少ないというハンデを抱えています。ICTはそういった情報格差を解決するためにこそ使うべきなのだと思います。
 また、今回訪問した学校でのPCやタブレット端末の使い方を見て印象的だったのは、非常に何気ない使い方をしているという点でした。例えば、紙のカードを撮影してその上にタブレット上で書き込みをしたり、アプリから流れる音楽に合わせて紙のノートに書いた計算の答え合わせをしたりと、日本だと「それタブレットでやる必要ある?」とつっこまれそうな内容も多かったです。これを「大金を使って端末を入れたのにその程度の使い方か」「紙でできることと同じことを端末を使ってやっても意味がない」と否定的に見る向きもあるかとは思います。
 ただ、私個人としてはむしろ逆なのではないかと思います。日本のように「わざわざ」生徒用端末を導入するのだからタブレットならではの「特別な」使い方をしないといけないと考えるのは、生徒用端末が未だに「特別」で「異質」なものから脱却していないからです。例えば会議の後にホワイトボードを携帯電話のカメラで撮影したりすることがありますが、フィルムのカメラが主流だったときにはそのような使い方はできませんでした。いつでもどこでもだれでも簡単にカメラが使えるようになったからこそほんのちょっとしたことにも使えるようになり、それによりできることも広がってきたのだと思います。同じように、教育用タブレットやPCも、文房具として細かい意味や意義など感じなくなるぐらい使い倒して初めて効果が出てくるものなのではないでしょうか。

 何度も書いてきた通り、文化も教育システムも違う国の取り組みは、それ自体をそのまま日本の一般の学校に落とし込むことができないのは無論のことです。しかし、こういった海外での事例に触れることで、日本の教育の長所や短所を見直し、フィードバックできる部分もたくさんあるのではないかと思います。今回の記事がそんなきっかけの1つになることができれば幸いです。

(東京書籍:清遠)