教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『未来を生きるスキル』

 鈴木謙介『未来を生きるスキル』を読みました。鈴木謙介さんのことは、文化系トークラジオLifeのメインパーソナリティとして、もう何年も聴いている方ですが、著書もいつもとても学び多いので、今回も楽しみに読みました。現在は、関西学院大学社会学部准教授として、学生たちとも接していることもあり、学生たちに対して「未来を生きるスキル」を伝えているのだろうな、と感じる本でした。読みながらメモしていた部分を、いくつかまとめておきたいと思います。

人生100年時代」を見据え、何が必要なのか?

 第1章と第2章では、働き方について書かれています。最初の部分でこの本での「未来を生きるスキル」というのがどういうものなのか、どういうものでないのか、ということが書かれています。

結論を言うと、僕がこの本で主張しようとしているのは、そうした「自分だけが生き残るスキル」を身に付けようとするのではなく、異なる価値観や能力をもった人びとが互いに協力し、「みんな」で生きていこうとする社会を作る、そういう考え方です。ですから、よく言われる「AIの普及に備えて生き残れるスキルが必要だ」といった主張にも、懐疑的な見方をしています。(p.18-19)

 AIが普及したところで、それがそのまま社会に反映されるかというと、そこには3つの問題がある、ということも書かれています。

社会の制度や人びとの反応は複雑なので、技術によって雇用を減らすことが可能になったからといって、それがそのまま社会に生じるとも限りません。それを踏まえたうえで、AIで失業が増えることよりも考えなければならない問題が3つあります。(p.23)
1 就業構造の変化自体に対する評価
2 環境の変化に対する人間の心理的抵抗
3 法規制や政策の影響

 ただ、「AIで失業が増える」というのがそう簡単にはいかないだろうと予測しているからといって、これまで通りのスキルでいいという話ではありません。では、どういったことをする必要があるのか、

人生100年時代」を見据えたとき、「ひとつの集団や生活基盤に頼らずに、リスクを分散して生きていく」必要性が出てきます。具体的には、家庭や会社だけではないもうひとつの場所、「サードプレイス」を作る必要性がいま言われています。(p.89)

 あらゆる基盤が流動的(リキッド)になる時代と社会は、ジークムント・バウマン『リキッド・モダニティ』(2000)のなかでも分析されているそうです。

 サードプレイスを作るためには、ICT(インターネット)は大きな武器になると思います。これまでは自分の声が届く範囲がコミュニケーションの限界だったのが、より広くなります。Google翻訳などを使うことで、言語の壁もある程度越えることができます。
 ひとつの組織に縛られるのではなく、さまざまなコミュニティに属しながら、自分の人生を生きていく、ということができるようになっています。働き方改革によって、会社にいる時間が減ったり、副業/複業などをする人が増えていったりすることによって、こうしたサードプレイスを探せる人と探せない人の差ができそうだと感じます。

教育にはどんな意味があるのか

 第3章では、育児・教育について書かれています。大学が全入時代になり、EdTechが活用されて、学校の存在意義についても再定義が進んでいくと思っていますが、そもそも、日本の社会において、教育とはどのような意味をもつと思われるのかが書かれていました。

「階級」は、海外では人種の差として現れたり、イギリスなどでは労働者階級とそれ以外の人たちとでまったく文化が違うと言われたりもします。しかし、日本の場合は、学歴こそが階級を区分する線になっている面があります。
逆に見ると、学歴以外の要素の影響が少なく、多様性が低いということ。日本における教育は、そんな社会の見えない格差の間に引かれる重要な補助線になっているのです。
(略)
ここで重要なのは、大学のランクによる差よりも、「大卒/非大卒」の差のほうが大きいということです。よくある例としては、就職で大卒以上しか応募資格がない企業があり、非大卒には最初から門が閉ざされていることなどがあります。
先に述べたように、世の中にある様々な分断線が想定されるなかで、日本は「学歴」がもたらす格差が非常に大きい社会だということです。(p.110-112)

 学歴による格差が存在することで、教育が果たす役割、教育がもっている意味については、以下のようにまとめられます。

だからこそ「教育そのものの効果」と、それによって「特定の仲間うちに入れる効果」のふたつの要素を切りわけて考える必要があります。(p.112)

 初等教育の段階で、「算数もうわからない」と降りてしまえば、ここでいう「特定の仲間うちに入れる効果」を得られず、その先の人生においての選択肢を失ってしまうことも多くあるのではないかと思います。だからこそ、初等教育における基礎学力はしっかり身につけてもらいたい、と思っています。
 もちろん、そのために先生方はたくさんの工夫をされているし、積み重ねてきた知見もたくさんあります。でも、そのすべてを行うのはあまりに大変だし、みんながだいたい同じ量の問題を、だいたい同じ速さで学んでいく、ということには無理が来ているとも言われています。ただ「テストで点が取れる」かどうかの話ではなく、将来的な格差にも繋がっているのだということは肝に銘じておきたいところです。

 それとは別に、多様な人と一緒に何かを探究するというときに必要なスキルとしては、2つのスキルが書かれています(p.128)。

1.他者を受け止めるスキル
2.他者と議論し、まとめるスキル

 こうしたスキルを身につけられる機会を、初等教育中等教育の間にもっと持たせたいと思います。総合的な学習の時間やプログラミング教育やプロジェクト学習(PBL)においても、こうした点をめあてにおいてカリキュラムを書くのもいいかな、と思いました。

Anywhereな人びととSomewhereな人びととソーシャル・キャピタル

 第4章では、地域・コミュニティについて書かれています。テクノロジーの進化によって、地域・コミュニティのあり方はどんどん変わっていきます。どのような変化が起こっているのかについて、非常にわかりやすく書かれていました。

経済合理性だけであらゆるものを「得するほう」へと置き換えていくと、関係を持続するよりも、「より安いほう」「お得なほう」に次々と乗り換えていくことが求められます。いわゆる「馴染みの街」や「顔見知りの店員」といった関係性は、お金の観点からすると不合理な面のある存在ですが、だからといってそれらを得するほうに乗り換えられるようにすると、かえって不安が増してしまうのです。
これまでは、すべてを商品化していくと言いながらも、起きていたことは生活の安定性をなんとか保ったうえでの商品化でした。しかし、いまの社会が直面しているのは、生活圏すらも流動化するような究極の商品化です。お得なほうに乗り換えていくのが便利で合理的だとなると、服や家具なんか買わずに全部レンタルすればいい。そもそもモノなんて持たないほうがいいし、すぐ移動できるようにしておいたほうがいい。
すると、次は人間関係もすぐ切れるようにしておいたほうが面倒でなくていい。ひとりでサヴァイヴしていける。そんな発想に変わっていきます。
それでは人間はお互いに幸せにやっていけないだろう、という心理的な反発が、いま世界中で起きているのです。(p.162)

 ここで、イギリスのジャーナリスト、デービッド・グッドハートが、著書『The Road to Somewhere』でおこなっている分析が紹介されています。

近年のポピュリズムの高まりなどの現象を、イギリスのジャーナリスト、デービッド・グッドハートが、著書『The Road to Somewhere』で端的に分析しています。世論調査の分析からあきらかにしたのは、イギリス人のメンタリティのなかで、「Anywhere」な人びとと「Somewhere」な人びとの分断が生じつつあるということです。(p.164-165)

 Somewhereな人びととAnywhereな人びとの特徴をまとめます。

Anywhereな人びと:

  • 多様性に寛容で、どこにでも適応することができ、学歴も流動性も高い人たち。
  • 典型例としては、外資系コンサルの社員や世界中を渡り歩くGoogleプログラマーのような人たち。
  • 高度な知識やスキルを武器に、自分をいちばん高く買ってくれる環境へホッピングするタイプのグローバルエリート。

Somewhereな人びと:

  • 慣れ親しんだ環境を愛し、多様性に不寛容で、学歴や流動性が低い人たち。
  • たとえば、地域の自営業の店主ら。

 日本でも、社会の中でAnywhereな人びととSomewhereな人びとが併存しているように思います。そして、しばしばここで価値観が合わず、信頼関係が損なわれていることもあるかもしれません。地域で息子の小学校のPTA活動をしていましたが、そのときにこういう感覚は受けました。地域のお年寄りからは、きっと僕はAnywhereな人だと見られていたのだろうな、と感じます。
 ただ、だからといってまったく歩み寄れないわけでもなく、信頼関係を結び、一緒に地域やコミュニティのためになる行為をすることはできます。この信頼関係が、「ソーシャル・キャピタル」になるのだと思います。

ソーシャル・キャピタルは、排他的であったり、他者に参加を強制したりするつながりにもなるので注意が必要です。しかし、現在のような入れ替え可能性が高い時代には、ソーシャル・キャピタルのポジティブな面についても着目すべきだと僕は考えています。


「便利すぎてなんか怖いわ」
「なんでも技術やお金で解決できるわけがないだろう」
「残すべきものまで失われてしまっただろう」


テクノロジーの進化を無条件に肯定し、つねに経済合理性だけでものを考えるあり方が勢いを増す社会のなかで、このように感じる人には、ソーシャル・キャピタルがある状態を理想とする感覚があるととらえれば良いと思うのです。(p.167)

これから目指していく方向

 第5章では、「人に残された最後の問題」として、家族・愛・絆について書かれています。これからの社会の目指す方向性が書かれています。

すでに多様化している社会。
そして、現実にそこでいま生きている僕たち。


だからこそ、これからの時代にはSomewhereな感覚を、僕たちの時代に合わせて「新しい形」で作っていけばいいのだと思います。多様性に配慮しながら、自分たちの場所にやってきた人たちとSomewhereな関係性を築くことができれば、Anywhereな感覚を活かしながら、Somewhereな関係性を両立させることができる。
難しいことを言っているのは百も承知です。現実には、移民排斥や半グローバリズム運動をはじめ、世界はそのようにはなっていません。
しかしそれでは僕らは幸せには生きていけないのです。
(略)
「多様な人びとと共生する Somewhere」というものは、社会学が目指す理想でもあります。多くの研究が、そうした場所やイメージや関係性を作ることを目指して日々行われています。


そして、それはこれからの社会が目指すべき方向でもあると、僕は強く信じているのです。(p.227-228)

 とてもポジティブなメッセージだと思いました。ここで書かれている、この方向性へ向かうために、教科教育だけでは足りないな、と感じます。教科教育で正しい知識を得ることはもちろん大切ですが、その先にその知識を使って、Somewhereな関係性をアップデートしていけるようにしなければならないのだろうな、と思います。だとすると、ICTを活用してのコミュニケーションや協働はますます重要なものになると思います。どのように社会のメンバーとして子どもたちを迎え入れるのか、そのために学校はどんな学びを提供すればいいのか、考える視点をもらったように思います。

(為田)