教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『SNS変遷史 「いいね!」でつながる社会のゆくえ』

 天野彬『SNS変遷史 「いいね!」でつながる社会のゆくえ』を読みました。変遷史なのでSNSがどう変わってきたか、というのが読めます。いまはSNSは、TwitterFacebookInstagramなどを使っていますが、振り返ってみればmixiMyspaceなども使っていたなあ、と懐かしく思い出しました。使っていないけれども、TikTokなどの話を教室で子どもたちから聞くことも最近はよくあります。
 SNSを通じて、テクノロジーとコミュニケーションの交差するところを知れるようで、非常におもしろかったです。読んで関心があったところを読書メモとして公開します。

 最初に、SNSの普及の速度が書かれていました。テクノロジーの普及の速度の尺度としておもしろいと思いました。

ユーザー5000万人を獲得するまでにかかった時間をまとめたレポートがある(Steemit社作成)。それによれば、自動車は62年、電話は50年、クレジットカードは28年、テレビは22年、コンピューターは14年、携帯電話は12年、インターネットは7年、YouTubeは4年、Facebookは3年、Twitterは2年ということになる。
テクノロジーの普及の速度が、加速度的に上がっていることがわかる――これが世の中の変化が速いなあと感じる要因である――し、FacebookTwitterといったSNSが、いかに圧倒的な速度で普及していったかが見て取れる。(p.4)

 SNSは素敵な出来事もたくさん生んでいるが、炎上や、なんとなく「SNSでのコミュニケーションは危険」というようなネガティブなイメージも強いように思います。

なぜ私たちはそこまで何かを発信したがるのだろうか。
SNSでのシェアの実践――それは自分が誰かに何かを伝えることでもあるし、同時に他のユーザーだちにその発信がどう見られているのかを確認することでもあるという二重性をはらむ。この二重性が、私たちにとってのシェアの価値に他ならないのだ。
そのあたりの事情を考察するうえでは、マサチューセッツ工科大学(MIT)科学技術社会論の教授で心理学者のシェリー・タークルが有益な視座を提供してくれる。
(略)
手軽にシェアすることに慣れた人々は、自分がオンライン上で何をシェアしているかによって自分のアイデンティティの形成と確認を行っていることを指している。デカルトの時代、啓蒙主義の時代においては、主体を確定する要件は何を考えるのかということによっていたが、現代ではシェアすることによって自分が形づくられると指摘しているのだ。(p.176-177)

 TED「つながっていても孤独」のなかの、「我シェアする、ゆえに我あり(I share, therefore I am.)」という言葉が紹介されていました。
www.youtube.com

 SNSをはじめとする、オンラインでのコミュニケーションや活動については、さまざまな形が出てきています。SNSでも、複数のアカウントを使い分けている様子なども出ています。朝井リョウ『何者』などでも描かれていました。それくらいには浸透しているということだと思います。

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

  • 作者:朝井 リョウ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/06/26
  • メディア: 文庫
何者(新潮文庫)

何者(新潮文庫)

 こうしたアカウントの使い分けについては、平野啓一郎さんの「分人」という考え方がおもしろいと思いました。

小説家の平野啓一郎氏は、『私とは何か』(2012)という本の中で、私たちが近代以降に慣れ親しんだ「個人」という単位を再考する提案を行った。
「個人」とは、英語のindividualの翻訳で、明治になって日本に輸入され翻訳されて広まった。individualとは、「分ける」という意味のdivideに、否定の接頭辞inがついたもので、「分けられない」という意味をなす。ここに宗教的な文化や神学の考え方、そして論理学や社会契約の観点が入り込み、社会を構成する分けられない最小単位としての「個人」が要請されるにいたる。
個であり続けること、それは社会的な要請であると同時に、現代的に言えばSNS上で求められることに他ならない面もある。(略)
(略)
平野氏の主張のエッセンスは、この「(分割不可能な)個人/individual」という、私たちに深く浸透した見方を抜け出そうということに集約される。つまり、分けられない個人から、分割可能な私の集積体=「(分割可能な)分人/dividual」へ、視座を転換しようという提案だ。
一人の人間にはいろいろな顔があり、複数の分人を抱えているはずだととらえる。人間には、いくつもの顔があること、相手に合わせることを肯定し、そのすべてが本当の自分であり、人間の個性とは、その複数の分人の構成比率のことだと認める。どんな相手にも、どんなTPOでも、変わらない自分を貫き通すというフィクションを手放そうという主張である。(p.257-258)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 また、デイヴィッド・ブルックス『あなたの人生の意味』から、「人間には本来、二つのプロフィールがある」という考え方が紹介され、アダムⅠとアダムⅡという2つの人格のモードについて述べられています。(p.260-264)

「人間には本来、二つのプロフィールがあるが、現代ではそのうちの一方だけが偏重されている」

  • 「履歴書に書かれるプロフィール」
    • Wikipedia
    • こちらを追求するのがアダムⅠ。大きな私。
    • 自分をより外へと拡張していくようなベクトルで、「獲得すること」を重視する。
    • 自分の探究や自己実現に向かう、意識の高い私。
    • SNSを通じたセルフブランディング、フォロワー数を上げて発信力向上…というのはこちら。
    • 行動基準が外にあるため、際限がないという危険性が伴う。
  • 「追悼文に書かれるプロフィール」
    • =友人知人からFacebookのようなSNSでコメントしてもらうもの。
    • こちらを追求するのがアダムⅡ。小さな私。
    • 自分の内面と向き合う中で磨かれ、利他的な貢献を志向する。世界が自分に何を求めるのかという態度を有する。

 SNS上での振る舞いについてまで、学校で教えることが必要かどうかは正直悩むところではありますが、こうした考え方やSNS上でどんなことが起こっているのか、ということは先生方は知っておいて損はないように思います。また、自分の価値観と少し違うからといって、「こんなの…」と評価をやめてしまわず、今の子どもたちの環境のなかに、こうしたSNSがあるということを理解しておくことが重要だと思います。

(為田)