教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『教え学ぶ技術 問いをいかに編集するのか』&『Thanks, you taught me how to think』

 苅谷剛彦/石澤麻子『教え学ぶ技術 問いをいかに編集するのか』を読みました。ICTを活用した授業では、調べ学習からプレゼンテーションという形はよくあって、自分の授業で実施することもあるのですが、「どう問いを立てるか」というのが本当に大事だと思っていて、それを教えていくことをしていきたいと思っています。そのヒントになるのではないかと思って、読みました。自分なりのメモを公開したいと思います。

 書籍としては、オックスフォード大学にて教鞭をとっている苅谷剛彦先生が、大学生と大学院生に対して行っている教え方を擬似的に体験できるようになっています。オックスフォード大学におけるチュートリアルとはどんなものか、以下のように書かれていました。

オックスフォード大学におけるチュートリアル(p.18-19)

  • たいていは週に1回1時間
  • 学生1人か、場合によっては2~3人を相手に一人の教員がついて行う。
  • 毎週、エッセイを書くための問い(エッセイ・クエスチョン)と、それに回答するために読むべき課題文献のリストが渡される(毎週10冊ほどの著書や論文)
  • それらを読んだうえで、エッセイを執筆する。エッセイでは、教員が出したエッセイ・クエスチョンに、文献リストに示された文献を使って、学生が自分なりに議論を展開し、解答を与える。
  • チュートリアルの時間には、事前に提出したエッセイをもとに、教員との間で質疑応答や議論が行われる。
  • 多くを読んだ上で書き、質疑や議論をするという学習を、毎週繰り返す(1学期に8回)
  • この他に、学習を補助するための講義が開かれ、エッセイ・クエスチョンに答えることを助ける知識が、教授から提供される。

 これだけのことをやる、特に「エッセイを何度も書く」というところを考えると、ICTを活用しなければ絶対にやりたくないな…というのが感想です。ICTを活用して執筆・推敲・提出・コメントなどを活用して、さらにエッセイ・クエスチョンの内容を調整すれば、もしかするとこのチュートリアルの形式は、高等教育でなくてもできる部分はあるかもしれないと思いました。

 チュートリアルで鍛えるスキルがなぜ必要なのかについては、何箇所かで書かれています。

鍵となるのは、問いをどの程度明確に意識できているかということである。問いを意識することで、その問いをうまく使いこなしているか、という問いの取り扱い方をメタレベルでとらえることができる。これは、問いの立て方と展開の仕方、すなわち、問いを自在に扱える思考力を身につけているか否かにかかっている。(p.10)

 “問いを自在に扱える思考力”というのは、実社会においても当然使えるスキルだということも説明されています。

社会に出てからも、私たちはさまざまな問題や課題(problems)に直面する。問題・課題への解答が求められることもある。その解答が、自分の判断になることも、自分の行動を決めるときの規準になることもある。こういう、さまざまな問題・課題(problems)を問い(puestions)としてとらえ直し、その問いへの答えを考えていくことで、その問題(problems)をより広くあるいはより深く理解し、適切な解決策を導くことが可能になる。実社会での問題解決(problem solving)に迫られたときにも、問いの立て方と展開という思考の技術が使えるということだ。(p.13)

 また、高校までの日本の学校での「探究」や「アクティブ・ラーニング」についてのコメントも書かれていました。

高校までの日本の学校では、最近取り入れられた「探究」学習のような方法がある。大学までを含め、今では「アクティブ・ラーニング」のような「主体的・対話的な、深い学び」をスローガンにした新しい学習=教授方法も奨励されている。これらの新しい学びでは、生徒同士の話し合いや議論を通じて問題解決をする学習が奨励される。こうした学び方で鍵となるのが、問いの立て方であり問いの展開である。
ところが、そのかなめとなる思考の技術を身につけるための具体的な方法が提示されないまま、あるいは適切な助言が与えられないまま、生徒や学生たちの自主性(「主体的な学び」?)に任せた学習で終わる場面が少なくない。教師からの何らかの助言や指導があっても、そこでどれだけの問いの立て方や展開の仕方が意識され、意図的にその思考技術を身につけさせようとしているかというと、それも十分とは言えない。課題を与え、内容に直接関わることがらについての助言や知識は提供できても、学ぶ側がどのように問いを展開していけば、より興味深い議論になるのか、発展性のある噛み合う議論ができるようになるのかは、提供できていない。そこにいたるまでの指導力(思考力に直接働きかける教える力)を発揮するのは、そう簡単なことではない。(略)知識の伝達に長けていることと、問いの展開に習熟していることとの間には、教師のスキルとして大きな違いがあるからだ。前者で終わってしまう教師は(大学を含めて)、探究学習のような場面でも知識の提供で十分だと思ってしまう。知識や情報の集め方や読み取り方には目が行っても、そこで集めた知識や情報を、問いの展開をテコにしてどのように生かすのかには気が回らない。あるいは、プレゼンテーションをうまくやるという結果にばかり目が行ってしまい、その過程で育成すべき思考力(問いをいかに編集するのか)に意識が及ばない。問いの立て方・展開の仕方を学ばせること自体が、学習の目標として掲げられることが十分に意識されているとは思えないのである。(p.14-15)

 時間をすごくかけなければいけないこと、指導者との濃密なやりとりが必要になるだろうこと、を考えると、高等教育でないと難しそうだ、とは思いますが、小学校~高校でもこうした“問いを自在に扱える思考力”を学びのめあてとして背景に持っておくことでできる授業設計はあるのではないかと思いました。

 最後におまけですが、参考文献としてPalfreyman, David, ed., The Oxford Tutorial: `Thanks, you taught me how to think'*1が紹介(p.26)されていたのですが、ここで書かれていた「教育された市民(an educated citizen)という言葉は、公教育のアップデートを目指している自分たちの方向性に近いように感じたので、ここでメモとして挙げておきたいと思います。

高等教育とは、生涯にわたる学習やキャリアの再生を人びとに準備するものであり、生涯を通じて社会に対し、教育された市民(an educated citizen)として貢献するための(技能を持つ訓練された労働者として経済に貢献するだけに留まらず)準備を与えるものである。(p.10)

 「教育された」市民の資質については、以下のように書かれていました(p.10-11)。

  • 「高等教育とは、批判的な思考をリベラルな教育を通じて発達させることである。」
  • 「高等教育は、どのような科目を通じてであれ、個人のコミュニケーションと批判の能力(統合・分析・表現)を発展させることである。」
  • 「そこでの特徴は、いずれは時代遅れとならざるを得ない知識をつねにアップデートする方法を学ぶ能力を身につけると言うことである。」

 「いずれは時代遅れとならざるを得ない知識をつねにアップデートする方法を学ぶ能力を身につける」は、これからの時代に絶対に必要な力だと思います。

(為田)

*1:おお、Kindle版だと超安い!読もうかな…