中村高康『暴走する能力主義 教育と現代社会の病理』を読みました。ハッシュタグ「#暴走する能力主義」をつけて読書メモをつけていたので、ここでとりまとめます。
「いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である。こうした前提に立った場合に世の中の見方が変わってくるのではないか、といくのが本書でこれから繰り返し論じていく主張である。」(p.24) #暴走する能力主義
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年1月28日
なぜ人々は「新しい能力を求めなければならない」という議論を渇望するか、についての答えを導く5つの命題(p.47-48):
学習指導要領を読んでいると、「とてもいいことが書いてある」と思う反面、そんなに学校の先生に背負わせていいのだろうか…と思うこともあります。どうしてそういうことになるのか、ということを考えるひとつのきっかけになるかと思います。また、新しく身につけさせたい能力やスキルが出てくると、これまでの教育が全部ダメだったかのように書かれることが多いですが、決してそんなことはないと思っていたので、そういう視点でも読んでいて非常に勉強になりました。
「私たちが問題として議論する「能力」は、社会なり世の中なりに対して大きな価値がある能力のことを暗黙のうちに前提としておいている。だから、「鞄を持つ能力」とか(略)は能力に違いないが、議論の俎上には載ってこない。つまり、その時点で能力の議論は十分に社会的」(p.84) #暴走する能力主義
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年1月28日
「しかし、そうした能力を正確に測ることはほぼ不可能である。どこかで妥協するしかないのだ。そして、その妥協こそ、さらなる社会の浸潤を許す最大の要因なのである。それを説明するのが、次章の主題である「能力の社会的構成」という考え方である」(p.84) #暴走する能力主義
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年1月28日
「抽象的な能力は近代社会によって求められているわけであるから、「うまく測れない」ということで済ますわけにはいかない。」(p.86) #暴走する能力主義
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年1月28日
「認知能力よりも非認知能力の方が重要だ」という言説もよく見られますが、非認知能力についても言及されています(Twitterだとスレッド表示になって読みにくいので、引用します)。
「教育関係の文章をよく読む人ならば、「非認知能力」も、キー・コンピテンシー同様に、業界の流行語であることに気付いていることだろう。その一つの大きなきっかけは、アメリカのノーベル経済学賞受賞者、ジェームズ・J・ヘックマンの研究であった。」(p.224)
「その肝のところだけ簡略化していえば、学力に代表される認知的能力だけではなく、肉体的・精神的健康や根気強さ、注意深さ、意欲、自信といった非認知能力も、子どもの将来の成功可能性に影響するということ、そしてそれは幼少期の環境が重要」(p.224-225)
ヘックマンの議論に異を唱える経済学者もいる。「教育の経済学的研究で著名な赤林は、幼児教育無償化の議論でしばしばその根拠にヘックマンが用いられることについて、「米国と日本の社会的背景の違いを無視した暴論」だと指摘している。」(p.225)
「赤林によれば、ヘックマンの主張は、五〇年前の米国で、教育環境が悪く、教育機会にめぐまれない就学前の子どもに、質の高い教育を施したときの効果の測定結果に基づいており、ほとんどの人が幼児教育(保育所を含む)を受けている日本の現状とは条件が違いすぎる」(p.225-226)
「私も、赤林の批判に説得力を感じる一人である。そして、ヘックマンの主張が幼児教育への投資だけではなく、非認知能力の重要性を訴えるものである以上、そちらについても批判的検討が必要であると考えるのである。」(p.226)
「なぜなら、私には非認知能力の強調それ自体が、メリトクラシーの再帰性現象のように見えてしまっているからである。(略)非認知能力というのは、それ自体を単純に取り出してしまえば、本書で再三指摘してきた抽象的能力そのものだからである。」(p.226)
「心理学者の遠藤利彦による研究報告書では、非認知能力に関する心理学的研究のレビューがなされているが(遠藤 2017)、これを見ると非認知能力にほぼ対応するものがすでに心理学によって分厚く議論されてきたことがわかる。」(p.226)
「同時に、非認知能力という概念は幅が広く曖昧であり、必ずしも「能力」とはいえないようなものも含みうる概念であることも指摘されている。こうした指摘を見ても、非認知能力は本書でいうところの抽象的能力なのである。」(p.226-227)
「現代において語られる抽象的能力は、しばしば、かねてから認識されてきたような陳腐な能力論に陥りがちであり、また仮にそうでないとしても実際に測定することは必ずしも容易でない能力であることがお多い。」(p.227)
「ここでもキー・コンピテンシーと同じ問題が起こっている。すなわち、非認知能力は、新しい時代に対応した未知の能力なのではなく、昔から実生活の中で重視されてきたごく普通の能力が、焼き直されてきたにすぎない可能性である。」(p.228)
「そして、そうした非認知能力的なものは、多くの場合、どの国の教育政策においても無視されてはおらず、程度の差はあれ、すでに教育課程のなかに組み込まれていたりする。」(p.228)
「メリトクラシーの再帰性」というキーワードです。これは、「メリトクラシーは反省的に常に問い直され、批判される性質をはじめから持っている」というもの。この観点をもって、新しく必要とされる能力について、しっかり考えていかなければならない、ということが示されます。
「メリトクラシーの再帰性という視座が確保されることで別の「新しい能力」が発見されるようになることはないけれども、この考え方をとれば、少なくとも私たちが「新しい能力」を求めて右往左往する」ことなく、「冷静さを取り戻すのに多少は役立つ」(p.233) #暴走する能力主義
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年1月29日
「本書で示したメリトクラシーの再帰性というアイデアは、現代社会の特徴を描くために考え出されたものである。しかし、同時に「新しい能力」をめぐる議論がまさに空中戦であり、「暴走する能力主義」であることをも容易に理解させてくれる」(p.237) #暴走する能力主義
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) 2019年1月29日
子どもたちが10年後、20年後に、自己実現ができるように、幸せに生きられるように、どんな能力を身につけさせて学校から社会へ送り出せばいいのか、ということを考える際の考えるポイントを与えてくれる本だと思います。
(為田)