教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:スティーヴン・キング『書くことについて』

 スティーヴン・キング『書くことについて』を読みました。スティーヴン・キングといえば、『グリーンマイル』などベストセラーを何作も書いている作家ですが、子どもの頃から、どのように小説を書いてきたのか、ということの回想と、「書くこと」についての指南を読むことができます。
 特に、学校での作文教育や文章を書く活動をするときに、何かヒントになるところがないかと思いながら読みました。
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読者の存在が重要

 スティーヴン・キングは子どもの頃から作品を書いていて、ウサギを主人公にした短い物語(全4話)を書いてお母さんに読んでもらっていて、1話につき25セントをもらっていたそうです(原稿料をもらうのがはやい…笑)。
 早々に読者がいたということなのですね。作文って、「誰かに読んでもらう」ということは本当に大事だとあらためて思いました。学校で作文をしてもらうときに、「読者がいる」ということを明確にして、誰かに読んでもらうために書いてもらう、という設定になかなか自分はできていないな、と思いました。

 スティーヴン・キングリスボンの週刊新聞で勤めていたときに、編集長ジョン・グールドから教わったことが紹介されていました。

「何かを書くときには、自分にストーリーを語って聞かせればいい。手直しをするときにいちばん大事なのは、余計な言葉をすべて削ることだ」
このとき、グールドはほかにも含蓄のある言葉を口にした―ドアを閉めて書け。ドアをあけて書きなおせ。言いかえるなら、最初は自分ひとりのものだが、次の段階ではそうではなくなるということだ。原稿を書き、完成させたら、あとはそれを読んだり批判したりする者のものになる。運がよければ、批判するより読みたいと思う者のほうが多くなる。これは私の個人的意見だが、ジョン・グールドもきっと賛成してくれると思う。(p.72)

 「何かを書くときには、自分にストーリーを語って聞かせればいい」は、実践ができるかもしれないので、書いてもらった文章を自分で読んで推敲していくというのは授業でやってみようかな。
 もうひとつ、「ドアを閉めて書け。ドアをあけて書きなおせ」というのは、あすこま先生の授業を見学したときに、生徒たちにおっしゃっていたのを覚えています。とてもいい言葉だと思います。文章は、「読んでくれる誰か」のためのもの、ということで、これもやはり読者の存在を意識しなさいということだと思います。

 「ドアを閉めて」、一人でどんどん書いていくことは、ICTを活用してどんどん書き、どんどん推敲させることで実現できるように思います(もちろん、その前段階として手書きで書けるようになっていることは必要だし、タイピングスキルのトレーニングも必要です)。「ドアをあけて」、誰かのためにどんどん書き直していく部分も、例えばクラウド上にデータを保存してクラス内で公開してコメントができるようにすれば、原稿用紙に書かれた文章をみんなで回し読みするよりもずっとたくさんの読者を用意することができるように思います。
 小学生であれば、スクールタクトやロイロノート・スクールなどの授業支援ソフトでできると思いますし、中学生以上であればGoogleドライブを使うことで実現できると思います。

書くことと読むことが重要

 英語と日本語で少し違うかもしれませんが、書くという作業のなかでのパラグラフの重要さについて書かれている部分を引用します。

書くという作業の基本単位はセンテンスではなく、パラグラフだ。ここで干渉作用が始まり、言葉は言葉以上のものになる機会を得る。内側から何かが動きだす瞬間があるとすれば、このパラグラフのレベルにおいてである。それは驚くほど融通のきく道具であり、ときにはワン・ワードのこともあるし、ときには何ページにもまたがることもある(略)。いいものが書きたければ、パラグラフを使いこなさなければならない。そのためにはリズムを体得する必要がある。そのためにはトレーニングあるのみ。(p.181)

 ICTが普及していくことで、コミュニケーションの範囲は、ますます広がっていくと思っています。そうすると、これからの子どもたちは、自分の周りにいる人たちだけでなく、もっと多くの人が読む文章を書くことになると思っています。作家になることまでを目指さなくとも、「人に何かを伝えられる文章を書く」ということができるのは、大きな武器になるのではないかと思っています。

作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知るかぎり、そのかわりになるものはないし、近道もない。
(略)
気に入った文体が見つかれば、それを真似すればいい。何も悪いことではない。(略)そういった他人の文体のブレンドは、自分の文体をつくりあげるために欠かせないものである。真空状態からは何も生まれない。作家は多くの本を読み、それと並行して、たえず自分の作品に手を加え、純度をあげていかなければならない。(p.192-195)

 そのためには、時間をかけて「たくさん書く」ということが重要であり、またそのための準備として、「たくさん読む」ということが必要になってくるのだと思います。では、どのくらいの量を読めばいいのか?どのくらいの量を書けばいいのか?ということも考えていきたいところです。

才能は練習の概念を変える。どんなことでも、自分に才能があるとわかると、ひとは指から血が出たり、目が飛びだしそうになるまで、それに没頭する。聞いている者や、読んでいる者や、見ている者がいなくても、それは素晴らしいパフォーマンスになる。ひとはクリエーターとして幸せになる。エクスタシーを感じさえするかもしれない。本を読んだり、ものを書いたりするのも、楽器を演奏したり、野球のボールを打ったり、フルマラソンを完走したりするのと同様である。毎日、四時間から六時間を読んだり書いたりするのにあてるべしと言えば、けっこう厳しいと思う者もいるだろうが、しかるべき才能があり、それを楽しむことができるのなら、まったく苦にはならないはずだ。(略)
読むことが何より大事なのは、それによって書くことに親しみを覚え、書くことが楽になるということである。(p.199-200)

 ICTが教育現場に導入されることで、子どもたちの思考手段や表現手段を拡充できると思っています。そのために、これまでに蓄積されてきている読書教育や作文教育の知見と組み合わせていくことが必要だと思います。そうした事例をどんどん紹介していきたいです。

(為田)