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書籍ご紹介:『それを、真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力』

 レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば 危機の時代と言葉の力』を読みました。大統領選の不正、トランプ政権、ジャーナリズムの課題などについて書かれたエッセイ集です。アメリカの話題ではありますが、日本に通じるものもたくさんあります。いま、このタイミングで読んでよかったな、と思う本でした。興味深かった部分をメモとして公開したいと思います。

それを、真の名で呼ぶことの重要性

 書名の「それを、真(まこと)の名で呼ぶならば」とは、いったい何だろう?と思う人が多いかと思うが、その理由については、まえがきで書かれています。

アールネ-トンプソンによる昔話の分類のひとつに、「謎めいた、あるいは威嚇的な援助者を、主人公が名前を知ることで打ち負かす」という型がある。遠い昔の人びとは名前に強い力があることを知っていた。現在でもそれを知っている人はいる。ものごとを真の名で呼ぶことは、言い訳をし、ぼかし、混乱させ、偽装し、逃げるため、あるいは、怠慢や、無関心や、無自覚を促すためにつかれた嘘を、切り裂く。それだけでは世界を変えるのに十分ではないが、真の名前で呼ぶことは、重要な工程なのだ。
課題が深刻なものである場合、それを名づける行為は「診断」だとわたしは考える。診断名がついた病のすべてが治癒可能というわけではないが、何に立ち向かっているのかをいったん理解できれば、それにどう対処するべきかがはるかにわかりやすくなる。
(略)
ものごとに真の名前をつけることは、どんな蛮行や腐敗があるのか――または、何が重要で可能であるのか――を、さらけ出すことである。そして、ストーリーや名前を変え、新しい名前や言葉やフレーズを考案して普及させることは、世界を変える作業の鍵となる。解放のプロジェクトには、新しい言葉を作り出すか、それまで知られていなかった言葉をもっとよく使われるようにすることが含まれている。(p.1-2)

 現代の社会においては、どんなものが、真の名で呼ばれていないのか、ということについての説明もされます。どんな名で呼ぶのかということが、「世界を変える作業の鍵となる」からこそ、さまざまな言葉が使われていて、それを意識的に見るかどうかは重要だと思います。

現時点での危機のひとつは言語的なものなのだ。言葉は曖昧な意図のぬかるみへと退廃する。シリコンバレーは、「シェアリングエコノミー」、「ディスラプション」、「コネクティビティ」、「オープンネス」といったフレーズの数々に飛びついて上辺を飾り、自分たちのアジェンダを押し付ける。それらを「監視資本主義(サーヴェイランス・キャピタリズム)」といった用語が押し返す。現在の大統領の、まわりくどく、ろれつが回らない、意味不明の言葉のサラダや、たとえ昨日と今日とで言うことが異なっても彼がそうだと言えば真実であり事実だという主張といった言葉の暴力は、言語そのものに対する暴力だ。(略)
人生の意味の探求は、人生をどう生きるのかにかかっているが、同時に、それをどう言葉で述べるのか、また、自分のまわりにほかに何が存在しているのかにもかかっている。本書に収めたエッセイのひとつに、わたしは、「そのものを真の名で呼ぶことにより、わたしたちはようやく優先すべきことや価値について本当の対話を始めることができる。なぜなら、蛮行に抵抗する革命は、蛮行を隠す言葉に抵抗する革命から始まるのだから」と書いた。
(略)言葉に関して注意深く、正確であることは、意味の崩壊に対抗し、希望と展望を植えつけるべき愛すべきコミュニティとの対話を勇気づけるひとつの手段である。本書に収めたエッセイでわたしが試みたのは、ものごとを真の名で呼ぶことなのだ。(p.6-7)

 僕は、教育業界で仕事をしています。特に最近は、「教育の情報化」に関わる仕事が多いです。そこでも、同じように言葉の使い方で見えるようになることと見えなくなることがあるように思います。どんな言葉を、真の名で呼べるかを考えることは重要だと思います。
 「学びの個別最適化」「遠隔授業」「オンライン授業」「不登校」「皆勤賞」「授業アンケート」「PTA」などなど、いろいろなイシューを、違う名で呼ぶことだってできるかもしれない、と思いながら読み進めていきます。(もちろん、「真の名」を簡単に見つけられるのか、その「真の名」が誰にとっても同じなのか、など考えなければならないことは他にもありますが…)

「無邪気な冷笑家たち」にならないように

 この本は、主に現代アメリカをとりまくさまざまな状況についてのエッセイ集です。「無邪気な冷笑家たち」というエッセイが収録されているのですが、非常にインパクトがありました。
 ここで「無邪気な冷笑家たち」と呼ばれている人たちのことが書かれているのですが、僕が以前ある授業で、「ヒョーロンカ」と呼んだ人たちのことを、よりきちんと言葉にしてくれていたように思います。

わたしたちは、ニュースメディアなどの社会通念の提供者たちが、過去より未来を報告したがる時代に生きている。彼らは世論調査をし、つづいてどうなるかを報じるために誤った分析をする。(略)何度も間違ってきたにもかかわらず、予言する癖をやめようとしない。また、わたしたちのほうも、そうした予言を甘んじて受け入れている。彼らがもっとも報じたくないのは、「実際にはわからない」ということだ。
評論家以外の人びともまた、粗悪なデータを使ってそれより粗悪な分析を行ない、非常に強い確信を持って、過去の失敗、現在の不可能性、そして未来の必然性を宣告する。こういった発言の背後にあるマインドセットを、わたしは「無邪気な冷笑」と呼ぶ。その冷笑は、人が可能性を信じる感覚や、もしかすると責任感までも萎えさせてしまう。
冷笑は、何よりもまず自分をアピールするタイプの一種だ。冷笑家は、自分が愚かではないことと、騙されにくいことを、何よりも誇りにしている。しかしながら、わたしが遭遇する冷笑家たちは、愚かで、騙されやすいことが多い。世を儚んだ経験そのものを誇る姿勢には、たいていあまりにも無邪気で、実質より形式、分析より態度が優位にあることが表れている。
(略)わたしが「無邪気な冷笑」を懸念するのは、それが過去と未来を平坦にしてしまうからであり、社会活動への参加や、公の場で対話する意欲、そして、白と黒の間にある灰色の識別、曖昧さと両面性、不確実さ、未知、ことをなす好機についての知的な会話をする意欲すら減少させてしまうからだ。(略)
無邪気な冷笑家は、可能性を撃ち落とす。それぞれのシチュエーションでの複雑な全体像を探る可能性を含めて。彼らは自分よりも冷笑的ではない者に狙いをつける。そうすれば、冷笑が防御姿勢になり、異論を避ける手段になるからだ。(p.66-67)

 自分は、さまざまな問題に直面したときに、「無邪気な冷笑家」になっていないだろうか、と考えさせられます。そうならないためにどうすればいいのだろう、と思わされます。教育を取り巻く問題について、自分はどんな態度で向き合っているのかを考えさせられます。

無邪気な冷笑の代わりになるものは何だろうか?起こったことに対して積極的な対応をすることであり、何が起こるのか前もって知ることはできないと認識することだ。そして、何が起こるにせよ、かなりの時間がかかるし、結果も良いことと悪いことが混じっていると受け入れることである。このような態度が正しいことは、歴史的な記憶、間接的な影響、予期せぬ大変革や勝利、累積的な効果、そして長い時間軸が裏づけてくれている。
無邪気な冷笑家は、世界よりも冷笑そのものを愛している。世界を守る代わりに、自分を守っているのだ。わたしは、世界をもっと愛している人びとに興味がある。そして、その日ごとに話題ごとに異なる、そうした人たちの語りに興味がある。なぜなら、わたしたちがすることは、わたしたちができると信じることから始まるからだ。それは、複雑さに関心を寄せ、可能性を受け入れることから始まるのだ。(p.74)

 「無邪気な冷笑家は、世界よりも冷笑そのものを愛している。世界を守る代わりに、自分を守っているのだ。」…ものすごく突き刺さる言葉だと思います。

「地球の破壊」に、真の名をつける

 「気候変動は暴力だ」というエッセイの中でも、真の名をつけることが語られています。

「地球の破壊」というのはありきたりぎるフレーズだが、それを飢えた子どもの顔や荒れ果てた土地に置き換え、それを何百万倍にしてみよう。あるいは、いままさに酸化している海で貝殻を作ることができなくなっている帆立貝、牡蠣、北極の巻き貝などの軟体動物の写真に。あるいは、次に都市を引き裂く新たな大型の嵐にも。土地や生物に対してと同じく人間に対しても、気候変動は世界規模の暴力なのだ。そのものを真の名で呼ぶことにより、わたしたちはようやく優先すべきことや価値について本当の対話を始めることができる。なぜなら、蛮行に抵抗する革命は、蛮行を隠す言葉に抵抗する革命から始まるのだから。(p.108)

 「地球の破壊」というありきたりすぎるフレーズで考えるのでなく、それを何と結びつけてイメージを持つのか。こうしたことができるようになることも、教育が果たすべき役割だな、と感じました。

すぐに結果が出なくても、持続すること

 最後に収録されているエッセイ「間接的に起こる成果を讃えて」は、指針として力をくれるエッセイだと思います。
 最初に、ミシェル・フーコーの言葉、「人は自分が何をやっているのか知っている。多くの場合は自分がなぜやったのかも知っている。知らないのは、自分がやったことの影響だ」が紹介されます。自分のあとに道ができていけばそれでよい、と考えていきたいと思いました。そして、直近では成果が出なくても、その後でそれが成果となってくることだってあるのです。

あなたは自分にできることをやる。あなたがやったことは、これから何世代にもわたって、あなたの想像を超えたことを成し遂げるかもしれない。(略)あなたは自分にできることをする。自分のベストを尽くす。それがもたらす影響は、もはやあなたの責任ではない。(p.226

 結果がすぐに出なくてもいい、持続して取り組み続けることに意味がある、ということを力強く伝えてくれるメッセージでした。

この仕事は、持続されてこそ意義がある。持続させるためには、無数の小さな漸進的な行動が重要なのだと、人びとが信じなければならない。結果がすぐに出なくても、あるいは明白でなくても、意義があるのだ。候補者の当選やパイプライン建設を阻止するとか、あるいは法案を可決させると行った直接の目的に失敗したときでも、あなたは、もっと大きな変革がより可能になるよう、枠組全体を変えたのかもしれない。ストーリーあるいはルールを変えること、ツールやテンプレートを与えること、あるいは将来の活動家を励ますことで、あなたはまわりにいる人びとが努力をつづけられるように促すことができるのだ。
それが重要だと信じることで……まあ、未来を見ることはできないにしても、過去は自分のものにできる。過去は、パターン、モデル、類似性、道理、リソースを与えてくれる。そして、勇敢さと栄光と不屈のストーリーと、意義がある仕事をしているときに感じる深い喜びを、与えてくれる。それらを手にし、わたしたちは可能性をつかみとり、希望を現実に変えていくことができるのだ。(p.230)

「訳者あとがき」から

 最後に、本書の訳者である渡辺由佳里 さんによる「訳者あとがき」も収録されています。ここも、本編に負けず劣らず、すごく好きなところでした。

ソルニットは、私より政治的には左よりの立場だと思う。政策面ではきっと同意できないところもあるだろう。だが、極端なイデオロギーの背後になる怠惰さを指摘し、長期的な視点での社会運動の重要さを何度も語る彼女のエッセイを読んで、これまでと考え方が変わったところもある。私たちの間に違いはあっていいし、完璧である必要はない。それを認め合い、あきらめずに語り合い、活動することが必要なのだ。
(略)
私は、子どもの頃から魔法が出てくるファンタジーが好きなのだが、欧米の魔法ファンタジーでは「真の名前」は非常に重要な意味を持つ。「真の名前」は本人の真相を表わすものなので、他人に知られるとパワーを明け渡すことになる。だから魔力を持つ者は真の名を隠すのだ。
だから私たちがパワーを持つためには、現在起こっていることを誤魔化さず、見過ごさず、深く掘り下げることで、ものごとの「真の名」を見つけることから始めなければならない。そして、見つけたら、その真の名を堂々と使うことにも慣れなければならないのだ。
私の周囲にある「真の名」を見つけて語ることを、これからの私の人生の目標にしようと思う。(p.235-236)

 僕も、周囲にある「真の名」を見つけていくことを、行動において実践していこうと思います。

まとめ

 「それを、真の名で呼ぶ」ということについて、いろいろと考える機会をくれた本です。この視点で、学校や先生の仕事を見ていったときに、どんな「真の名」を見つけられるのか、考えていきたいと思います。

(為田)