教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『CONTEXT DESIGN』

 東京とロンドンを拠点に、人工衛星から和菓子まで幅広くものづくりに取り組むデザインファームTakramの渡邉康太郎さんが書いた、『CONTEXT DESIGN』を読みました。
 デザインには、伝えたい意図があって、それを伝えるための設計のこと、というように自分では思っていました。文章、音楽、映像、さまざまなメディアでデザインは行われています。「コンテクストデザイン」では、作り手の意図が伝わるだけではなく、そこから受け取った人がどういうことをしていくのかという部分を重視しています。
 こういった部分は、教育やカリキュラム作りに通じるものがあると思っています*1。教育に関連すると思う部分を中心にしたメモを公開します。
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コンテクストデザインとは、それに触れた一人ひとりからそれぞれの「ものがたり」が生まれるような「ものづくり」の取り組みや現象を指す。換言するならば、読み手の主体的な関わりと多義的な解釈が表出することを、書き手が意図した創作活動だ。
(略)
コンテクストデザインは、完成されたものの使用による意図通りの価値提供を目的としない。むしろ未完成のものの使用によって、意図した価値提供を超え、デザイナーの創造の先へとものがたりを波及させることを目的とする。(p.12)

「強い文脈」と「弱い文脈」

 「コンテクストデザイン」の中にある「コンテクスト」という言葉は、「文脈」という意味で使うことが多いですが、文脈をさらに「強い文脈」と「弱い文脈」に分けて考えていきます。

作品と解釈の関係性を議論するために、ここで文脈の「強弱」を考えてみよう。コンテクストデザインという体系のなかで、「強い文脈」と「弱い文脈」というものを定めることにする。
強い文脈とは、作品における作者の意図、歴史的な位置づけ、広く認められている読解を指す。強い文脈は通貨のような普遍的な流通性を備えている。それはある正統性を保証するので、多くの人へ語り掛けることができ、否定されにくい最大公約数としての性質を持つ。ただそれ故に、個人にとっての特別な意味にはなりにくい。これは「強い文脈の弱さ」だ。
弱い文脈とは、ある個人の解釈や、その作品に結びつけているエピソードを指す。これには流通性や正統性がない。よって単体ではとても弱く、誤読である可能性も高い。しかし弱い文脈にはそれ故の逆説的な強さが備わっている。「弱い文脈の強さ」だ。
弱い文脈の強さは、「読み手」がいつのまにか「語り手」になってしまう点にある。弱い文脈を、つまり個人的な解釈の糸口を持つことは、読者があるエピソードの作者となることを意味する。その糸口は、秘密として持ちつづけることもできるし、誰かに語るときに自らの人生を預けて、本心を明かすために使うこともできる。この作品への主体的、積極的関わり、作品世界への参与、秘密の所有や語りによって、読者はある解釈の持ち主となり、ひいてはその解釈を通じて作品そのものの持ち主になる。解釈をすることで、読者は作者になる。単なる読み手を越えて、その作品の一端を担う語り手になる。
大事なことは、強い文脈にも弱い文脈にも心を開くことだ。両者を兼ね備えているところに最大の可能性がある。それらはお互いを高めあうのだから。(p.19-20)

 誰でもが同じように受け取る普遍的な「強い文脈」と、ひとつの解釈でなくさまざまな解釈を許す「弱い文脈」。弱い文脈である方が、「作品そのものの持ち主」になることができる、というのがおもしろいと思いました。

語りきられたものと、語られないもの。両者のちょうど中間を目指せないか――コンテクストデザインの意図はここにある。語り継がれるもの。書き手が意図した一定の概念と同時に読み手一人ひとりが自ら主体的に解釈し独自のコンテクストを「所有する」もの。誰もがつい自らの言葉で語りはじめてしまうもの。それをつくるのがコンテクストデザインだ。
言葉が日照りも洪水も起こしていない状態。これは強い文脈と弱い文脈(ないしその発生可能性)がちょうど釣りあっている状態だ。充分に判読でき、また誤読の余白があるもの。わかるけれど、少しわからないもの。もしくは全員が「わかった」といいながら、その実、少しずつ解釈が異なっているもの。このような状態をもって「文脈が豊かである」と考える。(p.25-26)

 学校の授業で「文脈」を扱うのは何の授業だろう?と考えると、国語の授業かなと思います。みんなが同じように文章を読んで解釈できる、ということはもちろん大切なことですが、それだけでなく、さまざまな解釈が生まれる「弱い文脈」を読み、自分が作者側に回るような、そんな国語の授業があってもおもしろいかもしれないと思いました。歴史などの授業でも、文脈は大事だといえるかもしれません。
 文脈が豊かな授業とはどんなことが考えられるだろう、と考えさせられます。そもそも、この文章を読んで教育のことを考えていること自体が、「誤読の余白」があるからこそだと思います。「コンテクストデザイン」で考える「弱い文脈」、とてもおもしろい考え方だと思います。

「社会彫刻」という考え方

 はじめて「社会彫刻」という言葉を知りました。学校教育で「君たちは社会彫刻家である」というメッセージは発してあげたいな、と思いました。

ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys 1921-1986)はすべての人間は芸術家であるとした。ここでの芸術とは、いわゆる建築、舞踏、音楽、詩、絵画などに限定されるものではなく、拡張された芸術概念で、教育や社会運動等も含む。ボイスは意識的な活動であれば、それが日常茶飯事であっても家事であっても芸術なのであって、そういった行為の積み重ねによって誰もが社会を彫刻しているし、より良い社会を彫刻せねばならないとした。「社会彫刻」という概念だ。コンテクストデザインはこの概念と共振する。コンテクストデザインはあらゆる創作を期待する。なぜならばすべての創作は社会彫刻であるから。コンテクストデザインはまたあらゆる論理的に可能な読解を期待する。なぜならばすべての読解はのちの創作につながるから。(p.36)

個人が自分なりの形で社会に身を置き生きること自体が、すでに創作行為の、社会彫刻の第一歩なのだと考えたい。なぜならば社会は一部の限られた作家たちによってのみつくられているのではないのだから。誰もが臆せずに意思を表明したり行動を起こせるとよい。その発露が少しでも増えるとよい。自らの創作を、社会彫刻をすでに行なっているならば素晴らしい。(p.37)

 社会に参画していく子どもたちが学ぶ場である学校では、個々人が社会彫刻に取り組めるということを感じられるようになることは大事だと思います。「社会」といういちばん大きなレイヤーでなくても、「学校」「クラス」「グループ」…小さいところでもいいですが、自分が属するコミュニティに働きかけができる、ということを何度も実感できることが、学校の良さだと信じています。事実、そうしたことを目指して学校運営、学級運営をされている先生方はたくさんいらっしゃいます。
 そうした先生方と、「コンテクストデザイン」についてお話ししてみたいな、と感じました。

コンテクストデザインは、個々人が自らの創作=社会彫刻に取り組める社会の実現を目指す。コンテクストデザインは、そのために個人を後押しする。コンテクストデザインは、あらゆる人が他者の社会彫刻の鑑賞と解釈を通じて、いつのまにか自身の社会彫刻へと移行することを促す。
(略)
コンテクストデザインはあらゆる人が世界の建設に加担していると実感できる世界を目指す。コンテクストデザインは、人間を、生を肯定する。コンテクストデザインは、そのためのささやかな補助線を引く。(p.38-39)

コンテクストデザインの実例

 コンテクストデザインの例として、「わかるとわからないのちょうど中間に位置するようなものが心地よい思考を促す」として、これまでにデザインされた表現が挙げられていました。新しいことを社会に実装していく(≒社会彫刻)ときのアイデアとして、とても重要だと思いました。

わかりそうでわからないものは知的好奇心を刺激する。わかりたいという欲求や、いまにもわかるであろう予感がドーパミンを分泌させる。ただし、あまりに理解から遠ざかってしまうと、畏怖や軽蔑の対象となる。(略)「わからない」の度あいの設定は非常な繊細さを要する。
世にこれまでになかったあたらしいものを投じるとき、理解を促すために認知モデルが活用されることがある。発売当初の家庭用テレビには、キャビネットの形を模した「家具調」の意匠が施された。電気の通った大きな機物を居間に置く文化はそれまでになかったが、家具としての認知を得ることで新しい発明も「わかる」ようになる。同様にフォードによる世界初の自動車も、当初は「馬なし馬車」の名前で親しまれた。2007年のiPhoneの発表は、今から振り返れば実質的にスマートフォンの発表であり歴史の転換点だったわけだが、あくまであらたな「電話」という名目でお披露目された。任天堂のゲーム機Wiiは、家族全員で遊んでもらいたいと、コントローラーを「リモコン」と呼んだ。それまでゲーム人口として考えられてこなかった両親や祖父母にも遊びの輪に加わってほしいという考えだ。リモコンであればテレビのおかげで誰もが親しんでいる。これらの事例は、すでに受け入れられている価値の名前を踏襲することで、「わかる」ことを助ける。
わかるとわからないのちょうど中間に位置するようなものが心地よい思考を促す。(p.54)

 教育の情報化も、もしかするとコンテクストデザインによって変えられるかもしれないな、と思いました。どう伝えるかをもう一度自分のプレゼンを見直そうと思います。コンテクストデザインし直せるところはあるように思います。これも誤読でも全然かまわないと思うのです。僕はそう読み取り、自分の行動を変えていこうかな、と思いました。

まとめ

 この本、青山ブックセンターなどイベントを実施した書店など限られたところでしか買えませんでした。僕は青山ブックセンターで青い表紙の限定版を購入しました。シリアルナンバー入りの限定版です。
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 いまは青山ブックセンターオンラインストアで購入できます。このエントリーを読んで興味をもった方は、ぜひチェックしてみていただければと思います。
https://aoyamabc.stores.jp/?category_id=5e5b5cdf5d485c395882681caoyamabc.stores.jp


(為田)

*1:このあたりは、J-WAVEで木曜深夜に著者の渡邉康太郎さんがナビゲーターをしている番組「Takram Radio」を聴いているなかでずっと感じていたし、Twitterでメッセージを書いたら番組内で読んでもらいもしました。「ストーリーウィーヴィング」というコンセプトから、「コンテクストデザイン」へと発展してきているベースに教育もある、というコメントをいただきました。