教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『書けるひとになる! 魂の文章術』

 ネットやSNSなどで、多くの人が文章を発信できるようになって、これまででは出会えなかったり人と出会えたり、そこからチャンスを掴んだり、そうしたことができるようになっているので、「文章を書ける」ことは重要だと思っています。また、一人1台の情報端末が学校の授業に導入されて、文章を書いたり推敲したりことも簡単になります。
 だからこそ、文章を書く授業はなるべくたくさんしたいと思っています。そんな授業を考えるネタを探して、ナタリー・ゴールドバーグ『書けるひとになる! 魂の文章術』を読みました。興味深かった部分をメモで共有していきたいと思います。

 最初に、「書く際のルール」(p.13-14)を紹介したいと思います。作文だけでなく、ワークシートや思考ツールに書く文章でも適用できそうだと思いました。

  1. 手を動かしつづける(手をとめて書いた文章を読み返さないこと。時間の無駄だし、なによりもそれは書く行為をコントロールすることになるからだ)。
  2. 書いたものを消さない(それでは書きながら編集していることになる。たとえ自分の文章が不本意なものでも、そのままにしておく)。
  3. 綴りや、句読点、文法などを気にしない(文章のレイアウトも気にする必要はない)。
  4. コントロールをゆるめる。
  5. 考えない。論理的にならない。
  6. 急所を攻める(書いている最中に、むき出しのなにかこわいものが心に浮かんできたら、まっすぐそれに飛びつくこと。そこにはきっとエネルギーがたくさん潜んでいる)。

以上のことはぜったい守ってほしい。というのも、この練習の目的は、じゃまなものを焼き払って“第一の思考”――エネルギーがまだ世間的な礼儀や内なる検閲官によってじゃまされていない場所――にたどり着くこと、言いかえれば、こう見るべきだ、感じるべきだと考えていることではなく、実際に自分の心が見て感じることを書くことにあるからだ。

 「コントロールをゆるめる」「考えない」などはちょっと意外かもしれないですが、たしかに自分の本当に書きたいことを書いてね、というときにはこういうルールは大事だと思います。
 あと、「綴りや、句読点、文法などを気にしない」というのも、こないだ教員研修のときに質問を受けたな、と思いました。最後の最後まで、細かいことは気にせずにどんどん書いてもらうほうがいいのかな、と思いました。

 書いたことはどんどん人の目に触れさせて、評価し合うのがいいと思う。できればポジティブな評価が最初は出るようにしたいな。

文章を何ページも書いてきた生徒がクラスでそれを読みあげるとき、たとえそれが必ずしもよい出来ではなくても、手ごたえのあるものを求めて自分の心を探究しているのがわかると、私はうれしくなる。そうした生徒たちは今後も書きつづけるだろうし、ただ「かっこいい」文章を書こうとしているのではなく、修行のプロセスの中にいることがわかるからだ。彼らは自分の心を熊手でかきならし、上っ面の思考を引っかけて、それをかきまわしているのだ。この生(なま)の素材に取り組みつづけるなら、私たちは自分自身の中にどんどん深く引きずり込まれていく。でも、それは神経症的な意味においてではない。自分の内側にある豊かな庭に気づき、それを書くことに活用しはじめるようになるのだ。(p.23)

 文章や詩などで、書く題材についてもいろいろなアイデアが書かれていました。「食べ物について書いてみよう」と書かれていたので、今度試してみようかな、と思います。

思うように筆が進まず、なにもリアルに感じられないような状態になったら、食べ物について書いてみよう。食べ物は具体的なものだし、食べ物の思い出なら誰でも必ずひとつや二つはあるはずだ。なかなか地面から飛び立てないクラスを持ったことがある。どんな練習をしても出てくるのは退屈な作品ばかり。そんなある日、私はいいアイデアを思いついた。「さあ、十分間あげるから、大好きな食べ物について書いてみて」。生徒の文章は生きいきと輝きはじめ、色鮮やかなディテールで満ちあふれた。抽象的なものは一切なかった。教室にはエネルギーがみなぎった。誰でも自分がどんな食べ物を好きなのか知っている。だから、言うことが具体的かつ明瞭になる。(p.200)

 たくさん書いて、文章を書くことに楽しみを覚えて、それを誰かに読んでもらって、伝わる喜びを覚えて…となったらいいな、と思います。そして、最終的に自分のなかに“創造者(クリエイター)”と“編集者(エディター)”を住まわせられたらいいな、と思います。

ものを書くときに、自分の中の“創造者(クリエイター)”と”編集者(エディター)”(内なる検閲官)を切り離し、創造者がのびのびと呼吸し、探究や表現ができるようなスペースを作ることがたいせつだ。編集者がやかましくて、それと自分の独創的な声とを切り離せないようなときには、とりあえず腰をおろして、編集者の言っていることを書き出してみよう。言いたいだけ言わせてやるのだ。(p.40)

 書けるようになって、その先に読めるようになって、読むことからまた新しいツールを手に入れて、また書けることが広がったり深まったりする、そんなスパイラルになったらいいな、と思います。そんなことをちょうど、有山先生がTwitterで書かれていました。

 ICTを教室で活用できるようになったからこそ、今までよりも楽に児童生徒も文章を書けるようになるし、直せるようになります。先生もコメントをしやすくなるし、児童生徒間での文章の読んだりコメントしたり、も楽になります。
 自分の言葉で「書く」ことは、自分の言葉で表現する武器を手に入れることなので、とても大切なことだと思います。「書けるひとになる!」って、本当に大切なことで、そのヒントを多く得られた本でした。

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 この文章を書いているところで、ちょうどTwitter「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然のリンクが流れてきました。これまでどういう作文教育がされてきたのか、というのをふりかえることができます。

toyokeizai.net


(為田)