緒方壽人さんの『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』をじっくり読んで、Twitterのハッシュタグ #コンヴィヴィアル・テクノロジー を使って、ひとり読書会を実施したのをまとめていこうと思います。
「第1章 人間とテクノロジー」
人間は常に新しいテクノロジーを生み出し、そのテクノロジーを使いこなしていっています。この共進化のサイクルのなかで、人間はテクノロジーとどういう関係でいるだろうか、というのがこの章での最初の問題提起になります。
「過去を振り返って、テクノロジーとの共進化のサイクルの中で人間が主体的に立ち止まることができたことはいったいどれほどあっただろうか。(略)ただなすがままにしているだけでは、わたしたちはそのサイクルに歯止めをかけることはできないのである。」(p.32) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 21, 2021
人間とテクノロジーとの共進化から、テクノロジーへの依存状態に陥り、二つの意味で主体性を奪っていく、と書かれています。このあたり、まとめたいと思います。
人間がテクノロジーとの共進化によって生身の能力以上の能力を獲得するということは、裏を返せば、人間がもはやそのテクノロジーなしでは生きていけないという依存状態に陥ることと隣り合わせである。(略)そのような依存状態は、テクノロジーが人間から二つの意味で主体性を奪っていくことにもつながっていく。(p.33)
- 「使う」という意味での主体性
- 「つくる」という意味での主体性
「少なくとも、テクノロジーとの共進化によって個人の能力が拡張されていくという実感とは裏腹に、わたしたちは実は知らぬ間にテクノロジーに依存し、主体性を奪われているのかもしれないということには自覚的であるべきだろう。」(p.34) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 21, 2021
テクノロジー=道具に依存し、主体性を奪われる恐れがあるから、テクノロジー=道具を使うべきでない、という話をするのではありません。
「その相反する二つの道具、人間の自発的な能力や創造性を高めてくれるコンヴィヴィアルな道具と、人間から主体性を奪い隷属させてしまう支配的な道具を分けるものはいったい何なのだろうか。イリイチは、そこで「二つの分水嶺」という考え方を持ち出す。」(p.35) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 21, 2021
イリイチの言う、道具が通過する「二つの分水嶺」:「第一の分水嶺を超える際に、道具は生産的なものとなるが、第二の分水嶺を越える際に、それらは逆生産的なものとなり、手段から目的自体へと転じる」(p.38) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 21, 2021
「道具にはそれぞれに適切な規模というものがあり、わたしたちがその道具を主体性を持って使っている間はよいが、あるところから知らず知らずのうちにわたしたちはその道具に支配され、主体性を奪われ、いつのまにか道具に使われているような状況が生まれる」(p.39) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 21, 2021
ここで紹介される「一つの分岐点ではなく二つの分水嶺」という表現は、とてもおもしろいと思います。
ある道具に絶対的な善悪があるわけでもなければ、人間と道具の共進化の過程のどこかに、天国か地獄か、ユートピアかディストピアかを決める運命の別れ道がただ一つあるわけでもないのである。そうではなく、そこにあるのは、その道具が人間の能力を拡張してくれるだけの力を持つに至る第一の分水嶺と、それがどこかで力を持ち過ぎ、人間から主体性を奪い、人間を操作し、依存、隷属させてしまう行き過ぎた第二の分水嶺、二つの分水嶺なのである。つまり問題は、わたしたちがこれは善か悪か、敵か味方かと決めることではなく、不足と過剰の間で、適度なバランスを保てるかどうかにかかっているのである。(p.39-40)
学校でのICT活用についてそのまま当てはめて考えられます。イリイチの言う「道具」は、モノとしての道具だけでなく、より広い概念として使われているからです。
イリイチは、「「道具」という概念を、ナイフやハンマーといったモノとしての道具だけでなく、工場の生産設備や高速道路のようなインフラ、学校や医療といったシステムや制度までも含めた広い概念として使っている。」(p.36) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 21, 2021
学校でICT(道具)を「使う/使わない」の分岐点で考えるのではなく、学校でICT(道具)を「生産的に使えるようになる」過程での2つの分水嶺として考える、ということだと思います。この本に書かれていた図を自分でも描いてみて考えてみました。
ちょっと見にくいですが、1つの分岐点なら、「使う/使わない」に分かれます。2つの分水嶺で考えれば、第一の分水嶺を超えて「ICTが道具として生産的」=主体性・創造性を拡張してくれる過程を経て、だんだんその力が高まっていき、第二の分水嶺を超えてしまうと「ICT=道具に支配されてしまう」ということだと思います。この第一の分水嶺と第二の分水嶺の間で、適度なバランスを保つことが大事です。
「人間と道具の「ちょうどいい」関係性は、スマートフォンやソーシャルメディアをはじめとする情報テクノロジーとの接し方という意味でも重要な視点である。」(p.44) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 21, 2021
では、第二の分水嶺を超えて行き過ぎてしまっていないかを見る基準として、6つの視点が紹介されています(p.47-51)。
道具の力が「第二の分水嶺」を超えて行き過ぎてしまっているかどうかを見極める基準はどこにあるのだろうか?(p.47)
- 生物学的退化(Biological Degradation)
- 生物として自然環境の中で生きる力を失わせていく
- 根元的独占(Radical Monopoly)
- 過剰な道具はその道具の他にかわるものがない状態を生み出し、人間をその道具なしには生きていけなくしてしまう。
- その結果、手段の目的化が起こる。「学びの手段だったはずの学校が、いつしか学校に行くこと自体が目的化し、学校に行っていないと無教育だとみなされるようになる」(p.48)
- 過剰な計画(Overprogramming)
- あらかじめプログラムされた計画に従うことしかできなくなってしまう。
- 「過剰な効率化は徐々に道具の専門化と分業化をもたらし、計画を行う者と、訓練され計画に従う者を生み出す。そうした「過剰な計画」は、人間から創造性や主体性を奪い、思考停止させてしまう。」(p.49)
- 二極化(Polarization)
- こうした根元的独占や過剰な計画は、独占する側とされる側、計画する側とされる側という「二極化」した社会構造を生み出す。」(p.49-50)
- 陳腐化(Obsolescence)
- 「技術革新によって絶えず道具を更新し続けることは、個人の能力や可能性をより広げてくれる一方で、その更新の過剰なスピードは、常により新しい道具を手に入れるようにわたしたちを駆り立て、新しいものは何であれよりよいものであると信じさせる。」(p.50)
- フラストレーション(Frustration)
- 「第二の分水嶺」を超えて5つの脅威が現実になる前触れとして、コストと見返りのアンバランス、手段と目的のアンバランスが、フラストレーションのかたちで現れるはず。
- このフラストレーションや違和感を敏感に察知することで、5つの脅威を早期発見できる。
「3. 過剰な計画」のところは、アダプティブラーニングを搭載しているデジタルドリルを見ていて、「これ、大丈夫かな?」と思うことがあるポイントです。「これを学んで」「あれを学んで」と次々と自動出題、自動採点されていくのは、果たして自分で学んでいると言えるのか?と考えさせられます。
もっと言えば、学校や受験制度なども近いものになってしまっているかもしれません。そうしたことも、二つの分水嶺の図を思い浮かべながら見直してみたいと思いました。
わたしたちはいま、「共にいきいきと生きるための「コンヴィヴィアル」なテクノロジーではなく、ちょうどいい範囲を逸脱し、いろいろな意味で「第二の分水嶺」を超えて行き過ぎた「過剰なテクノロジー」の時代に生きているのである。」(p.53-54) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 21, 2021
「あらゆる「道具」と同じように、テクノロジーは本来、善でも悪でもない。ただそこで「あらゆる道具は使い方次第だ」と思考停止してはいけない。」(p.61) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) August 21, 2021
「一つの分岐点」と「二つの分水嶺」の考え方について、非常に学びが多い章でした。
No.3に続きます。
blog.ict-in-education.jp
(為田)