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書籍ご紹介:『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』

 坂本尚志 先生の『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』を読みました。「簡単に正解が出ない問題に、根気強く向き合って、自分の頭で考える」ことのできる授業を作りたいと思っていて、バカロレアでどのような問題が出されて、思考を鍛えている(評価しようとしている)のかを知りたかったからです。自分で記録した読書メモを共有します。

 最初に、フランスの高校で行われているバカロレア哲学試験についてです。「思考すること、表現すること」ができる市民を育てるためのものであることが書かれています。

フランスの普通科、技術科の高校では、三年生は哲学を必修科目として学びます。ですから、バカロレア哲学試験は一年間の哲学の勉強の習得の度合いを評価するものです。
哲学教育が高校三年生で行なわれる目的は何でしょうか?二つの意味があります。
第一に、初等・中等教育で学んできたさまざまな科目を振り返り、その内容を互いに結びつけ、統合することです。哲学は、知識の内容を一段掘り下げることを目指します。言ってみれば、それは特定科目の知識に偏らない「教養」を身につける方法です。
第二に、「市民」を育てることです。それはつまり、民主主義社会において、自分自身の理性によって考え、発言し、行動できる人間を育てることです。「思考し、表現する」ことを目指す哲学教育は、そのための有効な手段であると考えられるのです。極端な言い方をすれば、フランスでは「市民」とは哲学を修めた人なのです。
(略)
もちろん、「市民」を育てる教育は哲学の専売特許ではありません。おそらくすべての学問がその基盤に「思考し、表現する」ことを置いている以上、学生は専門分野によってその視点や方法に違いはあるものの、「思考し、表現する」ことを学んでいることが期待されます。こうした議論は日本では主に高等教育に関して行なわれてきました。しかしフランスの場合は、それが高校最終学年の哲学教育によって保証されていると考えられてきたのです。(p.4-5)

 バカロレア哲学試験においては、思考してさえいれば・表現してさえいればいい、ということでもありません。重要なのは、「型」をもっているかどうかだということも書かれていました。

バカロレア哲学試験で重要なのは、議論があらかじめ決められた「型」に従っていることです。自由に自分の考えを述べても低い評価しか得られません。
まず「型」を学び、その「型」の中で自分の思考を表現することが、何よりも重要なのです。言い換えれば、「型」を守り、意見が論理的に提示されているのであれば、その内容はどのようなものであってもよいのです。たとえば、「労働はわれわれをより人間的にするのか?」という問いに対して、賛成の立場で論述しても、反対の立場で論述してもよいのです。「正しい」意見や「唯一の正解」が存在するのではなく、その結論が論理的に導かれているかどうかが評価の対象になります。
その意味で、この「思考の型」は、思考の表現方法を決める一方で、その内容については、それが論理的であるという条件つきですが、自由を与えてくれるということです。(p.53)

 思考の型についてもまとめられていました(p.54-56)。

「思考の型」

  • 広い意味:
    この「型」は問題を分析する方法から、解答を書くまでの手続き全体を含む。
  • 狭い意味:
    小論文の答案の構成の定形(「導入」「展開」「結論」)
    • 導入
      • 与えられた問題を分析し、問題を複数の問いに書き換えることによって、何をどのように考えていくのかの道筋を明らかにする。
    • 展開
      • 問いに対する肯定意見と否定意見それぞれが、なぜそのように主張できるのかを、論拠を分析することで明らかにする。
      • 必要であれば、二つの意見を統合した第三の意見についても論じる(弁証法の正反合)
    • 結論
      • 展開部分の議論を要約して、問題に答えを出す。それまでの議論を簡単に繰り返して問題に答える。

 「この型から外れた答案は、いくら素晴らしいアイデアが書いてあろうと、どれほど美しいフランス語で書かれていようと、低い評価しか得られないのです。」(p.56)とまで書かれていました。型を与えることで、そこで何を書けばいいのかをきちんと説明し、それが満足できるレベルになっているかもコメントできるようになればいいな、と思います。ただ「段落に分かれている」「はじめ・なか・おわり」という構成になっている、ということではなくて、きちんと思考の型に従っているのかを見ていきたいと思います(厳密に型に嵌めると書くのが嫌いになるかもしれないので、学年によるとは思いますが…)。

 バカロレア哲学試験で出題される問題の形式も書かれていました。これは発問のときの参考にできそうです。

バカロレア哲学試験で出題される問題の形式(p.67-69):

  1. ~は可能か(~できるか):可能性についての問い
    例:芸術が社会を変えることは可能か?
  2. ~してもよいか ( ~は許されるか):権利についての問い
    例:正義の人は法に逆らってもよいか?
  3. ~すべきか:義務、あるいは必然性についての問い
    例:美と真理を分離すべきか?
  4. ~は十分か:ある一つの条件は、目的を達するための十分条件であるかという問い
    例:他者を尊敬するためには、礼儀正しくあるだけで十分か?
  5. ~は真か ( ~は正しいか):ある言明が正しいと言えるかという問い
    例:人間は自分たちに見合った政府しか持つことができないということは正しいか?
  6. 「はい」「いいえ」の形で答えられるもの
    例:芸術家はその作品のもっともよい解釈者なのだろうか?
  7. 問題の中に選択肢が示されているもの
    例:宗教は人間を団結させるのか、それとも分断するのか?
  8. 「何」「誰」「どのように」「なぜ」といった質問
    例:他者を理解するとはどういうことか(何か)?
    例:芸術家とはどういう人間か(誰か)?
    例:どのようにして、私がどのような人間であるかを知ることができるのか?

 思考の型として小論文をどのように書くかもまとめられていました。4つめの「問題を問いの集まりに変換する」トレーニングは、授業のなかで課題に取り組むときにもやれるといいなと思いました。

「思考の型」としての小論文作成法(p.104-108 )

  1. 問題のテーマを見分ける
  2. 問題の形を見分ける
  3. 問題に「はい」「いいえ」で答える
  4. 問題を問いの集まりに変換する
  5. 構成案を作る
  6. 小論文を書く

 「思考の型」を活用するために、バカロレア哲学試験の「思考の型」の特徴もまとめられていました(p.108-113)。試験対策として読むというよりは、自分で考えて書いてもらう問いを出すときには、こうしたプロセスを児童生徒ができるようにしたほうがよい、ということだと思いながら読みました。

  1. 問題の分析は機械的に行なうことができる
  2. 書く前に時間をかけて考える
  3. 反対意見を十分に尊重する
  4. どんどん修正する
  5. 体験や感想ではなく普遍的な例を使うこと

 「反対意見を十分に尊重する」は授業支援ツールなどを使うことで多様な意見を目にする機会を作れると思うし、「どんどん修正する」というのは、一人1台の情報端末が入って推敲が簡単にいつでもできるようになっているし、どちらも授業のなかにもっと入れたいと思います。
 それと、最後の「体験や感想ではなく普遍的な例を使うこと」は、大人でも全然できていないと思うので、学校で学べるようにして国全体にインストールしたいなあ。

「自分で考え、意見表明し、行動できる」人、そのような人を、民主主義社会を支える人、つまり「市民」と呼びましょう。
哲学教育の目的は、まさに「市民」を育てることです。ここまで見てきたように、哲学はさまざまな問題について、批判的に考える力を育てます。批判的というのは、与えられた情報を鵜呑みにしないで、それとは異なったり対立したりする情報も等しく扱い、吟味する姿勢を持っているということです。
民主主義社会では、人々はさまざまな意見を表明します。それらの意見のうち何が正しく、何が間違っているのか、そしてどうすれば合意や妥協に達することができるのかを考えるためには、批判的な態度が絶対に必要です。(p.185-186)

 授業づくりに参考になることをたくさん学べました。僕が直接教える場があるのは、いまは小学校だけだけど、中学校や高校の授業をお手伝いする機会があれば、この本で知ったエッセンスを入れられないか考えてみたいと思います。

(為田)