教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

『多様性の時代を生きるための哲学』ひとり読書会

 フランス文学者でありALL REVIEWS主宰の鹿島茂さんの対談書評本『多様性の時代を生きるための哲学』を読みました。対談でどんどん話が展開していって、新しいキーワードを見つけたり、読みたい本を知ってしまったり、そういうのがとても楽しい本でした。
 作った読書メモのなかから、学校や教育に関わりそうなところを共有したいと思います。

第1章 東浩紀×鹿島茂 「考える」ためには何が重要か

 批評家の東浩紀さんとの対談です。ちょっと長いですが、インターネットやスマートフォンの普及、YouTubeやTikTokなどのサービスの普及によって、誰に対しても「表現者になれ」「プレイヤーになれ」という命令が幅を利かせている、というところ、学校でもそうしたメッセージを子どもたちに僕は言っているかもしれないな、と思いました。

東 いまはだれに対しても「表現者になれ」「プレイヤーになれ」という命令が幅を利かせている時代です。典型がユーチューブですが、しかし全員が表現者になったら、誰も作品を見ないから市場は崩壊してしまう。
さっきは「当事者」と呼びましたが、別の言い方をするとそれは「専門家」のことでもあります。とくに人文系、その中でも歴史系はとりわけそういう傾向がありますが、とにかくいまは専門家だけが語る資格を持っていると見なされている。アマチュアが歴史について語ると、「それは全然違う。最新の研究ではこうだ」というマウンティングが押し寄せる時代になっています。そうすると、まともな専門家であればあるほど、細分化された狭い範囲だけするようになり、大きい歴史は誰も書かなくなる。かといってそういう大きな歴史への需要がなくなるわけではないから、それはトンデモ本や陰謀論、あるいはひどく単純化された愛国主義的な物語などで満たされることになってしまうわけです。だから、たとえ会話のネタにすぎなくても、難しい本を喜んで受け入れてくれるスノッブな読者がいないと、専門家の仕事も成立しなくなると思います。みんなが表現者や専門家になろうとしていると、生態系が壊れる。表現者のまわりには観客がいなきゃいけないし、専門家のまわりにはスノッブがいなきゃいけないんですよ。(p.33-34)

 この話をうけて、「知のカラオケ現象」という言葉を知りました。そして、それが教育も同じではないか、と話は続きます。これもちょっと心に響く、考えさせられるやりとりでした。

鹿島 斎藤美奈子さんがそれを「知のカラオケ現象」と呼んでいますね。みんなが歌いたがって歌うが、その歌を聞いている人はだれもいなくって、次に自分が歌う曲を探している。
東 まさにそうなっています。
鹿島 この現象はかなり前から観察されていました。教育自体がそうなっていますよね。
東 いまは「教育」が「投資」という言葉と並んで語られるようになりました。でもそれはおかしいですね。「投資」ならば、一万人のうち一人が才能があって一万人分稼いでくれれば、残り九九九九人が死に絶えてもいいということになる。でも教育はそういうもんじゃないでしょう。九九九九人が何も学ばずに暮らしていても、「当たり」が一万人に一人いればいいという発想で文化が語られている。
これは文化全体をどんどん貧しくします。だから、表現者のまわりをウロウロして、自分では表現しないけど本を買ってくれる観客や読者を育てないといけない。さらに言えば、表現者や専門家もそういう人たちに対するリスペクトを持つべきです。いまは表現者や専門家が、「自分たちは偉い」と思いすぎです。自分たちが何に拠って立っているのかわからなくなっている。(p.34-35)

 東浩紀さんの本は、このブログでもけっこう取り上げています。僕はけっこう影響を受けているような気がします。(『弱いつながり 検索ワードを探す旅』についてエントリーを書いたのが2014年12月…。びっくりです)

blog.ict-in-education.jp

blog.ict-in-education.jp

第2章 ブレイディみかこ×鹿島茂 多様性の時代の利他と利己

 ライター・コラムニストのブレイディみかこ さんとの対談です。最初にメモしたのは、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』では、多様性とエンパシーの話は少ししか出てこない、ということをうけての部分です。

ブレイディ あれを読んで、「エンパシーがあれば何もかもうまくいくんだ」「エンパシーは100%いいものなんだ」と思われると困ってしまう。それは欧米の議論とは違うし、エンパシーの危険性を唱えている人がいることもちゃんと書いていかないといけないというのが、『他者の靴を履く』を書いた大きな理由の一つですね。(p.68)

 すごくたくさんの人に読まれた本だからこそ、どう読まれているかについて気にされているのがいいなと思いました。こういう出版された本へのフォローが対談でされるの面白いと思います。「エンパシーが大事」で終わってはいけない、ということですね。
 この後、鹿島さんがエンパシーについてお父さんの話をするのも、子どもたちに伝えたい例だなと思いました。

鹿島 私の父親は軍隊経験者なんですが、その経験談でいちばん印象的だったのは、まさに「他者の靴を履く」という話でした。日本陸軍は移動に車を使わないでひたすら兵隊に行軍させた軍隊として知られています。そうした兵隊たちにとっていちばん重要なのは靴なんです。
ところが『風と共に去りぬ』を読めばわかるように、長いあいだ行軍していると靴の底がどんどんへたって、使えなくなっちゃうんですね。仕方ないから、他人の余っている靴を履くしかないけれど、当然、サイズが合わない。そのとき、日本陸軍はどうしたかというと、人の靴でも何でもいいから、そのへんにある靴を履いて、靴に自分の足を合わせろと兵隊に命じる。これが日本軍のやり方なんですよ(笑)。最高の苦痛でしょうけど、兵隊はそれをやらされたわけ。「靴に自分の足を合わせろ」というのが日本軍の本質だったんですね。靴というのは陸軍、ひいては日本という国家だったんで、それに無理やり合わせなければならない。
そういうことを考えると、国家を含めて他者が理不尽な要求をしてくるときに、これをエンパシーで迎えてはいけないということになる。この場合、エンパシーは危険なものともなる。なぜ危険なものとなるかといえば、他人の靴を履いたときには痛みとか不快感というものは確実にあるのだから、それを感じないふりをしたり、ないことにしたりするのは欺瞞だからです。欺瞞や無理は最終的には倫理やシステムの破綻を招く。(p.69-70)

 その後、ブレイディみかこさんが、「エンパシー」は能力だ、と続けます。エンパシーは、「相手を思いやろうね」みたいなところで留めていてはいけない、ということかな、と。

ブレイディ 「エンパシー」をオックスフォードの英英辞書で引くと「ability(能力)」という言葉が最初に出てくるんですね。(略)日本では、能力やスキルや技量みたいなものよりも、感情的なものを上に置く。感情的なもののほうが上等だという感覚があるから、エンパシーを「能力」のようなビジネスライクな言葉に置き換えたくない部分があるんじゃないでしょうか。日本人は部活なんかでも、よく「気持ちが入っていない」とか「気持ちを入れればできる」みたいなことをいうじゃないですか。イギリスでは、学校の先生が「気持ちさえあればできる」なんて言いません。気合はもちろん重要ですけど、スキルや訓練がないとできません。(p.72)

 能力(ability)ならば、教育ができる、という欧米の考え方と、日本の学校教育(道徳教育)の違いが書かれます。

鹿島 「教育」と「アビリティ」は強く結びついているわけですね。エモーションは教育不可能だけど、アビリティなら教育可能だろうと考えたのが、フランスやイギリスの人たちでしょう。アビリティの面で教育することによって国民全員を一つの共同的な土俵に上げることはできる。それがヨーロッパ的な考え方なんです。そういう形でエンパシーを身につけることで、利己と利他を結びつけることができる。(p.73)

 日本でよく言われる、「迷惑をかけないように」についても、その背景についてブレイディみかこさんが話していた内容も、なるほどと思いました。

ブレイディ 日本では、何か起こった後だけではなく、事前に「迷惑をかけたくない」という使い方もしますよね。日本在住のアメリカ人がその意味について新聞に書いているのを読んで「なるほど」と思ったんですが、これは逆に「自分が他人に迷惑をかけられたくない」という気持ちも表しているのではないかと。(p.78)

 ブレイディみかこさんの本も、このブログでは2冊紹介していました。改めて読み直してみたいなと思いますね。

blog.ict-in-education.jp

blog.ict-in-education.jp


第4章 石井洋二郎×鹿島茂 自分が自分であることの意味

 中部大学特任教授の石井洋二郎先生との対談です。石井先生は、社会学者ピエール・ブルデューを紹介している先生です。ブルデューの『ディスタンクシオン』は、NHKの「100分de名著」で見て、テキストも買いました。日本の教育格差を考えるときにも参考になりました。

 最初に、ブルデューが文化資本を3つに分けて説明している、というところです。学校の教室でいろいろな家庭環境の児童生徒がいるだろうなと想像しながら、こうしたことを僕は考えるときがあります。

ブルデューによる文化資本を3つに分けた説明(p.140)

  1. 身体化された文化資本
    • 労働によって稼いだお金を財産として蓄積する経済的な「資本」と同様に、学校で勉強したり、自分で本を読んだりすることによって、知識や教養を獲得し、自分の体の中にたくわえていく。
    • 趣味の良さ、もこのひとつ。
  2. 客体化された文化資本
    • 具体的にものになった、オブジェになった、という意味での客体化。
    • 膨大な蔵書、本物の絵、グランドピアノや高価な家具や装飾品なども。
  3. 制度化された文化資本
    • 学歴に代表されるような資格や肩書。社会に出て仕事をするうえで役に立つので、社会で資本として機能することになる。

 この3つの文化資本が獲得される場所のひとつとして、学校が挙げられます。

石井 そういったさまざまなレベル の資本が獲得される場所の一つは家庭であり、もう一つは学校です。家庭の中で子どもの頃からピアノやバイオリンに親しむとか、そういう形で自然に身についていく文化資本がある。その一方で、学校教育の中で獲得していく知識や技能もあります。そしてブルデューは、家庭で知らず知らずのうちに文化資本を身につけた人たちを「文化貴族」と呼びました。『ディスタンクシオン』の第一章には「文化貴族の肩書と血統」というタイトルがついています。そういう形で最初から卓越化された存在がいる。しかし当然ながら、そうした環境に生まれ育たなかったために文化資本に恵まれなかった存在もいます。そうした人たちは、しかるべき立ち居振る舞いや礼儀作法や言葉遣いなどを家庭で仕込まれなかったために、ふとした機会に文化資本の貧しさが露呈して、社会的検閲にあったりするわけです。「お里が知れる」というやつですね。
(略)
鹿島 ブルデューが『ディスタンクシオン』を書いた当時の日本といまの日本を比べると、ディスタンクシオン化が激しくなっていますね。つまり、文化資本による格差が拡大している。僕らが高校生だった時代にも経済資本による格差があることはありましたが、それほどの大きなものではありませんでした。(p.140-141)

 僕は、こういう文化資本の違いというか、生まれ育ちの差をキャンセルできる場所として、公教育が機能してほしいな、と思っています。文化資本をどれだけもっているかが違うのはしかたがないけれど、それが固定化されて、それをみんなが諦めなければいけない、というのはいやだと思っています。

石井 食べるものがジャガイモしかなかったらジャガイモが好きになってしまうということですね。手の届かないフォワグラなんかは、最初からそもそも選択肢にならない。
鹿島 それはとても重要なことですね。たとえば『ハマータウンの野郎ども――学校への反抗・労働への順応』(ちくま学芸文庫)というイギリス労働者階級の研究によると、まさに「必要趣味」という感じで、ハマータウンの野郎どもは上級学校に進学しようという意思すらないわけです。はじめは選びたくても選べなかったものを、やがて自分の意思として選んでしまう。社会学の核心ですね。
石井 だから、学校もまさに「行けるところ」に行く。自分の行けるところが自分の好きなところだと納得してしまうんです。「好きなところに行く」のではなく、「行けるところが好きになる」という倒錯が起きている。「選ぶ」というよりは「選ばされて」いるのに、それが自分の意思だと思い込んでしまう。これが「必要趣味」の本質だろうと思います。(p.164-165)

 ここのやりとり、なかなかぐっと来ます。学校も「行けるところ」に行く、そして、「自分の行けるところが好きなところだと納得してしまう」というところ、ぐさりと来ました。

第5章 宇野重規×鹿島茂 民主主義とは何か

 東京大学社会科学研究所教授の宇野重規先生との対談です。僕はアメリカのプラグマティズムが好きです。この章ではプラグマティズムについてたくさん知れたのがよかったです。

鹿島 宇野さんは『民主主義のつくり方』の中で、アメリカのプラグマティズムに重要なヒントがあると書かれています。プラグマティズムは説明しにくい概念ですが、あえて乱暴に言ってしまえば、「理論なんかより実践だ」ということでしょうか。私なりに理解すると、理論であれ理念であれ、「入力」と「出力」の差分が重要なのであって、どんなに良い理念でも何も出力されないのはダメ。大した理念ではなくても、出力されるものがすごく良ければオーケーということになるんですが、プラグマティズムのジョン・デューイやチャールズ・サンダース・パースなどの著作を読むと、日本の民主主義の作り直しにとても役に立つのではないか、というお話ですね。
宇野 おっしゃるとおり。アメリカはすごく偏った方向にワーッと行くことがありますが、なんとなく振り子が戻ってくるように戻ってバランスを取る部分があります。アメリカのメインストリームはある種のリベラル・デモクラシーなのですが、一方にはやはりポピュリズムがある。(p.198-199)

 「アメリカはすごく偏った方向にワーッと行くことがありますが、なんとなく振り子が戻ってくるように戻ってバランスを取る部分があります」というところ、アメリカが実験国家であり続けているのだな、と感じるところだし、すごいなとも思うし、怖いなとも思うところですね。

宇野 彼ら(プラグマティストたち)は、革命なんて起こす必要はないと考えている。自分たちが経験を通じて「これがいい」と思えるスタイルを作れば、それを良き習慣としてほかの人も模倣してくれるから、革命を起こさなくても結果的に社会は変わっていくというわけです。それを最終的に教育と結びつけたのは、デューイですね。デューイの教育は、上から答えを押しつけるものではありません。それぞれの子が好きなことを、経験を通じて集団学習し、少しずつそれを鍛えていく中で、結果的に社会や政治が変わっていくというものです。それぞれの人がそれぞれの場所で自発的に変革を起こし、それが習慣という媒介を通して社会に伝播することで社会が変わるという独特な信念が、プラグマティズムを支えていると思います。」(p.202-203)

 ここで宇野先生がおっしゃっている、「自分たちが経験を通じて「これがいい」と思えるスタイルを作れば、それを良き習慣としてほかの人も模倣してくれるから、革命を起こさなくても結果的に社会は変わっていくというわけです」というところ、僕が公教育をこうやって変えたい、という方向性そのままだな、と思って読みました。自分がやりたいことに言葉が与えられた感じがします。うれしい。

宇野 まさにデューイ的な教育かもしれませんが、それぞれの子は自分たちで何か調べてみる、考えてみる、それをみんなの前で発表してみる、あるいはグループワークをしてみる。それぞれが試しながら自分の思考を築いていくこと自体を応援するような教育です。一定の正しい答えを示して、「これが理性的な頭の使い方なんだよ」と上から教え込むのではなく、とりあえずやらせてみて、そこから出てくる多様なものをどこかでまとめ上げていく。ああいう教育のあり方は面白いと思います。
デューイは、何か一つの民意をシェアするのが民主主義ではないと言います。それぞれの人がそれぞれに実験をする。自分が実験をするなら他人が実験をするのも許さなければいけない。すべての人に実験をする機会を与える社会のことを民主主義と言うわけです。何か唯一の答えがあることを想定せず、それぞれの人が自分の人生の中で自分の力の及ぶ範囲内で実験をしていく。それが最終的には相互に影響を与えることによって、社会の漸進的な発達につながるという考え方です。
これは、ある種の悲観主義もあるんですね。きれいで明確な答えがあるとはいえないという意味で。でも、実験が結びついて最終的に社会が前に進んでいくという意味では、どこかオプティミスティックな発想でもあります。ペシミズムとオプティミズムが独特な形でくっついているのが、プラグマティズムに由来する教育法であり、その考え方だと思います。(p.204-205)

 「何か唯一の答えがあることを想定せず、それぞれの人が自分の人生の中で自分の力の及ぶ範囲内で実験をしていく。それが最終的には相互に影響を与えることによって、社会の漸進的な発達につながるという考え方」って、課題先進国である日本でやらなきゃいけない教育だと思うし、学校で学ぶ探究もこんなふうなところまで到達できたらいいなと思いました。

まとめ

 どの章も対談のおもしろさがありました。それぞれの言葉がかけ合わさって、新しいところへジャンプする感じが協働という感じがして好きです。対談の良さだと思います。

 鹿島茂さんが主宰しているALL REVIEWSは、2022年7月にこのブログでも紹介していることにこの本を読んでいて気づきました。自分のなかで2年越しに繋がりました。
blog.ict-in-education.jp

 学校で先生方と話してみたいテーマにたくさん出会えた本でした。

(為田)