教育ICTリサーチ ブログ

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『コモンの「自治」論』ひとり読書会

 斎藤幸平+松本卓也 編『コモンの「自治」論』を読みました。「コモン」という言葉にも「自治」という言葉にも、僕はとても惹かれています。
 いくら仕組みやルールを作ってもそれだけではダメで、抜け穴を見つけたりとか悪用されてしまったりとか、そういうのをたくさん見ていると、仕組み作り・ルール作りだけでなく、それを「コモン」として大切にする人たちを増やさないといけないし、そのために「自治」がいるのだろうな、と感じることが多いのです。
 そんなことを思いながら読みました。興味があったところをメモしたので、共有したいと思います。

はじめに――今、なぜ〈コモン〉の「自治」なのか?

 斎藤幸平さんが書いた、「はじめに――今、なぜ〈コモン〉の「自治」なのか?」では、そもそも「コモン」とは何なのかということが書かれています。

〈コモン〉とは、そもそも何だろうか。日本語では〈共〉とも訳される概念で、誰かや企業が独占するのではない「共有物」という意味だ。ひとまずは宇沢弘文氏の「社会的共通資本」を思い浮かべてもいいだろう。
たとえば、村落全体で共同管理されてきた入会地や河川水などは〈コモン〉の典型だ。ところが、資本主義が浸透するにつれ、こうした共有資源は私有化されていく。それどころか、今やあらゆる〈コモン〉が解体されようとしているのだ。
公営事業である水道も民営化推進の動きがあり、大企業がそこに利益獲得の活路を見出そうとしている。公園などの公共の場を、市民の議論を排除しながら、商業施設に変えてしまおうという大資本の動きも〈コモン〉解体の一例だろう。資本は〈コモン〉であったものを独占することで容易に利潤を手にしていくのだ。これを「略奪による蓄積」と地理学者デヴィッド・ハーヴェイは批判する。
そうした資本による略奪に抵抗して行う〈コモン〉の再生とは、他者と協働しながら、市場の競争や独占に抗い、商品や貨幣とは違う論理で動く空間を取り戻していくことだ。本書でも触れられている、水やエネルギーや食、教育や医療、あるいは科学など、あらゆる人々が生きていくのに必要とするものは、〈コモン〉として扱われ、共有財として多くの人が積極的に関与しながら管理されるべきものなのだ。(p.3-4)

 最近の新自由主義的な考え方や個人主義的な考え方の広がりを見ていると、この「コモン」ってどんどん壊されていってしまっているのかな、と思っています。

 斎藤幸平さんは、現代の困難な状況を「複合危機」(ポリクライシス)と呼ぶようになっている、と言います(p.4)。斎藤さんと言えば、「人新世」というキーワードがすぐに浮かびますが、人新世の時代では、複合危機によって慢性的な緊急事態に突入する、という話も書いていました。

「人新世」の危機が深まれば、市場は効率的だという新自由主義の楽観的考えは終わりを告げる。むしろ、コロナ禍でのロックダウンであるとか、物資の配給、現金給付、ワクチン接種計画のように、大きな国家が経済や社会に介入して、人々の生を管理する「戦時経済」に変わらざるをえないからだ。ここに、資本主義の危機がある。
その戦時経済は、民主主義の危機をも引き起こす。慢性的な緊急事態に対処するために、より大きな戦時権力が要請されるからである。要は政治がトップダウン型に傾いていくのだ。
そんななかで、もし排外主義的なポピュリストが権力を握って、暴走を始めれば、民主主義は失われてしまうだろう。全体主義の到来だ。
こうした最悪の事態を避けるために、トップダウン型とは違う形で、「人新世の複合危機」へと対処する道を見出す必要がある。
そして、それが「自治」という道にほかならない。(p.5-6)

 人新世の時代、怖い…。社会がどんなふうに変わってきているのかって、少しずつ変わっていくと僕らはわからなくて、茹でガエルの話とか自分自身もそうなんじゃないかと思って怖くなることも多いです。

 これにさらに、テクノロジーによって、「自分で決めなくなる」「より個人的になる」という方向性へ流れていくのではないのか、ということも書かれていました。

日常生活において、自分たちで決められることはとても限られている。自由に決められるのは、コンビニでどのお菓子を買うかとか、休みの日にどこに遊びに行くかを決めることくらいではないか。その際にも、スマホに表示される商品のレビューやGoogle Mapの指示に従って私たちは行動している。もうあと数年もすれば、何を食べるか、休日に何をするかをChatGPTに決めてもらう日が来るかもしれない。
そう、私たちは、自分たちでは何も決めることのできない他律的な存在になっている。日々の生活でもこんな状況なのに、政治や社会についての重大な決定を、私たちが責任を持って行うことなど想像すらできない。それは当然のことだろう。しかも、競争の激しい自己責任型社会に生きる私たちは、他者と協働して、大きな課題に取り組む力を失いつつある。それよりお金を稼いで、自分たちの個人的な欲求を満たすほうに関心を持つようになっている。
けれども、そうやって「自治」の力が弱まるうちに、一部の政治家や富裕層、そして大企業が自分たちに有利になるようにルールをつくって、ますます社会を私物化するという悪循環に陥っていないだろうか。
この悪循環を断ち切るために求められているのが、冒頭で述べた〈コモン〉の再生であり、〈コモン〉の共同管理である。それは、簡単なことではない。しかし、〈コモン〉の共同管理をめざす場で、私たちは「自治」を磨いていくしかない。
そして、〈コモン〉のあり方を外部に開きつつ、平等な関係をつくることが重要なのである。なぜ、〈コモン〉が「開かれている」ことが大事なのかと言えば、外部の人たちに対しては攻撃的で、排他的な「自治」もあるからである。たとえば、移民排斥を訴える右派ポピュリズム政党も「自治」の取り組みと言えるかもしれないが、それでは「自治」がファシズムを生み出すことになってしまう。(p.6-7)

 そうならないための、「コモン」であり、「自治」だということに、良い方向性だなと感じました。あとは、こういう「コモン」や「自治」を学校で子どもたちに教えられているだろうか?ということが僕は気になるところです。「コモン」も「自治」もシティズンシップや公共に結びつく考え方だと思うので、デジタル・シティズンシップの話と組み合わせて考えられたらいいなと思いました。

「第三章 〈コモン〉と〈ケア〉のミュニシパリズムへ」

 杉並区長の岸本聡子さんが書かれていた「第三章 〈コモン〉と〈ケア〉のミュニシパリズムへ」も、とてもおもしろかったです。

市民の声が届きやすい仕組みをつくり、その意見が反映され、成果が地域コミュニティに還元されること、さらに市民がその成果を感じることができる――。そうしたプラスの循環が必要です。
その手段のひとつが、市民が使い道を決めることのできる参加型予算という手法です。もともとはブラジルなど南米で始まった手法ですが、バルセロナ市では年間の投資予算(インフラなどの整備に使う費用)のうち、2020年には約113億円が参加型予算に割り当てられました。住民自身が、各地域で必要とする投資事業を提案し、その提案のなかから、住民投票で選ばれたものが執行されます。2020年には、600を超える住民提案があり、「自治」を活性化していることがうかがえます。
この手法のメリットのひとつは、行政側の目線ではなかなか気づけない、生活に密着した事業が提案されること。小学校に隣接した公園を子どもたちが安全に遊べるように改修するというような地域の人たちの生活に根づいたアイディアが並びます(こうした提案を募集する際に、バルセロナ市では独自に開発したデジタル・ツールを使っています。「decidim」と呼ばれるこのツールを市民が使うと、提案の応募だけでなく、その後の投票、決定のプロセスをフォローすることができます。「decidim」は、市民と行政の双方向的なコミュニケーションも可能で、バルセロナ市の参加型民主主義に弾みをつけるのに役立っています)。(p.110-111)

 参加型民主主義を実現するデジタル・ツール「decidim」が気になって、調べてみました。横浜市でも2020年に実証実験をしていたことも知りました。その後、どうなったんだろう。実装されてるのかな…。
 調べてみるとDecidimの概要資料をまとめているnoteもありました。

参加型予算はすでに日本でも導入している自治体がいくつかあり、今後も広がっていくでしょう。杉並区もこの参加型予算の導入を決定し、まず小さな金額からですが、2024年度にスタートさせます。(p.111)

 参加型民主主義をデジタルツールを使って社会に実装する、というのはとても興味があるので、引き続き調べていきたいなと思いました。

まとめ(というか、気づき)

 幸運なことに僕はまだ「自治がworkしなくなってきている」とか「コモンが壊されている」とかを実体験したことがない。でも、こうして本を読むことで「そうした傾向がある」ことを知ることができるし、それに備えることも(微力ながら)できると思う。こういう未来に備えるようなことも、学校で教えてあげたいなと思うのです。「自治」も「コモン」も、シティズンシップの一部だと思うので、デジタル・シティズンシップを考えるときに取り入れることはできないかな、と思いながら読みました。

(為田)