未来の人類研究センター編『RITA MAGAZINE テクノロジーに利他はあるのか?』を読みました。「RITA MAGAZINE」という書名の通り、雑誌の形態をとっていて、東京工業大学の未来の人類研究センターのメンバーの皆さんの対話が収録されています。
タイトルの「テクノロジーに利他はあるのか?」という問いかけがとても気になって手に取りました。関心があったところを読書メモとして共有します。
「利他」とはどんなものか?
伊藤亜紗 先生が書いた「まえがき」で、「利他」ということについて書かれていました。僕は規模の大小にかかわらず、コミュニティのことを考えるときには「利他」的な行動が必要だと思っています。
テクノロジーに寄せたところで言うと、メールにCcを入れたり、Slackなどを情報共有に使ったり、というのを好むのも、「利他」に繋がるような気がするからだと思っています。
そんな「利他」について書かれている部分を抜粋します。
利他はどこかとぼけた概念です。
誰かに強制されたわけでもないのに、ときに己の身の安定すらかえりみず、他人の利益になるような行動をしてしまう。事例をならべるだけで、「なんで?」と笑いがこみあげてくるような気さえします。
利他は、「生産性」や「合理化」といった、私たちがくらす社会の標準的なものさしからは、明らかにはずれた振る舞いです。競争における勝ち負けからも、コストやパフォーマンスの計算からも、利他は外れているように見えます。
では利他は、経済活動の外側に位置する、余剰のようなものなのでしょうか? 利他は、余裕のある人が行う、困っている人のための「ほどこし」なのでしょうか?
そうではない、と私は思います。(p.2)
「利他」は、困っている人のための「ほどこし」ではない、と書く伊藤先生は、利他は肩書とか役割とかを剥がして、「人間であること」を考えさせる、ということを書いていました。
一企業の社員であること。店の経営者であること。病院の医師であること。だれもが背負っているこうした「社会的な役割」をいったん脇においたときに初めて向き合えるのが、利他という概念なのかな、と感じています。「私は○○だから」という仮面をはずしたときにようやくその下に現れるもの、というか。
つまり、利他は、生産性や合理化の「外」にあるものではなく、むしろ「下」にあるものなのではないか。もし人間である私たちが、完全に個人的な存在で、自分の利益を最大化することしか考えていなかったら、社会などつくらないでしょう。利他的な関係がまずあって、社会が生まれ、そのうえに私たちが当たり前だと思っている制度や価値観が乗っかっている。利他は私たちの社会のあり方を、土台の部分から考え直すための道具です。
とぼけていながら、「○○である前に、人間として、おまえはどう振る舞うのか」と問うてくる。そう、それが利他という概念の空恐ろしいところなのです。(p.2-3)
この本が雑誌の形態になっている理由も書かれていました。
「雑誌」という形態をとったのも、テーマが利他ならではの事情があります。
先に、利他とは「私は○○だから」という仮面をはずしたときにようやくその下に現れるもの、と書きました。同じことが研究にもいえて、従来の科学の手法である「定義」「測定」「標準化」といったことをしようとしたとたんに、利他はするりと指の間を逃れていってしまうのです。利他は具体的な行為や営みの中にしかないものであり、それ自体、科学への挑戦のような性格を持っています。
だからこそ、論文のように形式が優先されるフォーマットに画一的に思考を落とし込むことはせず、その思考が生まれた具体的な状況ごと、私たちの活動をスクラップブックのように束ねる形を採用しました。定義も法則も出てきませんが、「これってこういうことかな」と横に展開するような想像力で、本書の内容がみなさんの日々の生き方につながっていったら幸いです。(p.3-4)
ここで伊藤先生が書かれている、「論文のように形式が優先されるフォーマットに画一的に思考を落とし込むことはせず、その思考が生まれた具体的な状況ごと、私たちの活動をスクラップブックのように束ねる形」というのは、まさに僕がいま書いている教育ICTリサーチ ブログが目指している形だな、と思いました。雑誌みたいなブログにしたいと思って書いてきたな、と初心を思い出しました。
利他は「与える」ではなく、「漏れる」
続いて、伊藤亜紗 先生と稲谷龍彦 先生の対談で語られていたことからのメモです。ここで伊藤先生が、利他を「与える」ではなく「漏れる」というキーワードで語っているのが印象的でした。
伊藤 障害の当事者はよく「障害者を演じさせられている」と言います。本当にそれをやってほしいかどうかは別として、何かをしてもらったら、できないふりをして「ありがとうございます」と受け取る。先回りの善意はかなりやっかいです。もちろん必要なサポートはするべきなのですが。
稲谷 うーん、なるほど。
伊藤 社会の中で多様性とかダイバーシティと言われれば言われるほど、障害者役が強固になっていく、そういう逆説もよく見られます。だから「与える」モデルで考えることの限界みたいなことを出発点にして、共同研究しているんです。
じゃあ、「与える」ではない利他ってなんなんだろうと考えたときに、今日のキーワードでもある「漏れる」が出てきたんです。漏れるって「漏電」とか「漏水」とか、ふつうはよくないイメージが強い言葉だと思うのですが、本当にそうなのかな、と。というのも、自然界に目を向けてみると、そこにあるのは「あげる」じゃなくて「漏れる」ばかりなんですよね。
たとえば「木漏れ日」は、植物が太陽の光を独占しないで、かといって与えているわけではなく、漏れ出させている状況です。そうすると、地面に近いところに生えている植物も光合成できる。(p.74)
コミュニティのなかで、誰かのためにしたことが「漏れる」ことで全体に広がっていく感覚は、僕が目指したいなと思っている様子かもしれないと思って読み進めました。
伊藤 漏れるということは、閉じつつ開かれている、ということですよね。「漏れる」と「与える」の違いをひと言で言うなら、それは「宛先が決まっていない」ということだと思うんです。「与える」は自分の行為の結果をコントロールしようとしているのに対し、「漏れる」はそれに無頓着。
メールやSlackのやりとりが増えた現代からすると、コミュニケーションツールとしての「声」はなかなかすごいなと思います。声って、一応話している相手はいる、そういう意味でも宛先はあるのですが、まわりの人にも聞こえちゃいますよね。漏れまくっている。
たとえば喫茶店にいると、隣のテーブルの会話が漏れ聞こえてくるじゃないですか。すると、聞き耳をたてるつもりはなくても、こっちもちょっと気になって、いろいろ情報を得て、「みんなあの件についてはこういうふうに語るんだなあ」と知ったり、なんて言うんでしょう、たとえば自分の政治的な立場とかって、けっこうそういうところから形づくられたりすると思うんです。(p.75)
ここで書かれているSlackのたとえや、喫茶店の話、めちゃくちゃわかりやすいです。
伊藤 私は、利他にとって大事なのは「利」よりも「他」のほうだと思っているんです。さっき話したように、障害を持っている方をサポートするときに、「これをやったら相手は喜ぶだろう」と台本をつくってやるのでは、結局している側が何も変わらなくて、自分の価値観を人に押し付けることになってしまうから、それが嫌だなと思って。
その「他」にちゃんと出会っているんだという緊張感、おもしろさを感じるためには、自分の行為の結果がわからないということがすごく大事だと思うのですが、まさに共同体って、そういうものですよね。(p.81)
「利他」と共同体が繋がる感じを受けた対談でした。
テクノロジーは管理に使わないこと
次に、北村匡平 先生と伊藤亜紗 先生と國分功一郎 先生の「おまけのディスカッション」に書かれていたところの読書メモです。
北村 ランダムの話は、都市の問題、スマートシティの議論にもつながると思います。ICT(Information and Communication Technology、情報通信技術)を活用することで、偶然性や異質なものを排除して、非常に住みやすくて快適な生活を提供し続けていく。一方でそれは、自治体がグローバル企業と結びつきながら、われわれの生活や身体といったプライベートな領域まで、データとして管理していくことにつながる。人文系では、管理社会やテクノロジーによる電子的パノプティコン(監視装置)といった文脈で、危機感をもって否定的に語られる場合が多いですよね。
だからこそ、そうした空間にランダム性や偶然性をどう組み込んでいくかは重要な視点だと思います。(略)
コントロールされた規則的で画一的な都市や公園は、すべてを見渡すことができる利点もありますが、居心地の悪さを抱くこともあります。たとえば、先が見えない蛇行した曲線だったり、驚きが生まれるような空間が、利他的なまちづくりには必要なのではないかと思っています。(p.122-123)
ICTが管理の文脈で使われるのはいやだな、と思っているのですが、そこに「ランダム性」「偶然性」をどう組み込んでいくかということが書かれているのはおもしろいと思いました。
ICTを使った学校の授業も、ふとした瞬間に管理の方に転げ落ちてしまったりする感じもあります。自分でも感じます。意識して、「管理はしない。見えてるけど、管理には使わない…」と思いながら僕は授業をしています(それでもうっかり管理しちゃうこともあります…)
北村先生が書いている都市設計とかとは全然レベルが違うかもしれないけれど、関連させて考えることはできそうだと思いました。
まとめ(というか、気づき)
いちばん「これな気がする!」と思ったのは、「利他」は「与える」ではなく「漏れる」ということ。誰かを特定して狙って与えるのではなくて、もっと広く「他」の全体に「漏れる」ように投げていく、そういうことをしていこうと思いました。
この教育ICTリサーチ ブログも、どんどん学校でのICT利活用の良さを広く「漏れる」ように伝えていけたらいいな、と思わされました。
(為田)