教育ICTリサーチ ブログ

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『働くということ 「能力主義」を超えて』ひとり読書会

 勅使川原真衣さんの『働くということ 「能力主義」を超えて』を読みました。著者の勅使川原さんは、大学院で教育社会学を専攻し、外資系コンサルティングファーム勤務を経て、現在は独立して「組織開発」を支援されている方です。組織の中で「働く」ことの辛さ、そこでの「能力主義」のあり方について書かれていた本でした。
 学校でつけられる評価・成績なども「能力主義」と結びついています。能力主義に苦しめられている人もたくさんいると思います(評価する側にも、評価される側にも)。そういうことを考える機会になった本でした。勅使川原さんの筆致がすごく軽やかで読みやすいのにすごくドキッとさせられる本でした。
 読書メモをつけてみましたので共有します。学校も大きな組織で、その組織の中で「能力主義」に苦しんでいる先生方もいると思うので、先生方は読んでみてもおもしろいのではないかと思いました。

「能力主義」について

 そもそも、「能力」とは何か、というところから説明がされます。身分制度よりはずっといいけれど、じゃあ「能力」で人が人を「選ぶ」のはいいの?という話が書かれています。

生まれながらの、本人にはどうにもできない出自(身分)で人生が決められるのは不平等。差別的ではない何か、として編み出されたのが「能力」による区別と配分でした。「選ばれる」ことが、より多くを得るためには不可欠であり、そのために常に努力し続ける国民を生んだのですから、実にあっぱれです。……と、ここで次なる問いが湧き上がります――身分制度は不平等だとして、果たして個人の「能力」によって人が人を「選ぶ」ことを是とする=「能力主義」ならば平等な仕組みなのでしょうか?(p.42)

 学校の成績だって、受験だって、就職試験だって、あちこちで「人が人を「選ぶ」こと」はされています。選んでいるのは、「能力」があるかどうかで、だと思います。では、その「能力」というのはそもそも虚構ではないの?というふうに続いていきます。

「能力」で人生を采配するくらいの勢いでいるけど、誰かそれ見たことあるの?個人の体内に内蔵されているという前提で、それを「正確に」「測る」だの、「伸長」「開発」する、などと豪語しているけど、本気?(筆者の意訳)(p.45-46)

 この「能力」って、そもそもどんなものなの?評価できるの?という問題意識は、本田由紀先生の『教育は何を評価してきたのか』が参照されていました。このブログでも紹介していますが、この本も「能力って何?それってどうやって評価するの?」と突きつけてくる本でしたね。

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 勅使川原さんは、能力主義への異議を述べていき、そもそもの問題が何なのか、ということを書いてくれています。

個人に「良し悪し」をつけるかの能力というものが備わっているとする大前提と、それを評価・処遇の基軸に据えることを良しとする「能力主義」。これに対する異議を、教育社会学の基本的な流れを押さえつつ、私の見解として述べてまいりました。特に、さまざまな能力に関する「設定」に目をやると、気づいてきます。能力主義が社会に最善のルールである、というのは実に人為的な、不自然なゲームのルールなのだと。そして指摘してきたことを上位概念としてまとめるならば、ここに行き着きます。
――そもそもの問題は、個人が社会に一人きりで真空パックされたかのような「人間観」「仕事の成果観」に端を発するのではないか?(p.86-87)

 最後のところに書かれている「個人が社会に一人きりで真空パックされたかのような」評価の仕方・考え方を、学校ではしているなと感じました(というか、入試などの選抜で使うならば、そうならざるを得ない)。そう考えると、学校での成績のつけ方や、それにあまりに振り回されすぎる子どもたちや保護者たちのことを考えてしまいます。
 働くときには、組織の中で人と一緒に働くこともできるし、一人ひとりの能力だけですべてが決まらない場面もあります。そうした視点や価値観は学校だけだとなかなか子どもたちには伝えられないかもしれないな、と思いました。

組織と能力について

 組織と能力について、勅使川原さんがまとめている箇所があるのですが、そこがとてもいいなと思いました。
 いま、組織の中で「能力がない」と自分で思ってしまったり周囲に思わされたりしてしまう人は、定期的に読み返したらいいと思います。僕も定期的に読み返したいです。

○「よい個人」(能力の高い個人)が「よい組織」(「成果」を上げられる組織)をつくっているのか?逆もまた然りで、「成果」がいまいちな組織は、特定の悪い個人(能力の低い個人)が悪さでもしているのか?一人ひとりがもっと「優秀」で「稼げる」存在ならば、組織は安泰なのか?ちなみにその「優秀」とは、額に「優秀」とでも書いてあるのか?

○この世に「望ましい性格や能力」と「望ましくない性格や能力」があるのか?組織で問題を起こすのは、前者を持っていない人なのか?

○言い換えると、自分がまともに仕事ができているのは、自分の能力が高くて、「優秀」だからなのか?あなたを「良し」としてくれている周りのメンバーに恵まれていたり、景気や市場環境がたまたまよいことも多分に影響しているのでは? ……など。

そしてさらに、次のことまで問い尽くす。これが、解くべき問題の「設定」を紐解く、大事な一歩と考えます。

○本当は、組織として策を講じるべきところを、個人の能力の問題に矮小化しているのではないか?個人の能力の問題にしたほうが都合のいい誰か、つまり特定の人の利害と結びついたまま、問題が「設定」されていないか?分かりやすさが実際の有用性より優先されるなど、問題解決用に問題視されていないか?(p.97-99)

 ずっと優劣をつけながら/つけられながら働くのは大変です。働いている場所で、「もっと能力のある人=優秀な人を」と求め続けていても/求められ続けていても仕方ない、ということが書かれています。

本書をお読みの皆さんはこれまでも「働くということ」に、一生懸命向き合ってこられたと想像いたします。ですが、人事にまつわる巷の情報の多くは、採用、評価、配置と重要フェーズのどれをとっても、他者を「見極める」「選ぶ」という範疇にあったのではないでしょうか。「優秀層」や「求める人材像」などといったことばが示すとおりです。レイヤー(層)=序列や、像=規範、「正しさ」ありきの世界観なのです。
でもお気づきのとおり、「正しさ」や「序列」「優劣」には際限がありません。終わりなき旅なのです。どうせ頑張るなら、今の自分や周りの他者を否定して、「もっともっと」を求める生ではなく、自分自身を舵取りすることに精を出す。そして、永遠に終わりなき「正しく人を選ぶ」旅は今日でやめにする。「選ぶ」ということばは、他者に対してではなく、自分に使ってこそ、「働くということ」を豊かにするものだと、肝に銘じたいものです。自戒を込めて。(p.166-167)

 勅使川原さんが組織開発に関わっていて、能力主義から脱することができた人の話が事例として紹介されていました。こういう事例、とてもいいなと思います。

次第に、その所長は「優秀」な奴を「選ぶ」、できる奴だけ育てる、というような感覚から、自分のモードを「選ぶ」ことで、どんなメンバーも活躍させることができることを体得しました。今も大勢のメンバーを抱えていらっしゃいますが、たまに「俺って、この新人のどこを特に見てあげるべき?」「どこを突くと、この子ってもっと走ることができそう?」などと相談をくださいます。当初は「何でこいつは売れないんだ?」という、問題解決にはほど遠い問いでしたが、だんだんと「どうしたら売れる営業を採用できる(選べる)か?」という問いになり、最終的には、「いかに状況に合わせて自身のモードをコントロールすれば、気持ちよくメンバーが動けるか?」という問いに変わってきたのです。(p.171-172)

 組織で働くときに大事なヒントをたくさんもらえました。つい、「いまいるメンバーじゃダメだ」と言ってしまいがちだけれど、「今いるメンバーでどう噛み合わせられるのか」と考える方にモードを変える、という話が書かれます。

大事なのは、個人単体で見て、どっちがいい/悪い、という議論にはまってしまわないことです。思考すべきは、今いるメンバーの志向性とやっている事業、それを推進する組織体制とが、噛み合っているか/いないか、という点です。(p.208)

「他者と働くということ」のカギが、他者を「選ぶ」ことにあるのではなく、自己のモードを「選ぶ」点にあると述べてきました。(p.209)

 学校も教育委員会も組織です。いろいろな組織でいろいろな先生方と関わることが多い僕のような仕事の仕方をしていると、他者と働くときに「自己のモードを「選ぶ」ことができることはとても大切だなと思いました。

リスキリングについて

 最後にリスキリングについて勅使川原さんが危惧していることを書いてくれています。こうしたことも頭に入れながら学校に関わっていきたいと思いました。

そもそも、リスキリングだのなんだのと言って、政府が支援するのは結構なことなのですが、私には二つ、危惧していることがあります。
一つは、政府、つまり岸田内閣肝いりの「新しい資本主義」において、「リスキリングによる能力向上支援」を「分配戦略」だと説明している点です。すでに各々が地道に頑張ってきたことを認め、「分配」するのではなく、「みんながもっと『できるようになる』ことが増えないと、『成長の果実』なんて夢のまた夢ですよ」――そんな啓蒙を国を挙げて行うのはいかがなものでしょうか。これを「分配戦略」と語るのは、あまりに脆弱ではないでしょうか。
またもう一つは、支援する矛先が、典型的な「新しい技能」に偏っている点です。勘違いしてはいけないのは、リスキリングのために「新しい技能」が必須なのではありません。逆も然りで、「新しい技能」を身につけることがただちに、リスキリングしたぜ!ということではありません。今ある感覚、知識を俯瞰して、既知の物事から「新しい一面を見る」という挑戦を自ら「選ぶ」こと。これこそが、今まさに求められる日本流リスキリングの在り方のはずです。(p.211-212)

まとめ(というか、気づき)

 読んでいてとても心に残ったのは、(1)「能力主義」に限界があるだろう、ということと、(2)組織で働くときに他者を選ぶのではなく、自分のモードを選ぶといい、ということでした。

 学校での評価のことを考えるときに「能力主義」のことは考えるべきだと思ったし、組織で働くときのモードの話は自分自身にも役立つし、いま組織の中でしんどい思いをしている人たちにはちょっと救いになるかもしれない、と思いました。読んでみてほしいな(強要するものではもちろんないけれども)。

(為田)