フューチャーインスティテュート株式会社の代表・為田裕行と教育コンサルタント・佐藤靖泰の2人で、映画「小学校 ~それは小さな社会~」を見ての感想を語り合ってみました。
為田も佐藤も毎年のべ150校くらい学校へ行って学校の先生方をサポートしています。佐藤は2018年6月に弊社に参画するまで、宮城県内の小学校で25年間教職を務め、宮城県総合教育センター、宮城県教育庁でも仕事をしていて学校現場のことも教育行政のこともよく知っています。
教育に関心のある方々に多く見られていて、さまざまな感想が寄せられている映画「小学校 ~それは小さな社会~」を見て、お互いにどんなことを感じたのかを共有しようと実施した対話の記録をシェアします。

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為田:「小学校~それは小さな社会~」、僕も見てきたんですよ。僕ら2人で教育に関する同じ映画を見ることってあまりないような気がするので、せっかくだからいろんな感想を語り合いたいなと思って。
佐藤:いいですね。
為田:僕が思ったのは、日本の学校の良いところと悪いところを煎じ詰めたような映画だな、ということ。そして、どっちかというと「嫌だな」の方が強かった。
演奏会の合奏練習のシーンで、楽譜を見なきゃ演奏できない子に対して、「なんでみんなは楽譜を見ないでできるんですか?」「練習してきたからです」みたいなやりとりがあったじゃないですか。あのシーンは本当につらかったです。でも、こういう先生もいたな、って。あんなふうに訊いて答えさせて何になるんだろうって思いましたね。靖泰さんはどうでしたか?
佐藤:いま為田さんが話題に出した演奏会の練習のシーンは、胸を締め付けられたんですよ。なぜかというと心当たりがあるから。自分はあれをやったなぁ。だから、あそこに出てくる先生方の言動の多くを、自分は先生をしていた25年の中で散々やってきたことがあるなぁ、って思い当たるわけですよ。一つ一つほとんどすべてにおいて。
当時は良かれと思っていて、脊髄反射で行動してるから、ああいうことになってしまっていたんだと思うんだけど。しかも、「自分でこれが正しい」「こうするのがいまの指導のベストだ」というふうに思って、脳みそというよりは脊髄で反射して、あれをやってきた。だけど、今までも自分は思い出して「良くなかったなぁ」と反省することはあったとしても、どちらかというと「もう終わってしまったことだから」みたいな感じで他人事(ひとごと)感もあったわけです、正直言って。生々しい自分を思い出しちゃう。だから俺は、彼らが自分に見えちゃう。それを第三者的な目線でああやって見せられると、自分のしたことの罪深さみたいなのがあからさまにされたようで、めちゃくちゃ辛かった、っていうのが正直なところかな。
あとは、6年生の避難訓練のシーンで、先生が腕組みして「今なんでそんな行動してんだよ」って「今なんだと思ってんだ」っていうふうに怒鳴るじゃないですか。あれもザクザク刺さるわけ。まさにそうしてたな、と。これはあの合奏の練習の時に辛かったのとは別な刺さり方で。避難訓練のときの、「お前ら何やってんだ」っていうのは、危機感を持たせなきゃいけないとか、ヘラヘラしているのはダメだっていうことをきっちり伝えなきゃいけないっていうことが自分がしたときにあったんだけど、あれを見たときに「避難訓練を真剣にやらなきゃいけない」とか「本番の通りにやらないと、いざというときにちゃんとその通りに行動できないから自分の命に関わるんだぞ」みたいなことを自分は学級でちゃんと事前に指導した、というプライドというか事実というか、それがあるにもかかわらず、実際子どもが行動してるときにそういう気持ちになれてなかった、ということに対する苛立ちが現れてるんじゃないかなと思って。自分も、「子どもの命を守るための真剣さだ」と頭の中では自分にも言い聞かせていながらも、ああやって表出したものを見ると苛立ちの表出というふうに見えてしまうんだ、ということを頭の中では理解してたけど、ああしてまざまざと見せられると「うーっ」となる感じかな。
為田:あれを「苛立ちの表出」だと思うあたりが、靖泰さんがやっぱり元・先生というキャリアだからじゃない?
佐藤:じゃないかな。多分。
為田:保護者の方々はそんなことないかもしれないですよね。ずっとクラスに密着してカメラが入って見てて、そのなかであの厳しく指導しているシーンがああやって選ばれて映画に入れられることで、どちらかというと「大事なことは厳しく指導している先生」みたいな感じになりますよね。
佐藤:多分、映像側の意図とは違う見方を俺はしている。
為田:先生ならではの見方をしてるんじゃないかなっていう感じがしますよね。僕もいま週に1日だけど子どもたちを教えていると、あんなに言ったけどやらかしてしまう子どもに対して、苛立ちがゼロかっていうと、そんなことはなかったりもする。こちら側のバイオリズムも当然あるし。
卒業式の後で、職員室での6年生の学年団としての最後の挨拶で先生が「本当に辛くて何度かもうダメだって思ってました」みたいなのがあったじゃないですか。先生が弱みを見せているところって、あの場面で初めてだったじゃないですか。でも、「もう辛くてダメだ」と思うこと、たくさんありますよね、って学校に関わったことがある僕らは思いますよね。
でも、保護者として先生を見ていると、「全然そんなふうに見えなかったのに」みたいなのもあるんだろうな、と思って。楽しそうに卵の殻割ってるシーンとかあったし。早朝から学校に行って、頑張ってらっしゃったのは見えたけど、辛そうな場面はあんまりメインのストーリーのラインとしては出てこなかったしね。
佐藤:もう一点印象的だったのは、放送委員会の彼ね。あの運動会の練習をするじゃないですか。
為田: 縄跳びね。あーよかったね。あれ。すごい好きだった。
佐藤:そう思った?俺はね、あの中ですごく気になったシーンがあったのよ。これも全部自分に身に覚えがある話になっちゃうんだけど。彼、縄跳びができなかったじゃん。ある程度、全体練習が進んでいるなかでもできなくて。で、ペアで相互評価してできないところを教えてあげようね、みたいなシーンがあったじゃないですか。
為田:ありましたね。隣の女の子とペアになってね。
佐藤:ああ。自分もやったなぁと思うわけ。
為田:あー、そうなんだ。
佐藤:「できないことはこれだよね、って言ってあげて、それができるようにするにはどうしたらいいかな、って考えるといいよね」とか当時考えていて、そういう時間をとった記憶があるわけ。運動会にせよ、他の行事にせよ。でもさ、客観的に見せられると、やっぱり彼は「よし、そうか、自分ができないのはここだから練習しなきゃ」と思って練習したのかと言えば、違うよな、と思って。
為田:いや、違うと思います。僕はね、小学生の頃、わりとできる子だったんですけど、縄跳びとか鉄棒とか水泳とかが苦手だったんですよね。それが本当にいやで。他のことができる分、よけい自分で許せなかったんですよね。周りから「できるだろう」と思われているのも自分で耐えられなくて。できないことをああやってクラスメイトに指摘されるのは、当時の僕は絶対いやだったな。
佐藤:うんうんうん。
為田:その分許せなくて家で一人で練習する気持ちがわかる気がして。だから、できるようになったときのあの子の笑った顔がすっごい好きだった。
佐藤:そうそうそうそう。
為田:あそこめっちゃ良かった。
佐藤:そう、 あのやり方がね。しかもその女の子がさ、結構ぶっきらぼうじゃんか。「1からできてないからやり直せば」みたいな感じだったような。
為田:いやー、多分女の子も「できてないことをあなたは分かってるだろうけど、言わなきゃいけないんだ。ごめんね。でも、これぐらいしか言えることないよ」っていう感じの顔だったじゃないですか。
佐藤:そう、そうなのよ。だからさ、そういう思いをさせる必要があったのかな、ってすごく思ったわけ。
為田:ねっ。
佐藤:なんだけど、彼は一生懸命、家に帰ってから練習したんだよね。あの家の前の道路で練習してできるようになって、運動会の本番でもうまくできて喜んで。最後のピースの写真の撮影の時なんていい笑顔だったじゃないですか。そこでね、すごい細かいとこなんだけど気になったのは、その一連の最後の子どもが喜んでピースして写真撮ってるところで、担任の先生がその子のことを見ているのか全体のことを見てるのかわかんなかったけど、うまくいったのを見て満足げにうなずきながら微笑んでるワンカットが入ったわけ。あれも、自分を見てるようだったんだけど。
為田:見方の解像度が高いわ。
佐藤:多分、あの先生は、自分もそうだったけど、プロセスがわかってないじゃない?あの男の子が、学校以外のとこであれだけ一生懸命練習してやってる思いがあって、できなくて辛いとか、友達に指摘されて辛いとか。友達も「本人が重々分かってるだろうことを、なんで言語化して指摘しなきゃいけないんだ」とモヤモヤがあっただろうし。その一連のプロセスはわかってなくて、でも練習して、運動会の最後にみんなでバシッと決めて、「よかった!」って盛り上がってる姿を見て満足げにうなずいてたように俺には見えた。そして俺は過去にそうだったと反省したわけ。
為田:なるほどね。
佐藤:だから、なんかこうあの先生がいい悪いとかっていう話じゃなくて、子どもには子どもの人生があってね。子どもの人生には、いろんなプロセスもあるし人間関係もあるし。そのなかでゴールに向かっていけたっていうことは、先生とか学校の影響もあるけど、その子のパーソナライズされた努力っていうか、生活の中でやっていることが、結果として表出したんだ。だから「彼が頑張ったからだよね」っていうことを純粋に寛容に認めるっていうことが、これからの学校っていうか、先生方のマインドにはぜひあってほしいな、っていう願いをもったな。
為田:担任の先生だったら、話をしていたりしたんじゃないですかね?「先生、おれ家で練習してんだよね」って、あの子は先生に言うかな?
佐藤:言わないと思う。
為田:言わないタイプかな?
佐藤:言わないと思うなぁ。
為田:言われなかったら見ててもわかんないですかね?
佐藤:うーん、わかんないんじゃないかな。わかる術もないんだよね。でも、なんか俺はそうやってわかんないで、「みんなよかったね。大成功だったね」って運動会の後に言ってたのは、結局自己満足でしか言ってなかったのかもしれないなぁ、っていうふうにすごく反省させられるというのかな。
だから多分学校の先生が見ると、あそこに映っていた先生たちがいいとか悪いとか、もっと別なやり方があるだろうとか、ああいう言い方はないだろうとか、思うこともいっぱいあったりするかもしれないけど、これから先のことを考えたときに、自分たちの生活場面を切り取って子どもたちのああいう表情を客観的に見せられることで、子どもたちに湧く感情を先生方に体験してほしいと思った。
為田:ああ。なるほどね。
佐藤:自分たちの日常である学校での日々をここから見たときに。何がどう見えるのかっていうことを、実は俺たちは想像してないよね?そこはメタ認知じゃないけど、それをリアルに見せられたっていうのはある意味衝撃だったなぁ。だから先生方にも、どういう感想をもってもいいんだけど、そういう体験・経験をあの映画を通してしてくれたらいいかなって思った。
為田:なんかこう全編通して、先生方と子どもたちのやりとりがすごく描かれているなかで、放送室だけ放送委員会の男の子と女の子の2人のしゃべりがめっちゃ多かったじゃないですか。あそこでぽつぽつ言われる不安とか、できなかったことができるようになることとか、何かあの放送室の子どもだけのあの空間での会話って、普段僕ら大人は見られないことが多いじゃないですか。大人が覗いているだけで、子どもたちの言葉も変わっちゃうし。まあ、あの場もカメラマンさんがいたんだから、純粋に2人だったわけじゃないだろうけど。大人がいない子どもだけの会話のシーンが見られるのがすごく素敵だな、と思って、放送室のシーンがめっちゃ好きだったな。
佐藤:うん、俺も。あれはなんか、すごくいいシーンだよね。それこそコロナで分散登校になったときに、あの彼が一人でやんなきゃいけなくてさ。放送室に入っていいんだかもわかんないし、入り方もわかんないし、みたいな。廊下でもじもじしてたら先生が来て、「大丈夫だよ。いつものようにやってくれれば」って言われたけど、いつも彼女がやってくれてるから自分は操作の仕方がよくわかんないみたいなね。
為田:スイッチわかんなかったりね。
佐藤:あそこでまた、彼は、彼女が今までやってくれたことに感謝するかもしれないし。やらせっぱなしだったんだなって反省するかもしれないし、「おれもちょっと覚えとかないとやべえかな」と思うかもしんないし。なんかそういうので子どもたちの人間関係とかっていうのは作られていくんだなっていうのがすごく見えたシーンで。あの放送室の場面がときどき挿入されているのはそういう感じがしたなぁ。
為田:うーん、いやーすごい。なんかよかったね。
佐藤:うんうん。
為田:この映画に関する記事をネットとかで読んでいると、「6歳ぐらいだと子どもの様子は外国とあんまり変わらない。でも、小学校の6年間かけて日本人が作られる」というようなことを書いてる方がいて。それを読んでから僕は映画を見に行ったんですけど、日本人らしさを作ってるシーンっぽいのが意外とないんだな、と思ったんですよね。それをあまり感じないのが、僕が学校に近いところで仕事をしているからもあるかもしれないし、余計怖いのかもしれないですけど。学校という場があるから子どもたちが勝手に日本人になっていくというのがすごいな、と。日本の学校というずっと続いてきた制度があまりに出来上がってて、いわゆるヒドゥンカリキュラムになりきってるのかなぁ、と思ったんですよね。
佐藤:うんうん。同じ観点になるのかどうかはわかんないけど、やっぱり見たときに懐かしさを感じたよね、少しね。
為田:それは先生としての懐かしさ?自分が通ってた方の懐かしさ?
佐藤:両方だけど、自分が教員だった時の記憶の懐かしさかな。
為田:そっちの懐かしさなんだね。まあそりゃそう近いし長いもんね。そっちの方がね。
佐藤:うん。それを見たときの懐かしさっていうのはちょっと複雑なところもあって。「懐かしいな。やっぱ学校っていいな」って思ったのが一つと、あともう一つはそれこそコロナの時の話なのに東京都区内の学校でも「え?まだこうなの?」っていうのもあった。
為田:どんなとこ?
佐藤:だから、運動会の練習もああやって全体練習とかってずっとやってるのもそうだし。先生が朝、自分で学校を開けて中に入って朝ごはん食べて、その後に管理職が来て「あ、今日も朝早いね」って挨拶するみたいなね。
俺が教員になったのは平成4年だけど、その頃から学校ってずっとどんどん変わってきたと思うんだけど、この映画を見ていて、今どきの学校の風景っていうより、どっちかっていうとその平成初期の学校の風景に近く見えた。だから自分が思ってるほど学校って変わってないんだな、って。それが懐かしさとともにこのまんまでいいのかなっても思ったしね。
為田:そうね。そうかもしれないですね。意外とそうですね。授業シーン自体はそんなに多くもなかったし。
佐藤:うんうん。まあ授業の中身とかやり方は変わってんだろうけど。学校のシステムっていうか全体像っていうのは変わってないなって。
やっぱり保護者とかの目線で見たら、自分が小学校の時とかと比べるしかないわけですよね。そのときに、「あー懐かしいなー。学校ってこうだったよね。こうやって日本人っていうのは作られていくんだよね、善かれ悪しかれね」みたいな感じで終わっちゃうのはちょっともったいないなって気もする。むしろ、「じゃあ、これからの学校ってどういうふうにあった方がいいのかな」とか。
あと、卒業式の練習のシーンとかも思ったね。うん、俺はもっと厳しかったよ。卒業式の練習のとき。
為田:卒業式の練習って先生方、厳しいですよね。僕は指導する側に回ったことはないけど、卒業生として練習しているときは、卒業式本番が終わったときに「やったー、もう練習しなくていいんだ。体育館、寒かったもんね!」と思いましたもん。
佐藤:そうそうそう。だから、まさにそれが日本人のメンタル性を作っていくんだと思うんだよね。
為田:ですかね?あと、さっきの運動会の話にも繋がるかもしれないけど、ビシッと揃ったことに喜びもすごく大きいですもんね。しんどかった練習が報われた感がすごいじゃないですか。でも、大人になって同窓会とかで卒業式の話になると、みんながみんなそうじゃないってことを知るわけですよ。僕はやっぱり、自分ってすごい優等生側だったんだなって思って。卒業式の練習で、先生から厳しく言われて「たしかにな」と思ったし、「うるさくしてるやつ、ちゃんとしろよ」と思っていた側だったし。きちんと揃えばすごく嬉しかったし、ああやってニコニコで写真に映る側の子だったな。そうじゃない子たちも多分いっぱいいたんだろうなって気づくのは、僕は卒業してだいぶ経ってからでした。なんかそういうのも、「僕も典型的に日本人ってことか?」みたいな気がすごくする。
佐藤:俺は自分の中で自己肯定感がものすごく低いっていうのもあるんだけど。それはやっぱり子どもの頃から自分はどっちかといったらできない方だったから。成績なんかもできない方だったし、走ったり跳んだりするのは好きだったから、ちょっと足が速くてとかっていうことはあったけど、特にお勉強の面とかでは、自分では全然できない子だと今でも思ってる。そういうとこがあるわけなんですよね。でも、それこそ大人になってから同窓会で会ったりすると。いつも人の中心の部分にいて、すごくできる子というふうにみんなの印象に取られてたっていうことが後で分かって。そのギャップがすごくショックで。「えー、そんなことないのに」って言っても、「またまたそんな謙遜しちゃって!」みたいに言われるのがすごくいやで、あんまり同窓会とか行きたくないなって思ったりもするんだけど。
為田:ありますよね。そういうのって。
佐藤:なんかそういう、個々人でいろんなギャップがあるな、っていうこととか、そのギャップの飲み込み方ってやっぱり人それぞれいろんな経験とかであるよね、とか。もっとそういうのをこれからの学校って包含してあげるっていうかね。そういうもんだよっていうことを大人がわかっててあげたらいい。俺は「寛容に」って言葉を使いたいんだけど、子どもたちのそんないろんなトラブルとか悩みとか、複雑なところに関しても、「わかってるよ」とか「大丈夫だよ」とか、「これからいろいろ面白いこともあるよ」とかっていうことをちゃんと伝えていけるようになってほしい。心にも時間にもそれだけの余裕があるような、子どもにも先生にも余裕があるような、そんな学校になっていけばもっとよくなると思う。やっぱり日本人が日本人たる所以は学校にあるんだと思うんですよね。
為田:あんまり好きな言葉じゃないけど「一般的」な社会の仲間になれる人をなるべく増やしましょう。みたいな社会の入り口じゃないですか、学校って。この映画の副題にも「小さな社会」と入っていますからね。そういう視点は、もちろんあるんだろうなと思いましたね。
佐藤:そうそう。だから、文部科学省とか、学習指導要領とか教育基本法とかは違うのかもしれないけど、実際の学校っていう現場では「社会で活躍する人間」とか「人格の完成を目指してやっていく」っていうのは頭に入っていても、その社会観というか「この子らが生きていく世界ってどういう世界なのかな?」「そこでうまく楽しく生きていけるような人になってほしいんだけど、そのためにはどうしたらいいのかな?」みたいなことの想像力みたいなのが、もしかするとちょっと足りなかったりとか、あんまり想像しなくなっちゃってたりとか、想像する暇もなかったりとか、そういうことが重なってきて、若干制度疲労的に見えるのかもしれないな。だから、その社会観みたいなことがリニューアルされないというか。見える現象面でも、学校っていう全体像で見ると、それこそ平成のはじめの頃からあんまり変わらなく見えてしまうみたいなことはあるのかなって。
だから、「あのやり方が悪い」とか批判するよりは、やっぱりこうメタに見たときに、「じゃあ、これからの学校ってどういうふうにしていったらもっと楽しかったり、いい学校になるのかな」っていうことをみんなで考えるきっかけとして、特に現場の人たちには捉えられてもらうといいなぁと思うんですよね。
学校の先生って、学校の先生になるっていうメンタリティだから多くの人は学校が好きなわけですよ。だから、学校に対して多かれ少なかれ成功体験があって、それを再生産しちゃうんだよね。自分の経験に引っ張られるし、知識としてのアップデート・脳みそのインプットだけでは体験とか自分の歴史みたいなものに勝てないんだよね。だから、それを乗り越える一つのきっかけに、この映画がなったら面白いかなと思いますけど。
為田:僕は、平日の朝に見に行きましたけど、「今日は研究日なのかな?」という感じの、学校関係者っぽい雰囲気がたくさんいたような気がしました。映画が終わって客電がついて、ちょっと見渡すと授業の研究協議にこれから入る前みたいな目をした人たちがいっぱいいたような気がしました。
まあ、でも僕は本当、自分の言葉への反省がすごい大きかったな。感情的に怒っちゃったり。つい言わないでもいいことを言っちゃったり。「こういうの僕もやっちゃってます、すいません」みたいな気持ちになりました。
佐藤:そう。出た後もうボロボロ泣けてきたもん。俺。本当ごめんよって思ったもんね。
為田:そして、それの答え合わせも本当に分かんないですからね。
佐藤:わかんないんだ。こればっかりは本当。
為田:やっぱり、普通の仕事と全然違うじゃないですか。本当、RADWINPSの「正解」って曲じゃないけどさ。「答え合わせの時に私はもういない」しさ。本当に。
佐藤:本当にそう、そうなのよ。そうなんです。
為田:で、こっちがこうだったなって思っているのと、子ども本人がそう思ってるかどうかもまた全然違うし。
佐藤:確かめようもないしね。
為田:そうなんだよね。なんかすごい。そんなことを思うと大事な仕事だけど、怖い仕事だなって思うかな。
佐藤:そうなんです。そうなんです。今、為田さんが言った大事な仕事「だけど」なのか「だから」なのか「プラス」なのかわかんないけど。うん、あの、意外と怖い仕事だよね。
為田:いや、怖いと思います。
佐藤:っていうことは。なんかね、俺、今の中堅とかベテランにもう一回自覚してほしいとは思う。自分が学校の外に出てしまったからかもしれないけど。研修でいろんな学校を回ってて、いろんな人たちを見るけど、この人たちって自覚と覚悟がないんだなって人もやっぱり1人2人はいるわけさ。それを表出させていることに無意識だし、恥じらいもないんだよね、うん。これはちょっと考えてもらわなきゃいけないなって思う。
為田:僕も「あの先生にこんなこと言われたな」って覚えてるのが何個かありますしね。それはみんなの前で怒られてるとかでっかい場面じゃ全然なくて、廊下でパッて言われた一言とかなんですよね。
佐藤:そうそうそう、すごくパーソナルな部分のことの方が覚えてたりするよね。
為田:そっちの方がやっぱり覚えてるなぁと思うし。昨日、僕が教えてた授業で、なんかすごくできる子が何かを僕に伝えに来たんだけど。瞬時には僕が分からなくて。「ん?」って聞き直した瞬間に「あ、もういいです」って席に帰っていっちゃって。こういうのが地味にすごくくる。「どう答えたらあの子はもっと…」って、やっぱりすごく思うじゃないですか。
佐藤:はい。はい。
為田:で、それを小学校だったら1年間担任持ったら、クラスで30人とかでしょ。これを何十年もやるんでしょ?すごい仕事ですよ。
佐藤:だから、やっぱ脊髄反射が必要なんですよ。脳まで考えてらんない。学校現場って脊髄反射なんですよ。だから本当に日々綱渡りなの。
為田:でも、だからこそ、やっぱりゆとりがないときついよね。ちゃんとしたできるだけベストに近いコンディションでやっぱり脊髄反射したいじゃないですか?
佐藤:うんうん。
為田:本来は脊髄反射って必ず同じのが出るんだろうけど。やっぱりね、すぐ反応しなきゃいけないってリアクションとらなきゃいけないっていうのを考えたときにね。いいコンディションであることは大事ですよね。たしかに。
佐藤:本当にそうだと思います。
為田:子どもたちもだけど。
佐藤:そうそうそう。だから子どもも大人もね、本当にあそこに出てきてる先生方は本当に日々似たようなことは起きるかもしれないけど、同じようなことって二度と起きないわけですよね。
為田:そうだよね。
佐藤:だから、結局指導の再現性ってほとんどないわけですよ。だけど、それってつらいじゃないですか?結局毎回毎回新しいことに対応していくっていうのは自然とストレスもかかるわけだから。だから、学校って意外と去年と変わらないことをずっとやり続けたいわけですよね。指導の再現性がほしいから。去年やったことと同じ指導ができれば今年の方がいいじゃないですか。でも本当、人の営みであり、生物(なまもの)を扱ってるわけだから再現なんかしないんですよ。だから、そこでどんどんギャップが生まれていくわけですよね。行事とか形は去年のまんま。先生の指導も去年のことを利用しながらやるんだけど、対象の子どもたちが違うってことが常に起きるので、そこでギャップが生まれていく。先生は去年はこの方法でうまくいったのに、なんで、今年のこの子たちにはうまくいかないんだろう?って考えると、うまくいったっていう成功体験があるから、「今年の方法が悪いんじゃなくて今年の私のやり方を理解しない子どもたちが悪いんだ」みたいな形になってしまう。それが延々と続くっていうことの恐ろしさっていうのかな?なんかそういうのをすごく考えさせられていたことを、あの映画でさらに自覚させられたみたいな感じかな。
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こんな感じで感想を語り合いました。僕は、対話をするなかで自分のなかでモヤモヤしていたことが言葉にできたところもあったし、新たな視点も得ることができたので、対話の感じがわかるようにあえてあまり手を入れずに、分量も多いままで公開しようと思います。
2025年2月10日現在、映画「小学校 ~それは小さな社会~」は全国で劇場公開中です。ぜひ、お近くの劇場でやっているならば、ぜひ見に行ってみてください。そして、感想をいろいろと語り合いたいです。先生という立場でなくても、学校に関わっているすべての人が何かを考える機会をくれる映画だと思います。
(為田)