教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『親に知ってもらいたい 国語の新常識』

 灘中学校・高等学校の井上志音 先生と教育情報サイト「リセマム」編集長の加藤紀子さんの共著『親に知ってもらいたい 国語の新常識』を読みました。現役で国語の授業を学校で教えている井上先生の実践がベースにあり、これからの時代に求められる国語力を考えるヒントをたくさん見つけられたので読書メモを共有します。

序章 学校では国語をどう教えているの?

 学校では国語をどう教えているのか、ということが書かれていた序章で、いちばんいいなと思ったのは、「IBが価値を置く人間性を10の人物像として表したもの」(p.38-39)でした。

  1. 探究する人 Inquirers
  2. 知識のある人 Knowledgeable
  3. 考える人 thinkers
  4. コミュニケーションができる人 Communicators
  5. 信念をもつ人 Principled
  6. 心を開く人 Open-minded
  7. 思いやりのある人 Caring
  8. 挑戦する人 Risk-takers
  9. バランスのとれた人 Balanced
  10. 振り返りができる人 Reflective

 目指すべき人物像をこうして言葉として明示することは大事だと思います。僕も、「これ、自分の授業でできているだろうか?どのあたりが強い/弱いだろうか?」と考えていきたいと思いました。

 出典は、IBの「Learner Profile for IB Students」です。文部科学省 IB教育推進コンソーシアムのサイトでも、詳細を読むことができます。

第1章 国語力が伸びる!子どもの学びとのかかわり方

 「第1章 国語力が伸びる!子どもの学びとのかかわり方」では、井上先生と加藤さんが対話しながら、学校で行われている国語の授業について考えさせられます。

p.86
井上先生:「解釈」という観点から言えば、国語の授業内においては、解釈は一つではないけれども、なんでもありというわけではないということです。れっきとした「誤読」は存在するのですね。これは(略)「根拠づけ」の話につながります。その根拠づけがどこまで妥当かという話です。私の授業でも、「そこを根拠づけにするのはトンデモ読解ではないか?」という解が生徒から出てくることがあるので、授業の中でそれをあぶり出していくわけです。

 「解釈は一つではないけれども、なんでもありというわけではない」というのは本当にそうだと思っています。きちんと読めるようになる、ということは特に初等教育段階では大事だと思っていて、国語の授業の自由進度学習で読解までを児童生徒に委ねているのを見ると、僕は「そこはちゃんと読み方を先生が教えてあげる方がいいのではないか…」と思います。

 続いて、国語の授業で、どんな文章を読むのか、ということについてです。

p.92-93
井上先生:IB校も含めて、海外の国語は基本的に文学を扱います。説明的文章を「論理国語」という科目名に収めて実施しているのは日本くらいです。たとえば科学論は理科の授業で、歴史学の本は社会の授業で扱えばいいはずです。国語の授業で独立した科目として評論を読むというのは日本特有の文化なのです。

 それぞれの授業の中で、文章を読む時間をしっかりとるのは大事だと思うものの、学校ではあまりできていないかもしれないですね。それこそ、探究型の学習でどんどん本を読む機会が増えたらいいなと思います。

 学校の国語の授業で、文学をあまり読まなくなっている、という話についても触れられています。実用的な文章を読めることは、たしかに社会生活上大事ではあるけれど、あまりに実用的な文章にばかりいくのは、本を読む楽しさには触れられないかもな、と思いました。 

p.93
加藤さん:学校での文学離れは、今後どのような問題を生じさせると思われますか。

井上先生:個人の体験や具体的な経験をないがしろにする風潮に拍車をかけるのではないかと危惧しています。ある人にしかわからない体験など、客観性がないのだからどうでもいい、という風潮が生まれてくるのではないかと。
灘校でも時折、自分の具体的な体験をプレゼンしたり、言語化したりするような場面で、「何の意味があるの?」という反応をする生徒がいます。中学受験では、「あなた自身がどう考えるかは問題ではない」と子どもたちが抑圧されている面があります。筆者が言っていることをかいつまんで説明しなさいとか、これを書いた人の視点に立って答えなさい、といった設問が多いために、子どもたちからすれば「あなたの意見はどうでもいい」と遠回しに言われているように感じるのではないでしょうか。

 「個人の体験や具体的な経験をないがしろにする風潮に拍車をかけるのではないか」という井上先生の危惧は、なるほどと感じました。自分自身もちょっとその気がある感じがします(大学入試の小論文対策がまさにそんな感じだったからだろうか)

p.95-96
井上先生:評論に慣れすぎてしまうと、客観性ばかりを重視するようになります。すると、それこそ随筆やエッセイのように、体験から始まってそこでの気づきで話を落とすような文章などは、よほど意識的に指導しないと書けるようにはなりません。

加藤さん:子どもが「あなたはどう思ったの?」と聞かれて、自分が思ったことを答えたときに、「そういう見方もあるよね」と言われると自信や自己肯定感につながるのは、国語の授業ならではですよね。アートなども同じです。そのように、自分がどう感じたかを認めてもらえる授業って、一部の子どもたちにとってはすごく大切な居場所だと思うのですが、いかがですか。

井上先生:それは大きいですね。一方で、その裏返しで、「もしも自分の感じ方がほかの人に共感されなかったらどうしよう」という恐怖心や不安感も子どもたちにはあるのかもしれません。

 「自分がどう感じたか」を認めてもらえる授業で、いろんな「自分がどう感じたか」を出し合って認め合えることがいいと思っています。だからこそ、「自分がどう感じたか」を安心して表明できる教室環境を作らないといけないなと感じます。一人ひとりがたくさん意見を言うけれど、なんとなく予定調和的な一つの答えに収斂していく、というふうにならない国語の授業がいいなと思います。そのうえで、「どんな感じ方=解釈でもいい」というのではない、ということが大事だと思います。

p.100
井上先生:評論など、文章種によっては「書かれたことさえ読めればいい」のかもしれませんが、そこにとどまらない言語文化があります。書かれた言葉からこぼれてしまった部分をどこかで拾ってあげないといけません。

 「書かれたことさえ読めればいい」のではない、というのが、文章を読む力に繋がって、それはきっと自分で本を読んで学んでいける伸びしろになるように思いました。

第2章 考える力が育つ!おうち国語レッスン

 「第2章 考える力が育つ!おうち国語レッスン」では、家庭でできる国語の力の伸ばし方が紹介されていたのですが、そのなかでは、問いづくりの手法として紹介されていたQFTが興味深かったです。

p.162-163
問いづくりの手法「QFT(Question Formulation Technique)」

守るべきルールは4つだけ

  1. できるだけたくさん問いをつくりましょう
  2. 話し合ったり評価したり答えたりしません
  3. 問いをそのまま書き出しましょう
  4. 意見や主張は疑問文に直しましょう

 これ、やってみたいなと思いました。より深く知りたくなったので、出典として書かれていた、『たった一つを変えるだけ クラスも教師も自立する「質問づくり」』を読んでみたいと思います。

第3章 国語のお悩みQ&A

 最後の「第3章 国語のお悩みQ&A」では、いろいろなQ&Aが読めます。そのなかでは、「他人の意見に耳を傾けない子」についての質問が印象に残りました。というか、井上先生の回答がとても好きです。

p.212
井上先生:他人の意見に耳を傾けない子どもは少なからずいます。一方、他人の意見ばかり聞いて、そもそも自分の考えを持たない子どもも心配ですが、両者に共通するのは、他者と話し合ったり意見交換したりすることで自分の考えが変わった、という体験をしていないということです。
「自分だけが納得する意見は持っていて、それを他人に否定されたくない」という考えが前者は根底にあるのかもしれません。でも実際の学校の社会的な場では、自分とは異なる意見を持つ子がいて、話していく中で「なるほど、それも一理あるかもしれない」と自分の考え方が広がったり狭められたりします。それは本来、喜びを伴う体験のはずです。
(略)一つの学び舎でいろいろな子たちとともに学び合うことの価値を理解するためには、周囲と信頼関係を結び、視野を広げる必要がありますが、これにはある程度の時間を要します。

 学校でやりたいことはたくさんあるな、と思いました。国語×ICTという形で授業のお手伝いをすることも最近は多いので、もっといろいろ学びたいと思いました。
 何より、子どもたちが「自分の思っていることを表現する」ためにデジタルができる役割は大きいと思っているので、この本を読んで得たアイデアを自分にインストールして、学校をお手伝いしていきたいと思います。

(為田)