教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『半径5メートルのフェイク論 「これ、全部フェイクです」』

 政治学者の岡田憲治 先生の著書『半径5メートルのフェイク論 「これ、全部フェイクです」』を読みました。

 「PTAは、教育委員会や公立学校の下部組織」「ベースボールは依然として日本の国民的娯楽の王様」「どんな事態にも対応できるマニュアルを活用するのがリーダー」「不登校の主な原因は、子ども本人と親の育て方」「民主主義はもうオワコン」「いじめがなくならないのは、心の教育が足りないから」「リベラルとは、社会のさまざまな価値観を認める考え方」「自分らしさを失ってはいけない」などのテーマを、「それ、フェイクです」と説明していってくれる本です。
 フェイクがまかり通るようになってしまうのは、「学校教育で習った(ような感じがする)から」ということも多そうなので、教育に関係しそうな個所もたくさんなりました。

 まずは、SNSで人間関係が壊れてしまう、というところで、岡田先生の大学での学生サークルでのSNSトラブルについて書かれていた文章です。「ショートメッセージで議論をするな」というのとか、オンラインでのふるまいを学ぶときに絶対教えたいというか、体験してもらいたいな、と思います。

SNSで使われる文面は、基本はショートメッセージであって、そこにはポイントを端的に伝えられるという長所もありますが、同時に危険もはらんでいます。言葉に負担をかけすぎることです。短い言葉はファクトの確認などに限定するべきで、対面のやり取りでさえ理解不能な他者(皮膚一枚隔てて別の個体)の考えや気持ちをつかむのに多くの情報が必要なのに、端的な言葉だけではそこに負荷がかかりすぎて、そうであればあるだけ誤解と誤読の範囲が制御不能レベルで高まるのです。
サークルの運営が上手くいかないと愚痴をこぼす学生たちに「議論はLINEでやるなよ」と口が酸っぱくなるほど言ったのに、一番肝心な議論をLINEでやり、修復不能な感情レベルの衝突の結果、サークル分裂と解散というお決まりのパターンになりました。アイ・トールド・ユー!
大切なコミュニケーションにおいては、波打つ心の最中であっても、粘り強く注意を払って、「でも相手にはこんなよいところがあるではないか」と思える心のバッファを必死で維持させねばなりません。大切なことは「言ったこと」そのものではなく、言ったことの「隙間」を、相手の表情や呼吸や体温など、対面で得られるすべてを素材にして受け止めることだったのです。でも、彼らはまだよいのです。「抜ける」と「耐える」の中間にある「交渉する」に一応挑んだからです。やり方が決定的に未熟だっただけです。
しかし、月日を経るにしたがって、この「交渉する」という選択肢を選ぶ人たちがジワリジワリと減っているような気がするのです。そこには、とにかく「波風が立つことそのもの」に対する驚くべき忌避感、意見の対立を前に「何かにぐだぐだと言う」という態度そのものへの嫌悪、やり取りの最中に不可避的に生ずる「相手による自分へのネガティブな物言い」への恐怖心、「もうヲワタ」とする沸点の異常なまでの低さが垣間見られます。(p.72-73)

 次に、大学の存在意義について書かれていた箇所です。最近は、正解を教えるだけでなくて、納得解や最適解を教えましょう、という動きが学校で出てきていますが、大学という場は、それとはまた違う、「反社会的存在である」ということが大事、と書かれています。ここの文章、とても好きです。(小学校~高校まで=初等中等教育と、大学=高等教育は、単純に比較すべきでもないとは思いますが)

最適解などといういかがわしいものが常にこの世に存在すると過信する者、それがないと知が成立しないと不安になる者たちを「可能な限り育てない」ために、大学がこの世に存在するというのが私の考えです。すなわち、その意味で大学は基本的には常に「反社会的存在」でなければいけないということです。大学の存在意義とは大学が反社会的なものであることです。(p.82)

 続いて、民主主義について書かれていたところです。難しいけど、本当にそうだな、と思いながら読みました。

民主主義の目的は、「多数者を決める」ことではありません。可能な限り多くの「弱くて小さな人間」の協力のエネルギーを引き出すための空間(社会)を守ることなのです。(p.127)

 日本の教育について、「実は、日本の教育の特質は問題と選択肢を与えないことです」と書かれていた部分も共有したいです。小学校・中学校で何とかしていかなくてはいけないことなような気がします。

自由にと言われるとうろたえる人たちが生まれる理由は、シンプルに言ってしまえば「自由にやっていいよと言われたこと」や、「やった結果をポジティブに受け止めてもらえたこと」や、「失敗してもどんどん次のチャンスを与えてもらったこと」があまりなかったからです。つまり、見守るよりも教え込まれ、よいところではなく足りないものばかりが指摘され、そしてちょっとの失敗で「ヲワタ」と思ってしまうくらいセカンド・チャンスが準備されてこなかったということです。(p.213-214)

 学校の授業で、先生の声掛けで打ち砕くことができるフェイクもありそうだと思いました。最後に、橋本治について書かれていた部分を共有します。

亡くなった橋本治は、「自分では何の努力も挑戦もしていないのに、ぼんやりと“今の自分は本当の自分じゃないと思う”と言っている人のことを○○と呼ぶ」といった意味のことを、いろいろな著作で言っていました。ポイントは「努力をしていない」ことや「挑戦をしていない」ではありません。「ぼんやりと」、「本当の自分がある」と思っているというところです。天才橋本治は、「本当の自分」という言葉にある何らかの危険に気がついていたのです。いわゆる「仮性自己」というやつです。
ここでみなさんと一緒に考えたいのが、この「自分を縛る最も当てにならない自己評価」というフェイクについてです。自分でつくって、前のめりになって、決めつけて、自分を不自由にしているものですから、「バイデンは大統領選挙を盗んだ」という「人のせい」フェイクとはまた違った厄介さがあるかもしれません。(p.304)

 ここで書かれている「仮性自己」という言葉、「学校」に置き換えて読んでも通じるな、と思いました。「いまの学校は本当の学校じゃないと思う」というところで努力も挑戦もせずに立ち止まっていないで、フェイクをぶち破って前に進んでいかなければ、と思いました。

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 著者の岡田先生は、『政治学者、PTA会長になる』という本も出されています。こちらも、僕自身がPTA会長をした経験があることもあって、ものすごく楽しんで読みました。こちらもぜひ、あわせてどうぞ。

(為田)