イギリスのジャーナリストであるデイヴィッド・グッドハートの著書『頭 手 心 偏った能力主義への挑戦と必要不可欠な仕事の未来』を読みました。批評家の宇野常寛さんがよくデイヴィッド・グッドハートが言う「Anywhereな人々とSomewhereな人々」について言及*1していて、僕自身もときどきプレゼンで引用して先生方に紹介しているので、一度本人がどう書いているのかを知りたくて読みました。
学校で子どもたちにどんなことを学んでもらいたいのか、ということを考えるヒントがたくさんあったように思います。関心があったところを読書メモとして共有します。
「頭」と「手」と「心」の仕事
「序文」で、デイヴィッド・グッドハートが、この本のタイトルにもなっている「頭(HEAD)」、「手(HAND)」、「心(HEART)」の仕事について、いまの社会でそれぞれどんな立ち位置にあるのかということを書いています。
- 手(HAND):肉体労働や手仕事
- 心(HEART):人の世話をする仕事=ケア労働
- 頭(HEAD):認知能力を生かした仕事
この3つの仕事のうち、産業社会では「頭」がずっと優位にあったのが、コロナ禍を経て見直されつつあるのかもしれない、ということが書かれています。
「手」(肉体労働や手仕事)と「心」(人の世話をする仕事=ケア労働)が、「頭」(認知能力を生かした仕事)にこの数十年間奪われてきた名声と恩恵を取り戻す方法はある。コロナ禍がそれを可能にするのだ。(p.6)
「手」と「心」が、「頭」に名声と恩恵を奪われてきた、というのは、自分自身の価値観のなかにも入り込んでいるな、と感じます。自分自身はどう見ても「頭」に寄った形で仕事をしているしな、と思いますし。保育や介護など「手」や「心」の仕事の報酬の件などもニュースになっているし、実感としても感じられるところだと思いながら読みました。
これまで約60年間、西洋社会は分離主義的な勢力に支配されてきた。そうした勢力はグローバルな開放性と個人の自由を広げたが、集団的な絆を弱め、「頭」の仕事が過剰な恩恵を求めるのを可能にした。一方、「手」や「心」の仕事は威厳も報酬も減少した。知識経済は認知能力にもとづく実力主義を地位ヒエラルキーの中心に据えた。そのため、認知能力に恵まれた人は栄えたが、その他大勢の人々は居場所や生きる意味を失ったような気がしている。(p.7-8)
最後の「認知能力に恵まれた人は栄えたが、その他大勢の人々は居場所や生きる意味を失ったような気がしている」という言葉が重たいな、と思っています。これはどこに住んでいるかによっても見え方はだいぶ違うだろうなと思います。この本のなかでも、都市部と郊外の話や、そこに大学進学がどう絡んでくるかということも書かれていました。日本でも状況はあまり変わらないように思います。神奈川県出身で、東京で仕事をしている僕には全然見えていない世界があるのだろうと思いますし、実際に首都圏の外の学校の先生方や教育委員会の方とお話をすると、そういう課題もお聞きすることはあります。
本書を執筆していた2019年の時点では、コロナ禍初期に際立って象徴的な存在だった「手」や「心」の労働者に、一般の人々がこれほど感謝の意を表するとは想像もつかなかっただろう。(p.8)
コロナ禍の初期、「エッセンシャルワーカー」への眼差しが変わって、それが社会に根づくかどうか、というのがいまなのかな、と思います。最近はエンタメ作品でも、コロナ禍初期の話が描かれ始めているように思うので、まだこれからなのかもしれません(変わらないのかもしれないけど)。
〈どこでもいい派(Anywheres)〉と〈ここしかない派(Somewheres)〉
「第一章 頭脳重視の絶頂期」で、僕がこの本を読もうと思った目的の、「Anywhereな人々」と「Somewhereな人々」の話が出てきました。今まで文字で読んでいなかったので気づいていなかったのですが、「Anywheres/Somewheres」と複数形になっているのですね。「〈どこでもいい派(Anywheres)〉」と「〈ここしかない派(Somewheres)〉」と訳されています。
〈どこでもいい派(Anywheres)〉と〈ここしかない派(Somewheres)〉
これは私の最新作『The Road to Somewhere(〈ここしかない派〉への道)』(未訳)のテーマの一つである。この本の中で、私はEU離脱を決めた国民投票が浮き彫りにしたイギリス社会における価値観の断絶について書いた。(p.26)
このあと、詳しく〈どこでもいい派(Anywheres)〉と〈ここしかない派(Somewheres)〉の特徴が書かれていた(p.26-27)ので、まとめてみます。
- 〈どこでもいい派(Anywheres)〉
- 全人口の25-30%を占めている。
- 高学歴(大半が大卒以上)
- 両親と離れて暮らしている場合が多く、寛容性と自主性を支持する傾向があり、社会の流動性と斬新さを心地よく感じる人々。
- 社会が変化しても居心地の悪さをあまり感じない。自分で「自分らしさを手に入れた」、つまり学業や仕事で実績をあげた中に自分らしさがあると思っているので、だいたいどこにでも溶け込める。
- 〈ここしかない派(Somewheres)〉
- 全人口の約半数を占めている。
- 学歴は低く、地元に根をおろし、安定と慣れ親しんでいる状態を重んじる。
- (地元のものであれ、全国的なものであれ)集団への愛着を重視する。
- 「自分らしさは生まれつきのもの」と考える傾向にあり、場所や集団にもっと深く根を下ろしている。したがって、その場所や集団に急激な変化が起こると、すぐ不安になる。
この分け方、自分的にはけっこうしっくりきているのです。そして、自分がなんとなく〈どこでもいい派(Anywheres)〉の価値観に近いように思っているのも自覚しています。それ自体が悪いということではないけども、価値観が偏っているということを知っておかないと、たとえば〈ここしかない派(Somewheres)〉の子どもたちや保護者様や先生方と話をするときに、よくないだろうなと思うのです。
どっちがいい、という話ではない、ということが大事です。でも、なんとなく社会は〈どこでもいい派〉を育てようと思っている人が多いだろうなと思います
〈どこでもいい派〉も、〈ここしかない派〉も世界観はまともで、きちんとしている。だが、現代の政治やあらゆる本流の政党を支配するようになったのは〈どこでもいい派〉の価値観と優先事項だ。そして社会的流動性から生産性向上に至るまで、あらゆる争点に対する〈どこでもいい派〉の答えは同じだ。真に〈どこでもいい派〉の精神を持った現代的な大学機関で、学究的な高等教育を受ける機会を増やすことなのである。(p.27)
「頭」はこれからどうなるか?
「頭」と「手」と「心」は、きっちり分かれているわけではなくて重なり合っています。この本でもしばしば、そのことについて書かれていました。
本書のタイトルは誤解を招きやすい。頭と手と心――つまり、思考と技能と感情――は、まったく異なる領域であるという含みがあるように読める。もちろん、そうではない。三つをあまりにも硬直的に区別するのは、認知能力を優先する時代の病理だ。
「手」を使う仕事でも、「頭」をかなり必要とするものは多い。(p.390)
認知能力を使う「頭」に関わる仕事は、これからどうなっていくのか、ということが書かれています。
はっきり言って、「頭」から「手や心」へのシフトは多くの巨大な社会的、経済的な潮流に乗るよう、方向づけられているように思える。知識経済がとびきり優秀な知識労働者以外をあまり必要としなくなってきたその一方で、より労働集約的な有機農業など、地域や環境の保護に対する関心は高まっているし、高齢化社会において介護の仕事に求められる内容も否応なく拡大している。コロナ禍によって、この流れはますます勢いを増していきそうだ。わたしたちの日々の暮らしをサポートしてくれる「キーワーカー[訳注:必要不可欠な仕事に従事している労働者]」の大半が「手と心」の働き手であり、その多くは大学の学位を持たないことがコロナ禍によって明らかになったのだから。(p.41-42)
「頭」から「手」と「心」へシフトしていく、というのは、テクノロジーの進化によっても後押しされていきます。これなんかは、子どもたちにどんなスキルを身につけてもらうのか、どんな価値観に触れてもらうのか、ということと密接に関わるように思います。
認知能力の高い階層が――少なくとも職業的に――今後も成長していく見込みは、現在の経済においてはどうやらなさそうだ。そして、「誰もが中産階級の専門的職業に就けるし、就くべきである」という先進国のもっとも肝心な約束は反故になりそうだ。対応するソフトウェアのコードが書け、法曹界から医学界、機械工学、デザイン、金融に至るあらゆる業界で優秀な専門職になれる、才能あふれる数少ない人材は今後も必要となるだろう。だが、次世代のAIは中堅クラスの専門職の生活を破壊し、専門職の最上層にいる者とそれ以外の者との地位の隔たりを大きくする可能性を秘めている。
加えて、人々が自分の生活を評価するときの比較対象も広くなった。以前は自分と同じ村の人間を富や才能で比較した。都市化後の階層化社会でさえ、比較する対象はたいてい〈梯子〉の数段上か、数段下にいる人だった。多くの人々にとって尊敬する相手と言えば、労働組合の代表や大学の指導教官、(聖職者ではない)俗人説教師であり、彼らをお手本として追いつき、追い越そうとした。それがマスメディアやテレビ、ラジオ、さらに今やSNSの登場により、人々は世界トップクラスの頭脳明晰な人や絶世の美女、才能にあふれた人と自分を――見劣りするとわかっていても――比較せずにはいられなくなった。それが心にとってストレスのたまる原因になっていると考えられている。(p.58-59)
では、「手」や「心」の仕事へ変わっていきましょう、というのは簡単にはいかないとも思います。
ほとんどの社会において人の補充がもっともむずかしい仕事は、単純でつまらないが、多くの場合に必要不可欠とされる仕事、つまり職業階層の底辺付近の仕事だ。イギリスなどの国では、本書で述べた教育的、社会的趨勢が原因で、人々(とくに若い人々)に、職業階層の底辺の仕事に就く意欲を起こさせるのはかなりむずかしくなっている。それどころか、すでに指摘したように、中堅の熟練を要する仕事でさえ、むずかしいのが現状だ。評価もされず、「落伍者や外国人」でもできる仕事をどうしてしたいと思うだろう。不法雇用に近い仕事でもそれに近い金額を稼げるとしたら、なおさらである。加えて、認知能力を要する仕事は、その中の低レベルの仕事でさえ、名声や高い所得以外のメリットがある。つまり、一般的には仕事の環境が快適で、広く裁量が認められ、稼働時間もコントロールできるというメリットである。(p.291)
テクノロジーが進化して、いまたくさんの人が就いている「頭」の仕事の大部分が減ったときに、「手」や「心」の仕事へシフトしていけるのか。この本の後半で書かれていた、「頭」と「心」と「手」のハイブリッドな仕事のあり方は、そうだな、と感じました。このあたりで書かれていることは、「生成AIで仕事の大半はなくなります」と言われているよりも、いろいろ考えるヒントになりそうだと思いました。
将来必要となる技能について富裕国で調査が行われてきたが、信頼できる調査はどれも、ロンドンの〈金融サービス機構〉の前会長アデア・ターナーが命名したふたつの組み合わせ、つまり「ハイテクと人間的触れ合い(ハイタッチ)」を重点的に取り扱っている。言い換えるなら、前者は高度な認知能力・技術的技能であり、後者は教育と医療における対人能力、時として「プログラマーと看護・介護職(コーダー・アンド・ケアラー)」と短く呼ばれるものだ。前者よりも後者の技能のほうが、健康管理従事者、在宅介護人、理学療法士といった多くの仕事につながる。なんと言っても、高齢化が進み、健康、看護・介護、医療がますます必要とされるからだ。(p.344)
「頭」と「手」と「心」のバランスを取ることの大事さと学校教育の関係
最後に、「頭」と「手」と「心」のバランスを取ることの大事さについて書かれていました。
「頭・手・心」のバランスを取るのは感情論ではなく、政治的に必要なことであり、コロナ禍となった今はとくに必要になっている。本書を執筆していくうちにその確信は深まった。2019年の初めに執筆を開始したときは、バランスを取るのは望ましい夢ではあるが、どちらかと言えば、実現するのは「新時代」になってからだろうと思っていた。とくに、学校の新時代を象徴するイギリスの進歩的な私立学校べダレスの校訓が「頭・手・心」だと知って、その感を強くした。ところが文献を読み、調査を続けていくうちに、バランスを変えるのは望ましいばかりでなく、必要なこと、おそらく不可避的なのだと思うようになった。そのように考える理由は、前章で述べた通りである。経済の動向によって認知能力を必要とする仕事の大半が徐々に消えているうえに、生きがいや価値、人間の繁栄といった根本的な問題への取り組みを、国や世界の政治が人々に求めているからだ。(p.393-394)
学校の先生という仕事が、「頭」と「心」を使う仕事である、ということも紹介されていました。本当にそのとおりだな、と思いながら読みました。
教職、とくに小学校の教師は「頭」を使う仕事だが、「心」を使う仕事でもある。知り合いの教師の多くが、教え子が大好きだと話すのには驚かされる(あの子たちには我慢できないとこぼす場合も時にはある)。中年になってから小学校の教師になった友人はこんな風に話してくれた。「子供たちとほんとうの人間同士の関係を築く。小学校で教えていていちばんやりがいがあるのが、そこだ。教師としてちゃんとした仕事をするには、子供たちを愛し、彼らと気持ちを通わせなくてはならないんだ」。よい教え方についての最新調査もこの友人の発言を裏づける。OECD〈生徒の学習到達度調査 PISA〉は各国の教育に関する影響力のある調査だが、その責任者を務めるアンドレアス・シュライヒャーも、カリキュラムの内容よりも生徒と教師の関係のほうが大切だと指摘する。「先生は自分をわかってくれる、自分を気にかけてくれると思ったら、生徒はどんなことでも、なんでも学べるものだ」という。その昔、祖母が孫に向かってつぶやいたような、何気ないことばだが、これこそ今の教師がじっくり考えてみるべき教えではないだろうか。(p.417-418)
学校では、テストでいい点を取るなど「頭」(=認知能力)に寄りすぎるのではなく、「手」や「心」を使うことにも出会っておく必要がある、ということも書かれていました。
人はリタイアすると、スポーツにしろ、音楽にしろ、なんらかの「ものづくり」にしろ、自分の一部となって離れないようなことをもう一度始めるケースが多い。リタイア後の人生が長くなるにつれ、年の割りに若く見える人々の存在や、彼らの手と心に対する懸念は今後ますます、私たちの文化の中で膨らんでいくだろう。
また、次の段階のオートメーション化の恩恵を(少なくともその一部を)娯楽の増加という形で受けるとしたら、スポーツや音楽や工芸の腕を磨く時間が増える。となると、学校ではできるだけ大勢の子供にアートや音楽をしっかり教えておくのがとても大切になる。
たしかにデザインやアートなど、学問的でなく「創造力を養う」科目はこれまでは教え方が不充分で、楽な選択肢と見られてきた。これらの科目についてはイギリス教育省の評価もあからさまに低いものだった。だが、中には、ロンドンの市街地にある伝統校、ミカエラコミュニティスクールのように、成績が優秀なうえに、見事なアート音楽学科を備えているところもある。(p.420-421)
2025年2月にヒャダインさんが書いた「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」というエッセイを思い出しました。体育で良い成績をとるのが大事なのではなく、一生付き合っていけるようなスポーツとの関わりとか、身体を動かすことの楽しさとかを、体育で学べたらいいな、と思います。もちろん、音楽や図工・美術でも同じです。
高等教育のあり方についても書かれていました。上で書いた「一生付き合っていけるような」というのは、「手」の話だけでなく「頭」の話で考えたら、生涯教育や生涯学習に繋がっていきます。日本の大学だとあまりこういう感じになっていないかもしれないなあ、と思います。
第四章で高等教育の拡大を批判したが、そのひとつは、企業側はもっと短期間の実務的な課程を期待しているのに、教育機関側は、たいていは実体経済に適さない学問的知識寄りの文化的な偏向に支配されているというものだった。AIが認知能力を要する仕事に食い込んできたら、この傾向はさらに助長されるだろう。リチャード・サスカインドとダニエル・サスカインドが「大学はこれからも20世紀の専門的職業に就く人を生み出すだろう……だが、それらの仕事は、今や機械のほうが適しているのだ」と述べているように。
大学の将来や、すべての段階の教育の将来を考えると、私たちは生涯教育と生涯学習についてもっと真剣に考える必要がある。(p.423)
まとめ(というか、感想)
「Anywhereな人々とSomewhereな人々」について知りたくて読み始めた本ですが、「頭」と「手」と「心」のバランスについて考えさせられました。「頭」に寄っている現在の社会を、バランスを変えていくためにどうするか、と考えるときに、学校で身につけることが「頭」に寄らず、「手」と「心」にも重きを置けるようになる、というのは大事なことかな、と思いました。
僕自身、わかりやすい「頭」のところを重視してしまっていると思いますが、「心」と「手」の方にもっと目を配ろうと思いました(自分が苦手なだけに、意識しないと全然できなさそうです)。
(為田)
*1:宇野さんの『庭の話』でも書かれていましたが、そこでの参照先はデイヴィッド・グッドハートの『The Road to Somewhere』で未訳だったので、『頭 手 心』を読みました。
