教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

ひとり読書会:『「学び」がわからなくなったときに読む本』

 鳥羽和久 先生の編著『「学び」がわからなくなったときに読む本』を読みました。鳥羽先生が、千葉雅也さん(哲学者・作家)、矢野利裕さん(批評家・DJ・中高教諭) 、古賀及子さん(エッセイスト)、井本陽久 先生(いもいも教室主宰・数学教師)、甲斐利恵子 先生(国語教師)、平倉圭さん(芸術学者)、尾久守侑 先生(精神科医・詩人)と対談している本です。

 全編、とてもおもしろかったのですが、特に学校の先生方にも読んでいただいて「これ、どう思いました?」って語り合いたいなと思ったところを読書メモとして共有したいと思います。

第3章 家庭の学びは「観察」から――古賀及子

 エッセイストの古賀及子さんとの対話では、「文章を書くこと」についての話が出ていました。僕は子どもたちにたくさん書いて、その楽しさと難しさを知ってほしいな、と思っているので、とても参考になりました。

鳥羽 古賀さんの文章における最大の特徴は、その徹底されたメタ視点です。自分に起こった出来事なんだけど、それを俯瞰で観察して書いている。
古賀さんは日記の書き方について、「感想禁止」とおっしゃいますね。古賀さんは「楽しかった」「美味しかった」といった感想をあえて書かずに、自分が見たり聞いたりした出来事をそのまま書くということを徹底している。そうやって出来事を淡々と描写していくなかで、自分にありあわせの感想を求めてしまう思考から脱却して、自分の知りえないところにすでに浮かんでいる思いをメタに観察できるようになる、と。
これは、日記に限らず文章の書き方の肝に触れていると感じるし、観察というのは戦略的にそれほどの効果があるのかと驚かされました。

古賀 私としては戦略的に観察しているというよりは、「感想を持つこと」を避けた結果、この書き方になった感じなんです。

鳥羽 どういうことですか。

古賀 何かを「思う」ことに、あんまり興味がないんです。自分の内側から沸き起こる感想に興奮しないんですよね。私が思うとか、思わない、にかかわらず、目の前にすでに何かがあること自体に興奮を覚えると言いますか。

(略)

鳥羽 古賀さんの「感想禁止」は現代社会のなかでは反動的です。子どもたちって学校でやたらと感想文を書かされるでしょう。

古賀 確かに!跳び箱を跳んでも書かされました。

鳥羽 そうそう。感想文を書くとき、子どもたちは「苦しかった」「大変だった」「悔しかった」「でも学びがあった」みたいな文章を、無理やり絞り出させられる。この訓練が、実は観察から人を遠ざけているんです。観察をしなと、本当の「思い」にはたどり着けないのに。それをせずにありあわせの言葉で済ませることばかりやらされている。

古賀 私も感想文はぜ全然書けなかったなぁ。「感想なんてないよ!!」と苦しんでました。

鳥羽 そう、ないんですよ。だから、子どもたちは大人が求める正解をキャッチして、それに追従できる子が賢いということになってしまう。

(p.90-91)

 古賀さんの、「私も感想文はぜ全然書けなかったなぁ。「感想なんてないよ!!」と苦しんでました」というところ、僕も同じようなことを思っていたなあと思い出しますし、いま僕の授業で「書くことなんかないよ!!」と思っている子もいるだろうな、と思わされました。

 もうひとつ、子どもたちに直接言葉としてではなく、授業がもつ雰囲気で伝えたいなと思ったことが言語化されていたところがあったので紹介します。

鳥羽 『君は君の人生の主役になれ』という本のタイトルに、僕は「主人公」ではなく「主役」という言葉を使いました。それはガチの主人公ではなく、主役という「役柄」でいいんだよ、というメッセージを込めたかったからです。自分を役柄にしておくことで、キツくなったら一時的に降りることもできるし、誰かに預けることもできますから。そうやって自分を半分だけ引き受ける感じのリアルがあります。現実をあまり真に受けなくて済む。

(p.95)

 この「自分を役柄にしておくことで、キツくなったら一時的に降りることもできるし、誰かに預けることもできますから」というところ、すごく共感します。大人でもできなくて苦しんでいる人がたくさんいると思います。とてもいい言葉だな、と思いました。

第4章 世界が変わって見える授業を――井本陽久

 続いて、いもいも教室主宰・数学教師の井本陽久 先生との対話です。井本先生の授業はテレビ番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」(すみません、最初「情熱大陸」と間違えていたので訂正しました)で見たのと、Voicyで授業の様子を聴いたりしていますが、いつも「こういう授業いいなあ」と思っています。

井本 学んだ解法に沿って正解を導くのではなく、いまある自分の手持ちでなんとかする。そうして自分なりの道をたどっていくなかで、気づかぬうちにいろんなことが身についていく。それこそが本当の学びだし、勉強としても楽しい!たとえ一生懸命、自分なりに思考した結果、間違ってしまっても、むしろ子どもたちはそこからたくさんのことを学んでいきます。一方で教えられたことは身につかないんです。

鳥羽 井本さんが「子どもたちを、ぷるっとさせたい」というのは、そういう意味ですか?

井本 そうそう。自分の頭で考えて、「自分にはこんな考え方ができたのか!」と驚いたり、他の子の解答を見て「こんなふうにも考えられたんだ!」とびっくりするのも「ぷるっとする」ですね。

(p.123)

 それから、僕自身が勇気づけられた言葉もありました。「自分に何ができるんだろう…?」と自己肯定感が下がっているときに読んで励まされました。

井本 先生は、日本全体の教育のことなんて考えなくていい。大きなことなんて、しなくていいんです。先生にとって大事なのは、縁あって出会った目の前の生徒だけ。その子たちのことだけを考えて「さぁ、自分に何ができる?」と問いかけながら行動すればいいんです。そのために必要なのが、自分なりの哲学だと思うんですよね。

(p.143)

 それと、「先生は世間知らずだから…」とよく言われる批判についても鳥羽先生と井本先生が語り合っているところがありました。

鳥羽 先生が世間知らずであったほうがいい理由は、社会の目を気にすると、社会の規範的な論理をなぞった子しか育たないからです。教育としては、それは何も想像していないのと同じだから敗北ですよ。親などの外部者に「学校の先生は社会人経験がないからダメなんだよ」と言われて、ひるむようじゃいけない。むしろ、先生は社会人経験を重んじないことが強みであり、それを生かすべきなんですよ。

(p.144)

 「社会性がない」ことの意味についても書かれています。

井本 社会性がないというのはネガティブにとらえられがちだけど、すごく意味があることなんですね。子どもに魅力を感じる理由は、社会性がないからです。それは、無邪気でいいね、というだけではありません。大人になって僕らが失ってしまった「生きることの本質」のようなものが、子どものなかには見えるんです。
だからこそ、社会性のない先生という存在にはとても意味がある。その先生の姿を見て、子どもも「このままでいいんだ」と安心できるのが学校という場だから。昔に比べて不登校がこんなにも多くなってしまったのは、社会情勢の変化もあるだろうけど、先生が社会性を身につけてしまったからじゃないかな。大きな原因として、僕はそうとらえています。

(p.145)

 抽象化思考についても書かれていました。抽象化思考ができたり、論理的思考ができたり、というところを僕は高く評価してしまいがちなのですが、それだけじゃないな、と思わされました。

鳥羽 抽象化思考は大事なんだけど、それだけが頭のよさを測る基準になるとダメですね。抽象化とは他にはない唯一の個別性を捨象すること。そのいびつさ、恐ろしさを知らないのはとても危ういことです。抽象化する快楽しか知らないと、社会への眼差しも歪んでくるかもしれない。なんでも大局的に見て、構造的な問題に収斂させて、個別的で具体的な人間の苦しみが見えなくなる。

井本 そうですね。抽象化の始まりは算数です。
小学1年生で学ぶ「リンゴ2個、みかん3個、合わせて何個?」という問題。これに「2+3=5」と答えて正解をもらうところから、抽象化を学んでいく。この問いが求めていることは「計算せよ」ではなくて、りんごやみかんの個別性を無視して、「抽象的にとらえよ」ということなんです。
でも、みかんとりんごというまったく違うものを合わせることに、不快感を覚える子が確実にいる。まったく違うものを、数に抽象化して考えることができないという子が。そういう子には算数や数学は向いてないし、僕はそれでいいと思ってる。無理やりできるようにすることよりも、その違和感を大事に抱えておくことのほうがよほど大切だと思うから。

(p.147-148)

第5章 「言葉」が生まれる教室――甲斐利恵子

 次に、軽井沢風越学園で教えてらっしゃる、国語教師の甲斐利恵子 先生との対話です。言葉にすることの大事さを感じさせるところから。こういうふうに子どもたちと一緒に言葉を探す時間を、僕はまだまだ作れていないなあと感じます。こういうことをやりたいんですよ。くやしいな。

甲斐 たどたどしくても、言葉にしてみる。これじゃない、これでもない、と考え続けているときに言葉の力は育つのではないでしょうか。こういう授業のときの子どもたちは、自分の心に生まれてくる情景や感情と真剣に向き合って言葉を探し、話しかけてきます。一緒に言葉を探す時間は、本当に大切な時間だと思っています。

(p.170)

 続けて、グサグサ来るところも。もっと授業を磨きたい、と思わされます。

甲斐 子どもって「何のために勉強するの?」とよく聞いてきますよね。でも、これは問いじゃないよなぁって思うんです。子どもは勉強する意味を聞きたいんじゃない。「勉強、つまらないです」と言いたいだけなんです。

鳥羽 まさにそうだと思います。彼らがすでに勉強と出会い損なってしまっているからこそ発する言葉ですよね。だから、文字通り受け取って正直に答えたところで、子どもの心はますます離れていくでしょうね。

(p.170)

 子どもたちに、「僕の授業、楽しい?」って質問したくなりました…。

 もうひとつ、子どもたちと一緒にやってみたいな、と思った問いかけの工夫を見つけることができました。

甲斐 風越学園では9年生が「そつたん」(卒業探究)に挑戦します。卒業に向けて、自分自身の「知りたい」「やりたい」という「~したい」気持ちと、徹底的に向き合って学ぶカリキュラムです。
先日、その初回の授業のときに「そつたんとは、いったい何?」という問いを子どもたちと一緒に考えてみたんです。
でもね、「そつたんとは、〇〇である」という定義を考えようとした途端、みんなポジティブなことを言おうと、誰でも言える言葉を使ってしまうんですね。
「(そつたんとは)全力を尽くすものである」
「(そつたんとは)三年間の集大成である」
私はこのとき、言葉の強固さにビックリしました。「~~とは、〇〇である」という文体が持つ危険性、あるいは拘束性に気づいて、「あぁ、どうしたらいいんだろう!」って悩んでしまった。そこで、それならと「そつたんとは、〇〇ではない」と言い換えてみたんです。そうしたら、急に楽しくなってきた。

鳥羽 なるほど。あえて否定形で表現するんですね!ちょっとしたことですが、子どもの心をくすぐる発想の転換ですね。

甲斐 そうなんです。するといきなり「そつたんとは、勉強ではない」のような言葉が出てきて、「とってもいいなぁ」なんて受け止めることができました。
そのあとも、「〇〇のようなもの」とか「〇〇かもしれない」と文末を変えてみたら、定義分が持っていた拘束性から解き放たれていきました。
そうやって解き放たれたあとで、「~~とは、〇〇である」に返ってくると、ふしぎなことにユニークな言葉が出てくるんですよ。

(p.175-176)

 授業をもっとがんばりたくなる対話でした。

第7章 子どもの心からアプローチする――尾久守侑

 最後に、精神科医・詩人の尾久守侑 先生との対話から。子どもとのやりとりで、自分がうっかりしてしまっているんじゃないか?と不安になりました。

尾久 体験を自分のものとして落とし込む前に、手持ちの知識で即断してしまってるということですよね。僕のところにも、「私は躁とうつがあって、いま躁転してて……」みたいに滔々と語る子が来ます。そういうときには、知らないフリをして「躁転って、どういう意味なの?」と聞きますね。

鳥羽 子どもに別の言葉で噛み砕いてもらう、と。

尾久 はい。「あなたにとっての躁転はどういう感じなの?」と聞きます。
これは少し微妙な話ですが、境界知能ぐらいの人の一部は、受診時に難しい医学用語を多用しがちです。相手に見くびられないための防御反応なんです。そうやって生き延びてきた人が、必死に用語をつなぎ合わせて、取り繕っている。そういうときは本人が持っている言葉は奪わないほうがいい。

鳥羽 自分を守るために、言葉の鎧をまとっているわけだから、「お前は言葉に逃げている」なんて指摘したら、支えがなくなってしまうんですね。自分にとってアンバランスに見えるものが、他人にとって最良のバランスかもしれないということは、常に念頭に置いておきたいです。

(p.241-242)

 「本人が持っている言葉は奪わないほうがいい」という言葉が刺さりました。これも、僕はやってしまいがちな気がします。まだまだだな、と思わされます。

まとめ(というか、感想)

 鳥羽先生の本は、このブログで『おやときどきこども』のひとり読書会をしていて、このときもとても素敵だと思ったのですが、この本での皆さんとの対話も素晴らしかったです。

blog.ict-in-education.jp

 感じることは人それぞれだと思うのですが、僕はとにかく「授業をもっと上手になりたい」と思いました。「子どもをぷるっとさせたい」という井本先生みたいに、子どもたちがぷるっとなった感じを体験したい、と思いました。日々、頑張っていくのみ。

(為田)