ガート・ビースタ『よい教育研究とはなにか 流行と正統への批判的考察』を読みました。著者のガート・ビースタ氏は、教育理論や教育研究の理論と哲学に関する著書・論文を多数出版している人です。「序文」では、「教育研究を始めようと思っている人たちに対して、いまから向きあっていくはずのこの分野への視野を広げ、より深い考え方をもって研究を行えるものになることを願っている」(p.ix)と書かれていました。
僕は大学で教育学を学んだわけではないし、教育研究から縁遠い人間ではあるのですけど、だからこそ「よい教育研究とはなにか」という問いにすごく惹かれて読みました。正直なところ、大学で教育研究をする人がターゲットになっている本なので難しかったです。そのなかでも、自分の授業を良くしたり、先生方の授業をサポートするときの視点として役立ちそうなところをメモしたので共有したいと思います。
どの研究を使うのかではなく、取り組むべき問題は何か?
僕はたくさんの教育研究を読んでいるわけではないですが、教育研究が学校の授業改善にもっと直接寄与できるところってないのかな、と思っています。学校の授業実践を価値づける形で教育研究が行われているケースも多いですが、逆に授業実践をもっと良くする教育研究が現場の先生方にとってもっとアクセスしやすければいいな、と思っています。
教育分野のほとんど全ての研究が実践の改善への貢献を求めているというのは私には至極当然のことのように思われるのだが、「教育実践を改善する」とは何を意味するのか、また研究がどのようにしてその邪魔ではなく助けとなるかということに関する省察が欠けていることが多い。(p.3)
教育研究が「教育実践を改善する」ためには、何が取り組むべき問題なのかということを考えるのが大事、と書かれています。子どもたちに「探究では、課題設定が大事」と言っているのと同じだなあ。
理論や哲学は、人が「占める」ことができる位置というより、なにかを可能にしてくれるもの(略)「道具」というメタファーはやや古臭くなったものの、理論や哲学を、私たちの「立場」としてではなく、私たちが使用する「道具」として捉えることは、依然として有用である。(略)研究を進めるにあたって最初に判断すべきことは、どの道具を使うのかではなく、取り組むべき問題は何かということであり、その問題に取り組むためにどのような道具が役に立つかを問うことである。(p.11)
理論や哲学を、授業実践から切り離してしまってはいけない、ということも書かれていました。
理論や哲学をモノ化することは、特定の分野を「マッピング」したり、特定の議論における様々な「動き」を理解したりするうえでは有用だが、最終的には「成果」を「プロセス」から切り離すことになり、理論や哲学を賢く利用する妨げになってしまう。
したがって、プラグマティズムの主張としては、どのような理論や哲学、あるいはそれに基づく立場であっても、それらが生まれた特定の文脈と(再び)結びつけて考えるべきだということになる。さらに言えば、その理論や哲学に関わる人々が取り組もうとした特定の問題と結びつけるべきだという示唆も常に含まれている。よりわかりやすく言えば、自分が出会った道具の歴史や起源を理解し、それらを知的に利用できるようにすることが求められるのである。(p.12)
横に広げていくためには、理論や哲学が言葉として独り歩きしていくのは大事だと思いますが、あまりにそっちに行き過ぎてはいけない、ということかなと思います。そのキーワードを言ってさえいれば、実践されている、というわけではないのです。(頭に思い浮かぶキーワードがいくつかあるな…)
教育の3つの目的
教育研究が問題を解決するためには、教育の目的を明確にしなくては、ということで、教育の機能について書かれていました。
教育の機能が現れやすい3領域(p.41-42)
- 資格化(qualification)の領域
- 教育を通じて、生徒が知識や技能、特定の物事を遂行するのにふさわしい態度をどう身につけるか
- 社会化(socialization)の領域
- 教育を通じて、既存の伝統や文化、存在・行動様式の一部になることと、そういったものへの指向性を獲得させるもの
- 主体化(subjectification)
- 人間を主体化していく過程
「資格化」「社会化」「主体化」を教育の3つの目的として紹介されているのですが、僕はけっこう「資格化」と「社会化」のところに興味が強いな、と感じながら読みました。だから、その2つの機能に関連した教育研究に関心があります。
教育研究を横に広げていく難しさ
教育研究は教育実践を良くするために使われるべきです。だけど、どこかの学校で良い結果が出た教育研究を、他の学校にもっていって実践してもうまくいくかはわからない。というか、「それって、あの学校だからできるんでしょ?」と実践までいかないケースもあります。それについて納得感が高い説明が書かれていた箇所があったので、それも紹介します。
なぜ教育に対して(完全な)因果性に基づく前提を持つのが問題なのか(略)その理由は、教育というシステムがオープン(開放系)で、記号論的で、再帰的なシステムであるという事実にある。(p.49)
- 教育というシステムは、「オープン」なシステムである。
- 環境との境界が決して完全には閉じていない。例えば、子どもたちは学校のあと家に帰るので、学校環境でコントロールされるものよりも多くの「変数」の影響を受ける。
- 教育というシステムは「記号論的」
- 教師と学習者の相互作用は物理的な作用・反作用ではなく、コミュニケーションと解釈に基づくものである。
- 学習者は、教師が言わんとすること、しようとすることの意味を理解しようとし、この理解を通じて教師から学ぼうとする。
- 教育というシステムは「再帰的」
- システムの「要素」(教師と学習者)の行為が、当のシステムに返され、そのシステムが展開する方向を変えていく。
- システムの「要素」(教師と学習者)は、刺激-応答の機械ではなく、思考し感じる存在であり、認知と解釈に基づいて幅広い様々な行動を選ぶことができる存在だからこそ。
これは僕はすごく納得感ありました。教育研究云々というよりも教室で子どもたちの前に立って何かを伝えるときには頭に置いておきたいことだなと思いました。これを知ってたら、「ああ言ったのにできなかった」とか「こっちの思い通りにいかなかった」とか思うべきではないとわかる気がする。
教育研究と実践者(先生)の関係の話
最後に、教育研究と実践者である先生との関係について書かれていたところも紹介したいです。
教育をよりよくしようという志をもった教育研究が、学校や大学、そのほかのあまたの教育機関や実践に直接的に介入することによって教育改善をするのは困難であるものだ。教育の実践は何よりもまず、教師やその他の教育実践者のなした仕事の結果であるということを心に置く必要がある。
教育実践者の存在なくして教育は存在しない。となれば、教育をよりよくしていく行為は、常に教育実践者を通して行われていく必要があると言える。これを進めていくには2つの方法を考えることができる。1つは、研究が教育実践者に何をすべきかの規範を示していくものが挙げられるだろう。もう1つは、研究が教育実践者に対して洞察や理解をもたらし、実践者がいま取り組んでいる具体的実践の中で、熟慮したり判断したりするときに重要な役割を果たすものが挙げられるだろう。別の言い方をすれば、研究とは、教育者の専門的主体性を低下させることも向上させることもでき、したがって、教育的専門性の民主的な質を高めていくこともできれば、それを抑制したり損なったりすることもできるのである。(p.127)
教育研究がたくさんの実践者の助けになったらいいな、と思います。
読み終わっての感想
最初にも書きましたが、難しかったです。読み通すのにすごく時間がかかりましたし、全体を理解できているとも正直思っていません(涙) 教育研究の大変さを感じながら、僕は実践者である先生方をサポートするために教育研究をどう活かせるのかなと考えています。
(為田)