教育ICTリサーチ ブログ

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『Z世代化する社会 お客様になっていく若者たち』ひとり読書会

 舟津昌平さんの著書『Z世代化する社会 お客様になっていく若者たち』を読みました。Z世代とは、1990年代後半から2010年代前半に生まれた世代を指す言葉で、デジタルネイティブでSNSやインターネットが生活に不可欠な世代です。調べてみたら、「1996年から2012年までとする定義が最も一般的です」と書かれているサイトもありました。そうすると、2025年現在で29歳から13歳までなので、いまの中学生・高校生もZ世代に入ります。あ、僕の息子も高校生なのでZ世代になります。もちろん、Z世代が学んでいる学校にも関係あることがたくさん書かれていたので、気になったところを読書メモとして共有します。

 本のタイトルである「Z世代化する社会」というのが大事です。著者の舟津さんは1989年生まれで、東京大学大学院経済学研究科講師をされています。大学で見ているZ世代の学生たちの様子を書いているのですが、それは若者だけの問題ではなく、僕らの生きている社会の「いま」の問題なのだ、と書かれています。本の後半では、「Z世代だけが変わっているというわけではなくて、社会全体の変化を最初に若者が受けるということなのだ、ということが書かれていました。最初にその部分を紹介します。

本書の中核となるメッセージ、1つの結論として改めてお伝えすべきことは、Z世代はわれわれの――Z世代以外を含む――社会の構造を写し取った存在であり、写像であるということだ。
若者は経験が浅く、雑味がなく澄んでいて、だから外からの影響を受けやすい。社会の構造なるものが生まれる――たとえば不安を利用したビジネスが横行する――とき、社会に在るわれわれは、多かれ少なかれその影響を受ける。なかでも若者は感度が高く適応が早いので、いち早く構造を反映して言動に移す。
だから、異様に見える。でも異様に見えるZ世代は決して地球外から来たエイリアンではなく、社会構造をより純粋に敏感に写し取った、先端を往く者なのだ。ビジネス化する社会も、不安を利用する社会も、唯言的な社会も、若者の方が影響を受けやすいというだけで、確実にわれわれにも影響している。(p.264)

 これを読んだうえで、Z世代の若者たちを取り巻く環境についての描写や、どうしてそうなっているのかという背景を読んでいくといいと思いました。

いい子であろうとしすぎる社会

 舟津さんが大学で教えている学生たちを見て気づいたことが書かれているところを紹介します。

単刀直入に言えば、筆者は授業をしていて気付いたのだ。ああ、この学生たちはもしかして、「黙って座っていれば、いい子だと思ってる」んじゃないかと。三つ子の魂、二十まで。高校を卒業してハタチ前後になっても、三つ子の頃のことを忘れていない。
学生たちは、ただ何もせず座っている。手も挙げず、ノートも取らず、たまにスマホをいじったり。当てても苦笑して横を見るだけだ。なのに、なぜか教室には居る。授業には来る。最初は、実に幼いと思った。正直情けない、とも。ただ、こういう性質はどこから来たのだろうと不思議にも思い、そして気付いたことがある。「いい子症候群」はきっと、小中高と積み重ねられた先生たちとの「共犯関係」の産物なのだと。(p.52)

 「いい子症候群」というのは難しいところです。たしかに、小中高と積み重ねてきた体験から来るのもあるかもしれません。何年か前に、大学の講義でゲストスピーカーとして話したときに、「高校までは正解を出せ、と言われてきたのに、大学に入って急に正解なんかない、と言われるのは何かな…と思う」という学生のコメントがあったことを思い出しました。いい子でいたいというか、失敗するのが嫌なんだろうな、と思うことは小学校・中学校・高校の授業を見ていてもあります。

授業のたび騒ぐ子どもたち。キレたくなる気持ちを一生懸命に静めて、怒るまいと思いながら授業を進める先生。ふと、心に魔が差す。
「もし、授業をしないで済んだら……そして、生徒が何も言わず見過ごしてくれたら……」
このとき、先生と生徒との間に、悪魔の約定が成立する。先生はテキトーに授業する。生徒はテキトーに流す。ただ、黙って座っているだけ。これが、互いの幸福度を最大化する均衡点なのだ。
むろん、疑問や義憤を持つ方もいるだろう。それは教育者として望ましくない均衡だ。それに、授業をマジメに受けたい生徒の機会を奪っている。もっともである。その通りだ。ただ、その正論を受容できない程度に、特に小中高の先生たちは疲れてビビってしまっている。(p.54)

 そこまでひどくはないんじゃないかな…と自分の観測範囲と比較して思いましたが、こんなこと絶対ない、とは思わないですね。

 「いい子症候群」というキーワードが出てきましたが、舟津さんは「かなり参考にした本」として、『先生、どうか皆の前でほめないで下さい いい子症候群の若者たち』が挙げられていました。

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YouTubeから学び過ぎてしまっている社会

 僕は、いまの社会で使われているデジタルサービスは「個別化」が効きすぎていることがあるんじゃないか、と思っています。
 学校では、「子どもたちがYouTubeを見過ぎなんじゃない?」という話をよく聞きますが、学校がもっと気にすべきなのは、YouTubeのよくできたアルゴリズムによって、子どもたち一人ひとりが自分の好きなもの「だけ」をずーっと見せられて、外の世界と混ざらないことだと僕は個人的に思っています。

 それを実感させるための活動が紹介されていて、授業でやってみたいと思いました。高校で生徒たちのスマホでやってみたいですね(見せたくない人ももちろんいるだろうけど、全員でなくてもおもしろいんじゃないかと思います)。

レコメンドが進化すると、かゆいところに手が届くような提案をしてくれる。われわれは自分の意思でYouTubeを視ているように思えて、その実、YouTubeを視させられているのでもあるのだ。
原題では、レコメンドがかなり細かく個別化されている。これをパーソナルレコメンデーションと呼ぶ。視聴履歴や、なんなら他のサービスの利用状況までふまえて、個々の嗜好に合った提案をしてくれる。その結果何が起きるのかというと、誰かと誰かが同じ「YouTube」を視ていると見せかけて、その実、まったく違うものを視ているということが起きる。
どういうことだろうか。こういう試みをしたことがある。学生たちに「今YouTubeのトップ画面を開いて、スクショ(スクリーンショット)を見せてほしい」と頼んでみる。すると、驚くべきことに、10人なら10人のトップにくる動画がすべて異なっていたのである。パーソナルレコメンデーションがされていれば当たり前のことではある。しかし、とはいえ「若者」として括ることができる同世代の人々がこれほどまでに違うものを視ていることに、率直に驚きを感じた。(p.82-83)

 YouTubeではたくさんのインフルエンサーが活躍しています。インフルエンサーを推すことについての怖さも書かれていました。自分のお金を払っているかどうかは別として、推し活をしている児童生徒も多いと思います。オンラインとリアルでの違いをちゃんと伝えなきゃいけないと思いました。とても考えさせられる箇所でした。

インフルエンサーはファンありきのビジネスをしている。フォロワー数や再生数を稼いで広告収入を得ているし、直接的にグッズなど商品を買ってくれることもある。だから、とりあえず多くの人に知ってもらって、有名にならないといけない。でも、有名になるとアンチがつきやすい。すべての行動は見張られてて、少しでも隙を見せたらアンチが殴り掛かってくる。だから、そのアンチにアンチしないといけない。
アンチ-アンチすると、仲間内での結束が高まる。共通の敵を見つけて、さらに自分たちの正しさを確信する。アンチに負けちゃいけない、もっと応援しないと。よし、応援消費だ。投げ銭しよう。アンチ-アンチは、うまく使えばビジネスのためにも非常に有効なのだ。
なんというか、好きで応援して、自分でお金を払ってるなら、好きなようにしたらいいとも言える。お節介は嫌われるし、何を言っても説教としか思われないだろう。しかし、こんな論理は決して「リアル」では通用しない。
たとえば、職場であなたを叱ってくる上司がいるとする。叱る理由も色々あるだろう。私怨とか、機嫌が悪いとか、理不尽な理由もあるかもしれない。インフルエンサー的世界観に則るなら、この上司はアンチである。アンチ-アンチして、断固として拒絶せねばならない。
でも、世の中そんな人ばっかりじゃない。上司はあなたのアンチではない。ツイッターで他人を攻撃するような人は、社会のごくごく一部、よりもっと少ない超特殊事例だ。あなたに苦言を呈してくれる人は、ふつうはアンチではない。
YouTuberに倫理観を教わったZ世代は、世の中で自分を傷つける人はぜんぶアンチだと思っている。で、それにはちゃんとアンチ-アンチしないといけない。だって、大事な大事な推しは、そうしているんだもん。
このあまりに単純で安易な世界観が若者に着実に浸透しつつあることを、筆者はけっこう危惧している。
世界を推しとアンチに分断するというあまりに安直で、そして便利な世界観は、SNS隆盛の現代においていっそう加速している。そして、集客によって金を生み出すという仕組み、つまりむき出しのビジネスの論理がその加速装置として機能していることは、見逃せない事実であろう。(p.89-90)

 これ、本当に大事だと思います。「YouTuberに倫理観を教わったZ世代は、世の中で自分を傷つける人はぜんぶアンチだと思っている」というところ、響きます。

みんな経営者みたいになっている社会

 社会全体で本当によく聞くようになった、「コスパ」や「タイパ」という言葉。これももっときちんと考えたり、子どもたちに伝えたりしたいなと思わされました。

「あの授業、コスパ悪いから切ったったわ」

要は、課題が多いとか出席確認が厳しいとか、「ダルい」授業だったから履修を止めたということだ。なお、なぜかこういうことを言うときの学生はちょっと誇らしげだ。
このコスパの用法はとても若者らしいと同時に誤用を含んでいる。この学生さんは、コストがかかる、つまり授業に出ないといけないとか提出物を求められることを理由に、授業の履修を打ち切っている。つまりコストは節約できたとして、対価としてのパフォーマンスは何も得られていない。(p.107)

 本当です。「対価としてのパフォーマンス」が何か、ちゃんと考えないといけないし、「対価としてのパフォーマンス」をちゃんと見せて、コストを払ってでもやろう、と思わせるような学びを作りたいなと思いました。

 それから、最初に挙げた「いい子症候群」とも繋がりますが、「リスクを負いたくない」ということも書かれていました。

われわれは別に何のリターンもないわりに、経営者のごときリスクを負った、大きな判断を迫られているかのような生き方をしてしまっている。それこそ経営者のように、わずかな失敗も許されない。ストレスフルな日々を送っている。(p.110)

 思いがけず、「高校の総合的な探究(学習)の時間」についても話題が展開していきました。「高校の大学化」…なるほど。

経営者化は若者にも迫っている。現在の高校では「総合的な探究(学習)の時間」に、大学でするような難しいことに取り組むところが少なくない。たとえば(何のことかわからないかもしれないが)質問票をもとにした回帰分析なんかをやってたりする。まさに高校の大学化である。
現代的な教育の定番メニューが地域おこしである。地域から課題をもらってきて、ビジネスによって解決する。地域の名産品を使った新メニューを考えたとか、商店街を活性化させるビジネスプランを考えたとか、高校教育も着実にビジネス化しており、経営学者はそこにおおいに加担していることもある。
傍目に見て、えらい難しいことをさせているなあ、と思う。だって、地域おこしなんてオトナですら失敗し続けている、世紀の超難問である。地域経済を振興するというのは重大な社会課題であると同時に、高校生が貢献できる域をはるかに超えている。
その結果として、オトナがおおいに介入することになる。難問すぎて高校生だけでできるわけがないので、先生の負担が増えるというわけだ。本当に小中高の先生には頭が下がる。しかもそれらの先生が教職課程で習ってないことばかり現代では求められる。ほんとに、どうやって教えてるのだろう、という感じだ。(p.110-111)

 大学生が、モバイルプランナーをやっている、ということも紹介されていました。自分自身の大学生のときにはまったくなかった環境です。このあたりもネットリテラシーと関連してくるなと思いながら読みました。モバイルプランナーをしていた大学生のユウさんについて触れているところ、リアルでした。

ユウさんは、筆者から見ればとても「まともな」「優秀な」人に見えた。面接で来たら通すと思う。そんな学生が、なぜ非倫理的ビジネスと接点を持ったのか。まっとうな世界とグレーな世界の境界を越えたのはGoogle検索だった。しかも、たったツータッチでたどり着ける場所。ネットを駆使すればいとも簡単に、闇の世界と触れ合える。
ダークウェブや闇バイトという言葉が流行ったけど、モバイルプランナーは表玄関から堂々と入れる場所にあった。なんなら子ども向けフィルターがかかったブラウザからでも入れるのではなかろうか。
そして、この世界は外から見えなくなっている。報道番組がなければ、報道番組が扱ったところで、読者の方々の多くはモバイルプランナーなど知りもしなかっただろう。誰でもたどり着ける場所にありながら、多くの人は知ることがない。
そのような開かれたネットワークで、閉じられたコミュニティを作ることに、実はウェブ(インターネット)は非常に向いている。考えてみれば、インスタもインフルエンサーも同じだ。お金も知識も経験もない若者が行こうと思えば行ける場所にありながら、他者はそこに気づくことがない。誰でも使えるネットから、誰にも見えないコミュニティができて、そこで人知れず物事が展開していく。そういう性質を現代はたしかに抱えていて、若者はその渦中にある。(p.162-163)

 「開かれたネットワークで、閉じられたコミュニティを作ること」というのは、闇バイトとかともすごく近いところですし、こういうのもネットリテラシーとして紹介しないといけないなと思いました。

「説教」について

 部下を叱れなくなった、ということもよく言われます。この本では、「説教」というキーワードが取り上げられていました。

説教という言葉も、見ただけで嫌になるようなツラい言葉だ。他者からのあらゆる苦言やコメントは、説教とラベリングした瞬間に無意味化する。ヤレヤレ感を出しながら「また説教ですか」と言って苦笑いするだけで、自分は悪くない感じが出せるし、相手に「嫌なことしてしまったなあ」という感覚を植え付けられる。説教ラベリングは本当に悪質だ。
いくらその人を思った言葉でも、説教と言ってしまった瞬間に無意味化できる。自分は悪くない、相手にデリカシーがなくて非常識なんだ、という構図を作ってしまえる。(p.225)

 説教ラベリングか…。思い当たることがいろいろとありますね…。

ガチャ概念の誤謬について

 「○○ガチャ」という言葉も本当によく聞くようになったなと思います。ガチャについても書かれていました。このブログでも読書メモをまとめた、『「学び」がわからなくなったときに読む本』『おやときどきこども』の編著者であるを鳥羽和久 先生の言葉が紹介されていました。

鳥羽和久という、塾を主宰し、教育関連の執筆も多い方が『君は君の人生の主役になれ』という本で(熱いタイトルだ)、ガチャ概念の根本的な問題について指摘している。鳥羽氏の指摘は通説と一風変わっており、かつ核心に迫っていると感じる。すなわち、「ガチャ概念の最たる誤りは、当たりがどこかにあると錯覚している点にある」というのだ。
最も卑怯でかつ儲かるガチャがあるとすれば、当たりを入れずに引かせ続けられるガチャ、になるだろう。お祭りのテキ屋さんが当たり入れてないだろって言われたり、「ソシャゲ」黎明期には排出確率を操作している、誤表記しているといった問題が出たこともある。
そして、この論理は現実のガチャ概念、特に婚活ガチャや配属ガチャにも非常に当てはまっている。自分の引いたものが外れで、どこかに当たりがあって、だから「ガチャに外れた」と言うのだけど、そもそも当たりって何なの?どこにあるの?という話なのだ。
(略)
もっとありていに言っちまえば、ガチャだの喚いてる他責思考の人々に、当たりなど永遠に回ってこない。当たりを当たりだと認識する認知能力がないからだ。あるいはスジの良い状況を当たりに持っていく力がない。自ら周囲に働きかける力なくして、当たりを引くことなどありえないのだ。(p.253-254)

 ガチャには当たりがない、というのはたしかになー、と思いつつ、社会の不平等はあるよなー、とも思い、いろいろ考えてしまいました。僕は、ガチャというよりはババ抜きでもポーカーでもいいけど、自分の手札で何ができる考えてやっていくしかないじゃないか、というような気持ちでいますね。

まとめ(というか感想)

 Z世代の若者たちのことを読みながら、その背景にある社会の変化と、社会の中にある学校のことを考えてしまいました。いままで自分で言語化していなかったことがたくさん書かれていて、とても勉強になったというか、自分の語彙が増えたのがうれしかったです。この語彙をどう活かしていくかを考えていきたいと思います。

(為田)