教育ICTリサーチ ブログ

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ひとり読書会:『庭の話』

 宇野常寛さんの『庭の話』を長い時間かけて読みました。いろんな考えるヒントをもらって、わかるところ・難しくていまはちょっとわからないところ、そういうところを往ったり来たりしながら読みました。

 タイトルは『庭の話』ですが、ガーデニングの話ではありません。宇野さんは、「『庭の話』が100倍面白くなる自己解説テキスト」のなかで、以下のように書いています。

タイトルは「庭の話」ですが、園芸や環境保護の本ではなく、分野としては情報社会論の本ということになると思います。
具体的にはプラットフォーム資本主義の強すぎる力とどう付き合っていくか、という「大きな話」をケアとか民藝とかパターン・ランゲージとか、銭湯とか、ゴミ捨てとか、働き方とか、そういった身近な話を手がかりに考えています。

『庭の話』が100倍面白くなる自己解説テキスト|宇野常寛

 この、「プラットフォーム資本主義の強すぎる力とどう付き合っていくか」というところにすごく僕は興味があるのです。300ページを超える分厚い本で、全部で14章ありますが、自分的に「ここ、誰かと話し合ってみたい!」と思ったところをメモとして共有したいと思います。僕の場合は、学校の先生に話してみたい、というのがメインです。いまの子どもたちは、じきにプラットフォーム資本主義の強すぎる力と付き合っていかなくてはならなくなるので、その子たちに日々言葉を届けている先生方にも、『庭の話』を読んでほしいと思うのです。気になる言葉があったら、ぜひ本を手に取ってほしいです。

#3 「庭」の条件

 「#3 「庭」の条件」では、この本のタイトルにも出てきている「庭」の条件について書かれています。が、その前に、SNSがどういうことを我々にもたらしたのか、というところが刺さったので、そこから。
 僕はSNSが好きでそれなりに使っている方だと思いますが、「いいね」ほしさにいろいろやらかしてしまう人の多さには「はー」と思ってしまうことが多いです。なんでそんなことになってしまうのだろう、ということに道筋を示してもらえたような箇所をメモします。

たしかに私たちは近所の公園の壊れたベンチについて、市民として議会に訴え、修繕させることはできる。しかし、その半径五メートルの目に見える手触りは、FacebookやX(Twitter)で大統領選挙についての陰謀論を発信して、五十名からのリプライを受けたときに得られる承認に、大きく劣るだろう。プラットフォームの与えるそれは、恐るべき低コストで、驚くほど多くの、それも大きな問題に対する反響を、何かを介さずに直接その人にもたらすからだ。おそらく、Web2.0の思想がSNSのプラットフォームを用いて実現した最大の成果がここにある。この偉大な(そして、それゆえに副作用の大きい)変化によって、私たちは広大な、そして限りなく時間的、経済的に低コストで「かかわる」ことのできる事実上の公共の場を手に入れたのだ。
しかし、問題はプラットフォームで私たちが「かかわる」ことができるのは、あくまで人間間の閉じた相互評価のゲームであり、人間外の事物たちの開かれた生態系ではないことだ。人間はプラットフォームを通じて、公的なものに接続すればするほど、人間間の相互評価のゲームに閉じこめられて、その結果として社会から自由と多様性が奪われていく。それは、SNSのプラットフォームが人間間を直接つなぐものである以上は避けられないことなのだ。
だからこそ、私たちは事物を通して私的なものと公的なものが接続される回路が、私たちが「かかわる」ことで変えられると実感できる場所が、それも、サイバースペースと実空間の双方にまたがって必要なのだ。(p.102-103)

 SNSが、「広大な、そして限りなく時間的、経済的に低コストで「かかわる」ことのできる事実上の公共の場」を提供しているのだ、というのは大事なところだと思います。

 それから、この本のタイトルにもなっている「庭」の条件が3つ挙げられていました。情報技術によってもたらされたプラットフォームをどう内破できるのか、ということが書かれています。

本書が「庭」の比喩で考えていくプラットフォームを内破するために必要な環境とは何か。これまでの議論から浮上するのは、以下の三つの「庭」の条件だ。
第一にまず、「庭」とは人間が人間外の事物とのコミュニケーションを取るための場であり、第二に「庭」はその人間外の事物同士がコミュニケーションを取り、外部に開かれた生態系を構築している場所でなくてはいけない。そして第三に、人間がその生態系に関与できること/しかし、完全に支配することはできない場所である必要がある。(p.106)

#5 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ

 「#5 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ」では、うちの会社が認定されている「パターン・ランゲージ授業づくりパートナー」の活動として、授業づくりに組み込んでいるパターン・ランゲージの第一人者、慶應義塾大学の井庭崇先生の創造社会についても書かれていました。(『クリエイティブ・ラーニング 創造社会の学びと教育』を読んでから、もう6年も経っているのか…)

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しかし井庭も述べていることだが創造社会の実現のためには、まだいくつかのピースが不足している。
それは、端的に述べれば欲望の問題だ。Web2.0が証明したのは、人間はそれほど事物を創り上げることに関心はなく、ほとんどの人間は承認を交換する器官にすぎないという身も蓋もない現実だった。仮に共創ギルドによってパターン・ランゲージが発展し、今日とは比べものにならないほど事物の制作が簡易になったとき、人びとは次々と事物の制作に参入していくのだろうか?おそらく、それは難しい。もちろん、それぞれの分野において、参入してくるクリエイターの母数を増やすことは大いに期待できるし、それだけでも十分にすばらしい未来には違いない。しかし、井庭は大衆レベルで――今日の情報社会下の相互評価のゲームと同じレベルで――それが現代人の生活に介入することを意図しているはずだ。では、そのために必要なピースはなにか。
多くの人間は、実のところ創造社会を望まない。どれだけ食べることが好きな人間でも手間暇を惜しみ自分で料理はつくらず、レビューサイトの投稿すら億劫に感じる人間は少なくない。しかしこのような「怠惰なもの喰う人びと」を巻きこめないかぎり、創造社会は到来しない。したがって問題はむしろ創造への欲望を、どう駆り立てるのか、という点にある。
井庭の構想する共創ギルドの管理するパターン・ランゲージ群は、私の考える「庭」、つまり相互評価のゲームの外部に事物が点在し、そこに人びとが簡易に触れることのできる場所に実る果実のようなものだ。つまり、この果実を人びとに欲望させる環境の構築が必要となる。そしてその果実は、プラットフォーム上の相互評価のゲームで交換される承認よりもときに強く、少なくとも同程度には人間を惹きつけることが求められる。まずは、人間外の事物とのコミュニケーションへと人びとが「動機づけ」られなければならないのだ。(p.141-142)

 「多くの人間は、実のところ創造社会を望まない」というところ、グサリと来ました。便利なデザインツールがたくさん出てきても、僕も全然何かを創造するようなことができません。そういう僕は、創造社会に参加できるのだろうか…と思っていたのでした。こことも「庭」が繋がってくるのか、と思いながら読みました。

#8 「家」から「庭」へ

 「#8 「家」から「庭」へ」で考えさせられたのは、共同体で助け合えればいい、というような未来は、その共同体でうまくやれる人のことしか考えていない発想だ、というところです。「たしかに…」と考えさせられました。

この種のロマンチックに既存の資本主義の「外部」として提示される「贈与」の経済の情報技術によるアップデートがもたらすのは結局「人間関係」をその共同体内で築いていないと必要なものが手に入らない不自由な社会なのだ。
「贈与」とか「共同体」をその表面的なハートフルなイメージに依存して主張する人は、「醤油が切れたら近所の人に貸してもらえる社会がいい」というが、それは共同体のなかで相対的によい位置にいられる人のことしか考えていない発想で、弱者のことをまるで考えていない。共同体の周辺に配置され、ときに迫害され、人間関係が構築しづらい人のことをまるで考えていない。(p.191)

 この「共同体のなかでうまくやれる人」を前提に話してしまうの、僕自身の傾向としてありそうだなと思いました。注意深く自省しないといけないなと思いました。

ここであらためて考えてほしい。たとえどれだけ固着しないためのサブシステムが張りめぐらされていたとしても共同体内の人間関係に依存した「贈与」経済と、国家等による再分配がなんらかのかたちで機能し、現金をもっていけば「誰でも」パンが買える資本主義経済、弱者に優しいのはどちらだろうか?(p.193)

 僕は、弱者に優しい社会の方がいい。

#9 孤独について

 「#9 孤独について」では、いまのインターネットがあまりにも「承認を交換する」プラットフォームに支配され過ぎている、という話が書かれていました。言われてみれば、昔と今と、インターネットって全然違いますよね。大学生の頃から、インターネットに夢がある時代を生きてきたなあ、と感じます。小学校とか中学校からLINEを使っていて、各種SNSでDMをやりとりしたり、「いいね」を送り合ったりしているいまの若者とは全然見えているものが違うんだろうな、と感じます。

二〇二〇年代の情報環境に慣れた人びとは、インターネットで他のユーザーと交流すること以外に何をするのか、疑問に思うかもしれない。しかし、違う。インターネットは必ずしも他のユーザーと交流し、承認を交換するためだけのものではなかったはずなのだ。プラットフォームに支配される前のインターネットは、必ずしもユーザー間の承認の交換に特化したものではなかったはずなのだ。(p.218)

誤解しないでほしい。私は社会的な関係が必要ないと述べているのではない。むしろ逆だ。適切に他者とコミュニケーションを取るためにこそ、人間は孤独に世界とつながるための回路が必要なのではないか、と問うているのだ。
人間はときに、孤独で「も」あるべきなのだ。共同体への回帰は強者たちによる傲慢な主張だ。すでに社会的な地位が確立された人びとの語る仲間という言葉に、絆という言葉に、関係性という言葉に、私は安易さ以上のものを感じることは難しい。自分が強い立場で臨めば、あるいは他の場所で生活が保証された状態で外部から気軽に触れれば、地元の人の集う商店街のカフェもスナックも居心地がいいだろうし、大きな声でそれが弱者のためのセーフティーネットであると善人顔して主張することもできるだろう。しかし、ほんとうに「弱い」状態にある人間にとって必要なのは「ひとり」でいても寂しくない場所なのだ。(p.222)

 「適切に他者とコミュニケーションを取るためにこそ、人間は孤独に世界とつながるための回路が必要」という文章、めちゃくちゃいいですね。孤独になれる場とか時間がなさすぎる。ずーっと常時接続な感じ。『スマホ時代の哲学』にもちょっと関係あるかな、とも思った。

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#11 戦争と一人の女、疫病と一人の男

 「#11 戦争と一人の女、疫病と一人の男」では、「今日のグローバルに肥大した資本主義と情報技術のカップリングは、人類にふたつのゲームを与えている」と書かれています。僕自身も、このゲームに勝手に乗っけられてるんだよな…と思いつつ。この視点は、インターネット上でのいろんなコミュニケーションやコンフリクトを見るときにもっておきたい視点だと思います。

今日のグローバルに肥大した資本主義と情報技術のカップリングは、人類にふたつのゲームを与えている。ひとつ目は、個人が市場というゲームのプレイヤーとして自己実現「する」というものだ。そしてふたつ目は、そのグローバルな市場の一部としてプラットフォーム上で承認を交換することで何者か「である」ことを確認するゲームだ。前述したように、このふたつのゲーム――二十一世紀の〈グレート・ゲーム〉――は深く結びついている。前者のグローバル資本主義のゲームの中心にインターネット上のプラットフォーム産業があり、この産業は後者の相互評価/承認の交換のゲームの「胴元」となることで利益を上げている。(p.280)

 それと、ちょっと長いけれども、学校、特に公教育を考えるときに視野に入れておきたいと思っている、「Anywhereな人びと」と「Somewhereな人びと」の話、「する」と「である」の話は、何度も何度も読み返したい箇所です。

今日のSNSのプラットフォームにおいて承認の交換が、つまり「である」というアイデンティティの確認をめぐる下位のゲームが支配的なのは、この「する」ということに対する「評価」のハードルが高いためだ。言い換えれば、前述の上位のゲーム――グローバル資本主義のゲーム――のプレイヤーは、運と才能に恵まれ、そこに膨大な努力を投下できた一握りの人間に限られる。しかし下位のゲーム――承認の交換――に必要なのは、敵を名指しして味方であることをアピールする卑しさだけだからだ。実績を上げそれが「評価」されるより、誰かを貶めてその敵から「承認」されるほうが圧倒的に安価で、そして「速い」からだ。
つまり今日の情報社会では、「する」というアイデンティティをもちうるのは(「自由意志」という虚構を、無邪気に信じられるのは)、デイヴィッド・グッドハートの述べるAnywhereな人びと(クリエイティブ・クラス)に集中し、Somewhereな人びと(労働者)は、「である」というかたちでしかもちえない。敵を名指しして、口汚く罵ることは「する」行為としては「評価」されないが、共同体のなかでの「承認」、つまり「である」ことの確認としては有効な手段だ。そのため、必然的に「アイデンティティの政治」が後者(と、後者を動員するインセンティブのある前者)の支持を得る。マイケル・サンデルやデイヴィッド・グッドハートはメリトクラシーを批判する。それは言い換えれば才能と運に恵まれた人が「成功」する以外に正当な自己確認ができない経済構造に対する批判だ。これらのメリトクラシー批判が重要なのはこの点にある。
要するに「である」ことを効率よく求めると村落の外部の敵に対しては攻撃的で、内部の秩序は「いじめ」で維持される共同性に陥り、「する」ことを求めるとメリトクラシーの肥大を呼ぶのだ。
では、どうするのか。ここで必要とされているのは「である」ことでも「する」ことでもなく、世界が自己の存在と無関係に変化することだ。そのことで、自己のアイデンティティについて問うことを、一時停止させることだ。(p.282-283)

#12 弱い自立

 「#12 弱い自立」でも、「Anywhereな人びと」と「Somewhereな人びと」の話が書かれています。子どもたちにどんなふうに生きてほしいのかを考えるときに、この視点を入れたいな、と思います。この視点が入れば、「では、公教育はどうあるべきか」ということに繋げて考えられると思うので。

p.289-290
「「である」こととは共同体内の承認、「する」こととは社会的な評価と結びつく。そして前者は「Somewhereな」人びとの、後者は「Anywhereな」人びとのアイデンティティの確認の手段として定着している。
これまで再三指摘してきたように、この分断と格差を批判するイデオローグたちの多くは、左右ともに、市場経済による人間の個人化を批判し、共同体への回帰を主張する。
グローバルな資本主義のゲームのプレイヤーとなり、個人が素手で世界に触れる実感が得られる「Anywhereな(どこでも生きていける)」人びと、つまり市場からの「評価」でアイデンティティを形成できる人は、デイヴィッド・グッドハートの述べるように一握りのグローバルなエリート層にすぎない。
大半の人間は個人という単位で「評価」を得ることは難しい「Somewhereな(どこかでないと生きていけない)」人びとであり、彼らは共同体からの「承認」がないとアイデンティティが安定しない。そのため、左右のイデオローグは共同体への回帰こそが、社会の安定につながる、と訴えるのだ。
こうして左右の共同体主義者たちは共同体への参加ハードルを下げようとする。だから「寄る辺なき個」を生まないように「常連」があたたかく迎える街のカフェをつくる、といった空回りを演じてしまう。物語の主役が舞台の中心でふんぞり返り、脇役や端役を搾取する構造がある場所が、社会的弱者にとってのセーフティーネットになるはずがない。弱者に手を差し伸べられるのは、人間関係を築いていればパンが無償でもらえる「共同体」ではなく、(たとえば国家の再分配で得た)貨幣をもっていけば、どこの誰でもパンが買える「社会」なのだ。」

 ここから、「弱い自立」という言葉が出てきます。これもキーワードになるな、と思いながら読みました。デジタル・シティズンシップ教育でもこういうところにまで触れて説明したい(というか、「弱い自立」を体験できるような場面を学校に作りたい、かな)。

p.301-302
「ここで選択すべきは、いま市場において支配的な二十一世紀の〈グレート・ゲーム〉のプレイヤーとして自己啓発に勤しむ(ことで世界に対し現状肯定の言葉しか語れなくなる)のでもなければ、資本主義の外部を提示すること(左翼的に振る舞うこと)を手段ではなく目的と化して、理論的にも破綻し実証的にも足りない事例をロマンチックな修辞で誤魔化しながら陶酔気味に語ることでもない。
ほんとうに批判力のあるモデルは、これまで考えてきたようにむしろ資本主義と都市の内部にある。そこで獲得すべきものは「家」ではなく「庭」であり、そこで人びとが集うのはグループではなくコレクティフであり、共同体ではなく社会であり、自治のためのアソシエーションではなく、アグリゲーターを内在した新しい株式会社とプラットフォームのハックといったものが実現する、資本主義のプレイヤーとしての「弱い自立」なのだ。
そして「弱い自立」により「評価」のハードルを下げること――これが「である」ことでも「する」ことでもない、「承認」でも「評価」でもない道への入り口になる。アグリゲーターによりなかば解体された株式会社のメンバーは、あるいはタンザニアの出稼ぎ商人たちは、市場を通じて「自立」しているがグローバル資本主義のゲームからはなかば降りることができる。つまり彼らは共同体から自立し、そこから得られる承認に支えられていないが、かといって市場からの評価を直接的にアイデンティティに結びつけてもいない。前者は自己実現よりも自分たちのプロジェクトが実現することそのものに、後者は自分たちの暮らしが楽しく彩られることに、それぞれ主眼が置かれやすい環境をつくりだす。言い換えれば前者は株式会社を維持しながらも個人の単位に近いかたちで活動するという中間的な形態を可能にすることでゲームへの過剰適応を回避しうるし、後者はプラットフォームを適切に活用することで、共同体を維持しながらもその束縛を大きく緩和し、セーフティーネットにしている。」

まとめ(というか、感想)

 じっくり読んでいったにも関わらず、全部をきちんと理解したとはとうてい言えず、まだキーワードを抜き出しただけ、という感じがします。これを、自分の仕事の領域にどう落とし込んでいけるのか、長い時間かけてじっくり考えていきたいと思います。ちょっとでも興味ある人は、ぜひ『庭の話』を手にして読んでほしいです。宇野さんによる自己解説テキストがあるので、こちらを先に読んでみると全体像がクリアになると思います。

note.com

 何度も何度も、くり返して読みたくなる本です。

(為田)