教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

ひとり読書会:『データ管理は私たちを幸福にするか? 自己追跡(セルフトラッキング)の倫理学』

 堀内進之介さんの『データ管理は私たちを幸福にするか? 自己追跡(セルフトラッキング)の倫理学』を読みました。デジタルハリウッドの池谷和浩さんに教えてもらった本なのですが、興味深い新しい言葉や考え方をたくさん知ることができたので、読書メモを共有したいと思います。

 スマートフォンやスマートウォッチの普及で、さまざまなことが定量化できるようになった、ということが「まえがき」に書かれていました(p.8)。

  • 定量化される自己(QS):
    自分自身の「ダメさ」を管理・改善するセルフトラッキング
  • 定量化される関係性(QR):
    対他関係における「ダメさ」を管理・改善するところまで拡大

 僕はライフログをとるのが好きな方だし、いろんなサブスクしているサービスが年末になるとまとめて数値化してくれるデータも大好きです。
 良いデータが出るときはいいのですが、「ダメさ」を管理されている感じがするときもあるな、と思います。「自己」も「関係性」も、どちらも定量化されることで「ダメさ」が見えてきたりもします。それを改善に役立てられるならばいいのですが、すべてにおいてそんなにポジティブな方向には進まないこともあります。

第4章 測定されるものは管理される

 「第4章 測定されるものは管理される」では、トラッキング技術に対する批判的な見解として、「新自由主義化」「測定-管理化」「交換-互酬化」「市場-商品化」「依存-能力退化」の5つが紹介されていました。

 このなかの「測定-管理化」のなかで、ガート・ビースタが抱いているEdTechへの疑義も書かれていました(最近、EdTechっていう言葉、あまり聞かなくなりましたね…)。

ビースタは、人びとの「よい教育」への理解が教育の「価値」ではなく、教育の「効率化や効果」など、管理的な側面に偏重気味であることに疑義を呈しているのだ。彼の言い方を借りれば、教育への人びとの関心が「なぜ(why)」ではなく、「どのように(how)」に偏重していること、このことへの疑義である。
この疑義は、メリトクラシー(能力主義)が幅を利かせる社会、つまり能力の程度によって社会的地位が決まるような社会への批判として、半世紀以上前からある議論と軌を一にするものである。要するにこれらは、主として社会や教育の制度上の問題を指摘しているのだ。しかし近年では、これにテクノロジーへの懸念が合流し、いささか込み入ったことになってきている。
というのも、電子黒板やタブレットなど、教育への新たなテクノロジーの導入が進み、エデュケーション(Education)とテクノロジー(Technology)を掛け合わせた「エドテック(EdTech)」が台頭してきていることで、教育の「効率化や効果」への偏重に拍車がかかっているからである。(p.136)

 EdTechを授業で使うと、ドリルの正答率、学習時間、児童生徒のお互いの閲覧記録などいろいろなことを測定できて、先生はそれを見ることができます。それによって授業が良くなることもたくさんありますが、たしかに「効率化や効果」へ偏重していく、というのはたしかにあるかもしれません。

EdTechは教育実践の部分を補完するものでしかなく、そこにおいてのみ価値がある(略)これはよく理解しておくべきことだ。しかし、私たちはEdTechの制約をすぐに忘れ、測定し得ない事柄までも測定しようとしたり、あるいは測定できたことにしたりする、という間違いを犯してしまう。時間が足りずに良い点数を得られなかった受験者を、すぐに理解不足だと臆断してしまうのだ。(p.139)

教育学者の神代健彦は『「生存競争(サバイバル)」教育への反抗』で、教育が社会を上手く生き抜くためにサバイバル・メソッドとして捉えられ、世界という広大な可能性に邂逅するための方法ではなく、社会という狭量な事実性にばかり適応するための手段になっていることを憂慮している。このような状況においては、狭くはEdTechが、広くはトラッキング技術が、「社会への適応」の片棒を担ぐのではないか、という懸念が生じるのも無理からぬことかもしれない。(p.140)

 教育でのトラッキング技術が、子どもたちの学び方を広げてくれるような面もあると思うのですが、ただ点数をとるため・勉強時間を増やすためだけの狭い範囲で終わってしまうといやだな、とも思います。
 

第5章 セルフトラッキングの可能性

 「第5章 セルフトラッキングの可能性」のなかで、セルフトラッキング技術に留まらず、広くテクノロジーがどういう存在なのか、ということを考える文章がありました。

「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。

熊谷のこの言葉は、第2章で見たマッキンタイアの思想をさらに拡張するものに思える。というのも、マッキンタイアは、私たちの生が「ほとんどの場合、他者のおかげ」であると示唆していたが、熊谷の理解は「他者」の意味を人としての他者だけでなく、技術やインフラをはじめ、私たちを取り巻く「外部」にまで広げるものだからでさる。
例えば車椅子に乗り、バリアフリーな環境を頼りにする人たちと同様に、健常な私たちも実際、「外部」に大いに依存している。それは身体的な諸動だけではない。自動車の回転速度計がスピードの出しすぎを判断するキッカケになるように、私たちは、認知的な事柄についても大いに「外部」からの影響を頼りにしているのである。こうした経験的な事実は、旧来の「自律性」という概念を反省し、同時に「関係的自律性」という理解に立つべき、十分な理由を提供するものである。(p.176-177)

 「私たちの生が「ほとんどの場合、他者のおかげ」である」という言葉は、人のことだけじゃなくて技術やインフラなどまで広げて考えるといい、というのはすごく好きな見方だな、と思いました。

技術にまつわる問題の大半は、機能面における技術それ自体の問題というよりも、それを運用する人間側の問題である。逆に言えば、私たちユーザーには、測定技術と積極的に関わり合うことで、現状の不満や課題を解消する道もあるのだ。(p.193)

 トラッキング技術と積極的に関わり合うことで、現状の不満や課題を解消したいな、と感じます。

第6章 道徳性を補完するテクノロジー

 「第6章 道徳性を補完するテクノロジー」で出てきた、「ナビゲーション」と「ウェイファインディング」という2つの機能についての紹介が、トラッキング技術よりももっと広い範囲で、「テクノロジーを何のために使うのか?」ということを考えるときのキーワードとして使えそうだと思いました。

「ナビゲーション」と「ウェイファインディング」という2つの機能は、利用する人に働きかける水準が違う。(p.204-210)

  • ナビゲーション機能
    • 利用者の認知活動を効率化・合理化する「単純な認知能力の増強」に貢献している
    • 目的を「より楽に」達成できるようになるが、技術に従属する可能性も強まる
    • 技術との「受動的な」関係をもたらす
    • 判断を技術に依存する可能性が高まる=私たちの能力を「代替」するもの
  • ウェイファインディング機能
    • 自分の認知活動を客観的に認知し、自分自身を制御する「メタな認知能力の増強」に貢献している
    • 技術との「積極的な」関係をもたらす
    • 判断が技術により精緻になる可能性が高まる=私たちの能力を「補完」するもの

 学校でのデジタルの活用、AIの活用についても、この「ナビゲーション機能」と「ウェイファインディング機能」のどちら側をイメージするのかによって、受け止め方はけっこう違うのではないかなと思いました。私たちの能力を「代替」するのではなく、私たちの能力を「補完」するような使い方を考えていきたいと思いました。

最終章 慎重で開放的なスタンス

 最後の「最終章 慎重で開放的なスタンス」では、バベルの塔の話やイカロスの神話を引き合いに出して、技術との付き合い方について書かれていました。子どもの頃よく歌で歌って知っているイカロスの神話では、イカロスの父ダイダロスが「高く飛ぶな、しかし低くも飛ぶな」と警告しています。なぜなら、高く飛ぶと蝋が溶けてしまい、低く飛べば海の水しぶきで鳥の羽が湿ってしまうからです。

バベルの塔の二つの解釈やイカロスの神話は、つまるところ、私たちに「技術の利用に慢心するな、しかし、技術の放棄、ないしは依存もするな」と教えているのである。
こうした教訓に関連して、技術に対しては「滑りやすい坂」と呼ばれる議論もある。これは、ある主張を認めてしまえば、坂を滑り落ちるように、それに類似する主張を次々に認めることに繋がり、最後は悲劇的な結果になるというものだ。例えば、遺伝性疾患を治療するための遺伝子編集の技術開発を進めると、それが人間の複製(クローン)や、優れた遺伝子を持つ子ども(デザイナー・ベイビー)などを生み出すことに繋がっていき、後戻りできなくなるといった議論である。
滑りやすい坂論に立脚する人たちは、技術開発が悲劇を生まないようにするには、はじめの些細な決断も慎重に行わなければならないと主張する。この議論には反論もあるが、問題のある技術を安易に利用してしまい、思わぬ結果を招いてしまわないように、私たち自身が技術を深く理解する必要があることは間違いない。(p.224-225)

 「技術の利用に慢心するな、しかし、技術の放棄、ないしは依存もするな」というのは、いまの学校で先生方に伝えていきたい言葉だな、と思いました。

 トラッキング技術にとどまらず、より広く「テクノロジーとの関わり方」ということについても考えることができる本でした。

(為田)