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ひとり読書会:『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』

 難波優輝さんの著書『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』を読みました。帯に、「「何者かになりたい」は呪いだ。」と書かれていて、これに惹かれてしまったのです。僕は正直、ずっと「何者かになりたい」と思っていたし、周囲に「何者かになっている」人が多いこともあって、妬み嫉みもすごくあるし、しょうもない自分を感じていて、「どんなことが書かれているのだろう」と思ったのです。

 「序章 人生は「物語」ではない」では、「あらゆるところで「物語」がもてはやされている」と書かれていました。

あらゆるところで「物語」がもてはやされている。私はそれが不愉快である。物語を愛しているがゆえに。(p.3)

 この文章に続いて、ナラティブ・セラピー、SFプロトタイピング、物語思考などが例として挙げられていきます。個人的にいちばん「そうそう」と思ったのは、就職活動の面接について書かれているところでした。

就職活動の面接では、学生時代に力を入れたガクチカが尋ねられ、これまでの来し方を「自己分析」させられ、挫折経験とそこからの回復をドラマティックに語ることを要求される。
私は端的にこう思う。何かがおかしい、と。
人生を解釈しすぎるから心身に不調が訪れるのではないか、と思うし、未来を描く際にはストーリーではなく、人文的な知識をしっかりと勉強すべきだと思うし、人生の意味を感じるのに物語を通す必要など感じない。(p.4)

 なるほど…。僕は、就職活動の面接では(当時は「ガクチカ」なんて言葉はなかったけれど)、自分の話を語るのが好きだったし得意だった気もしてきました。だからこそ自分は、無意識に物語を語ることを許容しているし、周りにも物語を語ることを強いている面がある側だろうな、と思いました。

世界は物語だけでできているわけではない。人生そのものは物語ではないし、物語的に生きることが常に善いわけでもなく、美しいわけでもない。
私にとって人生とは、さまざまなことが巻き起こり、出会いと別れがあり、楽しい会話や鮮やかな瞬間があるものであるが、それらを、特別、物語の形で語りたいとは思わない。物語的ではない生を私は生きられている。
人びとはあまりにも強い物語の引力に引き寄せられて、もはや物語に支配されつつあるのではないか、と私は危惧し始めた。(p.6-7)

 この本は、二部構成になっていて、第一部が「物語篇」で、物語化の持つ魔力と危うさを論じています。そして第二部は「探究篇」で、物語の危険を避け、物語を相対化できるような思考を「遊び」を手がかりに物語との向き合い方を探索するようになっています。個人的には第一部が圧倒的に面白かったです。

 「第1章 物語批判の哲学」で、なぜいま「物語化が重要視され、重宝されているのか」と、なぜ「物語化は問題になるのか」が書かれていました。ここ、学校で児童生徒と接するときに参考になりそうだと思ってまとめました。

なぜいま、これほどまでに物語化が重要視され、重宝されているのか(p.15-18)

  1. 私たちが他人を理解したいと願い、他人に理解されたいと願うから。
  2. 私たちが他人と同じ気持ちになりたいと願い、他人にも、自分と同じ気持ちになってほしいと願うから。
  3. 自分が誰であるかをはっきりさせたいと私たちが願うから。

なぜ物語化は問題になるのか?(p.18-19)

  1. 物語を通した理解の願いはときに誤解と欺瞞に陥る。自分に馴染みのある物語を使って他人を理解しようとするとき、それは抑圧をもたらす。
    →正しい過去の語りとは何か?
  2. 物語を通じて画面の向こうの誰かと情動をリンクさせたいという願いは、その人がもともと持っていた情動が、誰かの思惑通りに上書きされてしまうことや、可能だった別の仕方での情動理解の可能性を狭めてしまうことにつながる。
    →情動との正しい距離感は?
  3. 物語を用いた自己像の探求は、ときに、凝り固まった自己像を作り出す。自分のアイデンティティを確立することが行きすぎると、特定のあり方の枠に自分をはめて、硬直化したアイデンティティを生きることになってしまう。
    →やわらかい理想をいかに描くか?

 このあたりを読んでいて、朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を思い出しました。

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 物語をもつことで「自分はこういう人だ」とアイデンティティを保つことができるのですよね。「自分はこういう人」というのも物語だし、「あの人はこういう人」というふうに人のアイデンティティを決めつけて自分とは違う、と言うのも物語だな、と思いました。

私たちは、自分自身を語ることで互いを理解し合えると信じている。
しかし、自己語りは本当に自己理解に寄与するのだろうか。自己語りを聴くことで、他人の理解が進むのだろうか。私たちの語りは知らぬ間に過去を歪め、理解を妨げ、自己の虚飾を作り上げ、さらには他人への不当な解釈という暴力へと転じる危険を隠し持ってはいないんだろうか。(p.20-21)

 自分自身の物語は、誰かに自分のことを語っていくことでだんだん強くなっていったり、ちょっと歪んだり、いろいろごまかしが入っていったりするのですよね。いまだとSNSでの自己紹介や投稿がまさにそれだと思います。自分自身もたくさん投稿しているし、物語を語って分かってもらおうとしている面ももちろんあります。気をつけなければ…と思って続きを読みました。

SNS上での自己紹介や投稿も同様だ。共感を引き出すためのドラマティックな演出や反応を得るための協調や大胆な省略があり、「私とは何者か」という理解を微妙に歪めている。その歪みの悪影響は読み手だけでなく、投稿する当人にも及ぶ。
このような日常の自己語りを、私たちはどのように評価し、どのような危うさを見抜くことができるだろうか。
こうした自己語りがもたらすのは単なる自己満足や共感ではない。
自己語りのあり方が生み出す認識的な偏りや歪みは、他人に対する理解にも影響を及ぼす。ときには、相手の人生を自分勝手な語りへと還元し、その人が自分を解釈する権利を奪うような、暴力的な「物語的不正義」へと至ることすらある。(p.22)

 逆に、他者のことを「物語」として聞いてわかったようになってしまうのもダメだ、とも書かれています。

物語化はしばしば他人の理解をもたらすものとして称賛されるが、しばしば他人の安易なパターン化に堕落していく。理解できないことを無理に「理解しようとしない」勇気や、物語に還元できない断片的な声を「断片のまま」受容する想像力が、物語的不正義を抑止する新たな美徳となるだろう。(p.44)

 「情動的反応」というのも、ひとつの物語で一つの反応しかない、というのではなく、いろいろなことを感じる感受性がないとダメだなと思った。このあたりは、いろんな物語を多面的に読んで、いろいろな感想をもつことができるように、読む楽しさを教える学校の出番であってほしいな、とも思った。

先述の『侍女の物語』は、素晴らしくよくできた小説である。それが描く社会に対して怒りを抱くことは、読者として道徳的に適切である。しかし、その後に、私たちはその怒りがどう正しいのかを議論し、深め合わなくてはならない。小説をはじめとした表現媒体「だけ」では立ち行かない。批評や議論がなければどうしようもないのだ。
単に、人々をなるたけ多く惹きつけた情動が勝ち、ということでいいのか。そんな馬鹿な話はない。
私たちは、作品や表現に搔き立てられたあとで、その情動をどう使用することができるのか、現実の世界でその情動がどんな位置にあるべきかを論じ合わなければならない。(p.67)

 第一部「物語篇」のいちばん最後(「第1章 物語批判の哲学」の最後でもある)に書かれていた部分を長いですが紹介したいと思います。

本章で提起した「物語批判の視点」は、現実の物語に巻きこまれすぎる危険を可視化し、「自分はいま、何を物語として眺めているのか」「どこまでをフィクションとして楽しみ、どこからを現実の価値観や行動指針にするのか」という問いを忘れないための道具となるはずだ。
「推し活」をするときも、そこにどれほどの物語的装置が仕組まれているかに注意を払いつつ、それをあくまで一つの楽しみ・学びのきっかけとして位置づける。
要は、バランス感覚こそが、求められているのである。
物語が好きな人が、あるいは物語的な語りが得意な人が、物語をつくる。だとすれば、物語的語りを差し控えたり、それを批評したりするようなキャラクターは、物語にはあまり出現しなさそうだ。なにせ、そんなキャラクターが物語に出てきてもちょっと「メタすぎる」し、読者に冷水を浴びせるような失礼な存在になるだろうから。
だが、私たちが求めるのは、そして、称賛を抱くべきなのは、物語と距離を置くことができる英雄であり、聖人であり、賢者であるように思われるのだ。
物語はもちろん、私たち人類が愛好するとても楽しく豊かな芸術的産物だ。
だから私は、物語を語るのをやめよ、というつもりは毛頭ない。
ただ私は、物語を物語以外の用途で使うことをやめよ、と言いたいのだ。
物語が、何の社会的意義も見出されず、攻撃性も扇動力も持たず、ただひたすらに単なる物語として愛される社会。そんな社会こそ、私にとってのユートピアだ。
だが、そのユートピアといまの現実は程遠い。人びとは物語で他人や自分を理解し、そこにはまりこんだり、物語で情動を掻き立てられて、その情動に動かされたり、物語の中のキャラクターに影響を受け、それに憧れたりしている。
物語は現実世界において役に立ちすぎている。
私は、物語で世界を理解しようとする態度に強い警戒を抱く。(p.98-99)

 最後の「物語は現実世界において役に立ちすぎている」というところを読んで、物語で簡単に自分を語って物語に絡め取られるのでもなく、物語で簡単に他者を理解しようというのでもなく、物語と距離を適切に取らなくてはいけないな、と思いました。教室で子どもたちを見るときにも、僕の物語に付き合わせてはいけないな、とも思います。自分はそうなりがちなところもありそうです。気をつけます。

(為田)