ウェブメディア「日経BOOKプラス」で連載されていた記事「名門校の推薦図書」をもとにまとめられた『名門校の本棚 名門校の先生たちに聞いた、人生を支える一冊。』を読みました。
開成中学校・高等学校、豊島岡女子学園中学校・高等学校、国際基督教大学(ICU)高等学校、灘中学校・高等学校、フェリス女学院中学校・高等学校、広尾学園中学校・高等学校、渋谷教育学園幕張中学校・高等学校、聖光学院中学校高等学校の先生方がたくさんの本を紹介してくれています。
冒頭の「プロローグ 知の原生林」で、こないだ読んだ小説『宙わたる教室』の作者である伊与原新さんがたくさんの本を読むことの意味を書かれています。たくさんの本を読むことで、「知の原生林」を育てる、っていうのはすごく大事だな、と思います。本を好きな子を育てたいな、と思います。
小説に限らず、何か新しいものを創り出すために重要なのは、系統だったひと筋の知識ではなく、縦横に網のように広がった知識と関心だ。一見無関係に思われる事物が有機的に結びついたとき、そこにアイデアが生まれる。
それは、同じ木ばかりが整然と並ぶ植林地よりも、雑多な植物が生い茂る原生林のほうが複雑な生態系を育むことに似ている。種々の落ち葉や朽ち木を無数の虫や微生物が土に還し、豊かな養分を得て雑多な植物がまたそこに芽吹く。その循環の中にこそ、今まで見たことのないような芽が不意に顔を出すのだ。
そういう意味で、無駄な読書というものはおそらくない。人生に何が起きるか、世界がどう変わるか、そのとき何が必要になるかはわからないのだから、役に立つ本だけを選んで読むことなど原理的に不可能だ。
生えるものを選ばない原生林は強い。文字を追う時間を惜しまずに、気になった本を開いてみればいい。読んだ端から中身を忘れてしまっても構わない。知らぬ間に、森は育っている。(p.14)
開成中学校・高等学校の鎌田亨 先生は、古典に興味をもってもらう入り口は何でもいい、という話をしてくれています。
「原典に当たってこそ古典の授業だ」「小説化された作品なんて扱うな」という意見も、もちろんあります。
でもどうなんでしょうか。まったく読まないよりは何か読んだほうがいい。それが入り口やきっかけになるなら、どんどん触れたほうがいい。例えば海外のドラマや映画を字幕や吹き替えで見て、「ファン」を名乗るのは間違いでしょうか。また『のだめカンタービレ』を見て、クラシック音楽のキャッチ―で有名なサビの部分だけを聴き、「クラシック音楽大好き」と語ったらダメなんでしょうか。全然かまわないですよね。分かりやすいドラマがあり、そこで耳にしたサビをたどって、たぶん数パーセントの人はその曲を通しで聴くようになります。さらにその数パーセントの人は他の曲にも興味を持つでしょう。
もちろん『小説伊勢物語 業平』や『はなとゆめ』を読んで古典に興味を持ったからといって、自分で原典をひもといて全部読んでくれたりする生徒は、恐らくほとんどいないでしょう。でも、少なくとも、教科書に載っている一部分を抜粋したものに触れているだけでは、『伊勢物語』や『枕草子』は楽しめないということに気付いてもらえたんじゃないか。(p.35-36)
僕も、『のだめカンタービレ』でまんまとクラシック音楽を聴くようになりました。最近はNHKの「クラシックTV」も大好きです(こちらもMCの2人が好きで見始める、という不純な動機)。
灘中学校・高等学校の井上志音 先生は、「読み方」について書かれていました。これもものすごく賛成です。
唯一の正解に一直線で行きたがるのは、最近の生徒の特徴なのかもしれません。特に灘校は理数系がとても強い生徒が多い。唯一解にいち早くたどり着けることを周りからも評価してもらってきていて、数値化して競い合うことが大好きな生徒がそろっている。国語とはそもそも相いれない部分があるんですね。
「正しい読み」自体が多様なんだよ。正しさの角度を変えることで、必然的に複数の解釈が生まれてくる。だから、自由に考え、自由に述べていい。
ただ、自由な読みにもルールはあります。なぜそう思うのか、雰囲気や気分ではなく、根拠を示せ、理由付けせよ、と。これは強調します。どんな読みなら成立するのかは、こちらから教えるというより、仲間との議論を通じて、なんとなくルールの範囲というか、妥当な線をつかんでいく、そんな授業をつくりたいなといつも思っています。
だから、授業中の私は、ちょこっと考えるヒントや分析の視点を与えたり、言語化をサポートしたりするだけ。大部分は生徒が話をしています。
何より大切だと思うのは、教室という空間を何をどう考えても根拠さえ示せれば否定されない、安心で安全な場にすること。それさえ担保できれば、教室でみんなで読み合うことは楽しいはずなんです。(p.113-114)
「みんなで読み合うことは楽しい」ということこそ、学校の授業だからこそ伝えられることのように思います。
『枕草子』(清少納言著、佐々木和歌子訳/光文社)を薦めている広尾学園中学校・高等学校の岸田有司 先生の「教科書で取り上げられている場面」よりも読んで楽しめる場面はほかにもたくさんある、というのは「たしかにそうかも」と納得しながら読みました。
『枕草子』に限らず、教科書で取り上げられている場面は、学習上、大切ではあるものの、作品全体の中で本当に面白いところが採用されているかというと、必ずしもそうではありません。読んで楽しめる場面はほかにもたくさんあります。
ですので現代語訳を読んで、好きな場面を見つけたら、その部分だけでも原文をたどってみる、そんな流れができたらいいなと思っています。(p.191)
そして、岸田先生も鎌田先生と同じように、「入り口は何でもいい」とおっしゃるのでした。
歴史小説や現代語訳本を紹介しましたが、入り口は何でもいいと思います。アニメだって漫画だってゲームだってかまいません。
例えば漫画作品の原作としての古典に興味を持ち、そこで初めて原文に触れたとしたら、そこには必ず漫画作品を読んだときとは別の喜びがあるはず。先に目にしたものが何であっても、その後に触れる原文が色あせることは決してないと思っています。逆に、古典に触れておくと、古典を題材にした現代の作品をより深く理解し楽しむことができるようになります。古典の授業でしっかり学び始めた生徒は、遅かれ早かれこのことに気付くことになります。
入り口は何でもいい。どこから入ってもこの世界はすごく面白いんだよ、勉強するとその面白さはどんどん広がるんだよ、ということを伝え続けたいと思います。(p.193-194)
僕も本を読むスタートは、ゲーム「信長の野望 全国版」と「三国志」でした。そこから、横山光輝のマンガに行って、山岡荘八や司馬遼太郎へ進んでいったのでした。
本への入り口は何でもいいと思います。でも、何が入り口になるかはわからないから、そこが難しいですよね。「一緒に読み合うことが楽しい」と思える人がいる場があることは大事だな、と思いました。
登場する先生方が薦めてくださる本が面白そうだったのはもちろんですが、それぞれの学校の授業の様子や生徒たちの様子が語られていたのもとてもよかったな、と思える本でした。
(為田)



