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ひとり読書会:『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』

 朱喜哲さんの著書『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』を読みました。NHK「100分de名著」でローティの「偶然性・アイロニー・連帯」をはじめて朱さんの解説で知って以来、ずっとリチャード・ローティが気になっています。タイトルの「バラバラな世界で共に生きる」もとてもいいですが、3部構成のそれぞれのタイトル「Ⅰ バラバラな私たちを理解する」「Ⅱ バラバラな世界を直視する」「Ⅲ バラバラなまま共に生きる」もめちゃいいです。気になったところの読書メモを共有します。

はじめに――バラバラな世界で、バラバラなまま共に生きる

 最初に朱さんが書かれているとおり、いまは「分断」の時代だな、と思っているのです。この「分断」していてしんどい世界で、「バラバラなまま共に生きる」って本当に実現したいです。

現在の世界にも対立する「陣営」があり、そのあいだに大きな「分断」があります。しかもいま、この「分断」の線は、百年前のように国と国のあいだに明確に引かれているだけでなく、同じ国のなかで生きる市民たちのあいだにも、はっきりと引かれているようなのです。
いまや世界を覆うインフラとなったインターネットを介して、世界中の市民たちはつながっています。しかし、その交流の舞台であるグローバル企業が統治するソーシャルメディア上では、同じ言語圏のなかでも、いや同じだからこそ、まったく相容れないような陣営対立が見られ、なにを「事実」とみなすかという水準でさえ、まったく一致できなくなってしまっています。(p.3-4)

 この本で紹介されているリチャード・ローティは、20世紀後半から今世紀初頭にかけて活躍したアメリカ合衆国の哲学者です。「ことば」や「言語」をあつかう哲学である言語哲学(分析哲学)の専門家として世に出て、それから政治や社会も論じた人です。

「ことば」をあつかう哲学者が、なぜその専門性に基づきながら政治や社会について語ることができたのでしょうか。本書では、その問いをひとつの導きの糸としながら、私たち自身と私たちが営む社会を考えるためには、「ことばづかい」こそが決定的に大切なのだ、というローティ哲学の全容を見ていきます。
自分たちの「ことばづかい」に目を向けるという具体的な方針は、かつての秩序が失われ、分極化が進み、ますますバラバラになってしまった世界のなかで、それでも私たちがどう生きていくのかを考えるための手引きになるはずです。ローティの考えでは、「ことば」とその使い方について考えることは、政治について考えることであり、社会について考えることだからです。(p.8)

 最近、本当に「ことばづかい」とか「語彙」とか「ボキャブラリー」というキーワードが気になっています。

これからどんな混沌があらわになるのか、その先にまた新たな秩序があるとして、それはどんなものでありうるのか。現代を生きる私たちに予見することは困難です。しかし、確実に言えそうなのは、私たちはますますバラバラになり、ことばによる「理念」よりも、むき出しの「力」の存在感が高まる社会が、少なくとも当面は続いていくということでしょう。
(略)
客観性や必然性、そして真理といった絶対にたしかな〈正しさ〉がどこにもないとしても、私たちは〈正しさ〉それ自体を諦める必要はないのです。そして、どこにも「私たち」というつながりを基礎づけてくれる客観的な根拠がないとしても、「私たち」という単位を断念する必要はないのです。むしろ、そんな「絶対的な正しさ」や「客観的な根拠」は有害でさえあって、きっぱりと手を切るべきだとローティは述べるでしょう。
彼はそれを「客観性ではなく連帯を」というフレーズで表現しました。通常「客観性」と「連帯」は対比的に用いられる表現ではありません。しかしこれこそが、ローティが私たちを導こうとする「ことばづかい」の肝です。
(略)
私たちにできるのは、揺るがない共通の足場などもたない、バラバラで誤りうる私たちが、それでもどうにか共に生きていかなければいけない、という端的な事実に向き合うことです。そうやって、なんの根拠も保証もないけれど、相手のことばに自分をゆだねたり、時には手を携えたり、せめてお互いに降りかかる苦しみや痛みについて、それがとりのぞかれるよう願えること――それをローティは「連帯」と呼びました。
否応なくバラバラな世界で、バラバラなまま、しかし共に生きるために、どんなことばを使うべきなのか。本書を通じて、ローティとともに考えていければと思います。(p.10-12)

第1章 私たちは「ことばづかい」でつくられる

 朱さんは、ローティの思想をひとことで表現するならば、「哲学とは〈人類の会話〉が途絶えることのないよう守るための学問である」(p.22)と書いています。では、「哲学が〈人類の会話〉を守る」とはどういうことなのか。

では、「哲学が〈人類の会話〉を守る」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
ごく簡単に言うと、伝統的な哲学とは「真理を探究するもの」とされてきました。西洋哲学の伝統をたどれば、古代ギリシャのプラトン以来、哲学者たちは真理を追い求め、真理に到達することをめざしてきたのです。到達をめざすのが哲学だということは、言い換えれば、いつかは探究を終わらせることをめざすのが哲学の営みだということになります。そして探究が終われば、それ以上の議論や会話は不要になるでしょう。しかし、それでいいのかと問うたのがローティです。哲学の使命はむしろ、そうした議論や会話を終わらせようとする勢力に抵抗し、それらを批判的に吟味することで、会話がけっして途絶えないようにすることなのではないか。そうローティは考えました。(p.22-23)

 また、「会話」ということばについても、「議論」や「対話」との違いが書かれていました。

はじめに、この「会話(conversation)」ということばにローティがこだわるポイントを見ておきましょう。なぜ最初にここに着目するかというと、「会話」が「議論」や「対話」などと区別して用いられているからです。
議論や対話であれば、結論や合意形成といった「ゴール」がめざされます。その都度の暫定的なものでしかない場合も多いでしょうが、結論を出すため、相互理解を深めて納得するためといった「目的」が共有され、それに向けて共に進める言語的な営みが、議論や対話です。
それらとは異なり、「会話」には特定の共有された目的はありません。日常のなにげないおしゃべりを思い返してみてほしいのですが、そこに特段の目的はないはずです。あえて言えば話していることそれ自体が目的で、できれば避けられるべきは無視したり、急に大声を出したり、会話を拒絶したり、打ち切ることでしょう。そうした日常の会話の延長線上に、議題やアジェンダ、目標が設定され、それが共有された「議論」や「会議」といった特殊なモードがあります。
しかし、そうした共通の目標を掲げ、そこに向けて邁進するために特定の理路整然としたことばづかいが求められるシチュエーションこそが正しいもので、雑談のような会話はそれより劣ったものであり、ことばを怠惰に、あるいは不正確に作っていることになるのでしょうか。ローティが強く否定したいのはこうした見解です。ことばづかいに絶対的な優劣はないし、理路整然としていたり流暢であることは唯一無二の価値ではありません。ですから、あらゆるコミュニケーションを含みうる「会話」という概念を大切にするのです。(p.23-24)

 真理を探究して、会話を終わらせるのを目指す哲学ではなく、哲学を「言葉」を使ってずっと考え続けていくためのものとする、ということかなと思います。こういう姿勢は哲学だけでなく、いろいろなところでも役立つのではないかと思います。すぐに答えを出してOKにしたいわけじゃなく、ずっと会話をしていく感じ。

『哲学と自然の鏡』を通してローティが提唱したのは「歴史主義」だということができます。歴史主義とは、世界には永遠不変の真理や究極の本質などというものはなく、それはそのときどきのことばによってつくられる(歴史のなかで変わりうる)ものだとする主張です。歴史のなかで変わりうるということは、それは普遍の真理によって基礎づけられた「必然」ではないということです。ここに、ローティ哲学において重要なコンセプトである「偶然性」が現れてきます。(p.41)

哲学者たちはことばづかいに序列を付けようとする。そのための「尺度」を求めます。しかしじっさいの私たちは、より本当らしいものに近づくためにことばを使っているわけではなく、むしろことばを使うことによって自己を創造しているのだとローティは述べています。ことばというものは、単に特定の目的のために使いこなされる道具であるというよりは、それを使うことによって目的自体を設定し、使い手の在り方を表現し、乗っていると思ったら乗っ取られてしまう、そんなきわめて特殊な「道具」です。そして、それこそがことばの力だとローティは考えているのです。(p.45)

 こういうふうに「ことば」を道具として使うための教育を学校でできているだろうか、初等教育・中等教育で何ができるだろうか、と考えながら読みました。

第2章 黙らせることをめざさない

 もうひとつ、ローティの哲学ですごくおもしろいと思ったのは、「バザールとクラブ」の比喩です。「バザールとクラブ」の比喩は、「公共的なものと私的なものは統一すべきでないが、しかし統一すべきでないものとして一人の人間のなかに同時に存在しうる」ことの理由(p.64)を示しているものです。

生活のために「バザール」で生きていかざるをえない私たちにとって、一日を終えて退避できるような「クラブ」もまた必要なのだ。(p.66)

  • バザール
    • 公共空間としての「しんどさ」があるけど、安全。
    • 言いたいことが言えなかったり、作り笑いをしたり、いろいろしんどいことがある。しかし、そのしんどさをこらえているから、安全が保たれている。
  • クラブ
    • 私的空間としての「危うさ」がある。
    • バザールでのしんどさのガス抜きになっている。言いたいことが言える魅力。
    • 場合によっては、差別的な言動や、公共空間ではとても言えないようなことばづかいもできる。魅力的だけど危うい。

私たちには、生活のためのバザールも、それぞれにとって安心できるクラブもどちらも必要だ。しかも、それは別々に分かれていなければならない。これを一枚の絵に描くとするなら、ただひとつの公共空間であるバザールのまわりを、無数の私的空間としての会員制クラブがとりまいている、そのようなものになるでしょう。バザールとクラブは空間的に分かれてはいるものの、地続きで隣接している。そんな位置関係です。(p.68)

 さらに、バザールとクラブが「空間的に分かれている」ということだけでなくて、バザールとクラブが一人の人間のなかにあるのだ、というふうに書かれています。

ローティのこの比喩の眼目は、じつは空間が分かれているという点にあるのではありません。むしろ、一人の人間のなかには「正しい建前」と「正しくないかもしれない本音」がある。それらは直接的には矛盾するケースがあるけれど、それでもその人のなかで併存していてもいいのだ、というのが最大のポイントです。
ローティは、時と場所によって人はそれを使い分けてもよい、むしろ使い分けたほうがいいのだ、と主張しています。どちらかに統合しようとするから、無理が生じてしまう。(略)
そう考えると、一人の人間がどちらかになりきることが本当に望ましいのか、という問いが浮上します。公共空間の安全が大事だからといって、人々に心の底から正しいことばしか使わないことを求める社会を、われわれは本当に望むべきなのか。
たとえば、公の立場にある人が問題発言をしたとき、問題とすべきはその人の心持ちや本音なのか、それとも、公の場でそんな発言をしたという点なのか。ローティによれば、問題とすべきはあくまで後者です。逆に言えば、個人がどんな本音をもっていたとしても、それが公共空間で暴力的に開陳されたり、行動に移されたりしないかぎりは、少なくとも政治的問題にはならない。それがローティの、公共的な正しいことばと私的な正しくないかもしれないことばは、一人の人間のなかで両立していてもいい、という提言であり、バザールとクラブの比喩の肝なのです。これは、公私を等しく裁定できる基準は存在しないという、ローティ哲学から導きだされる提言です。(p.70-72)

 この感覚も、学校で子どもたちと共有したいと思います。SNSでのコミュニケーションの下敷きとして知っていてほしい…。

現代の私たちは、あらゆる場所がパブリックな空間として判断される傾向が強い社会に生きています。言語活動のほとんどがインターネット上で行われる現在においては、個人的なやりとりも常に暴露される可能性をはらんでいる。「ここは私たちの会話が絶対に外に出ない安心できるプライベート空間だ」と言える言説空間自体、ほとんどない状況だと言えます。仲間うちのクラブ空間のつもりで発言や行動したことが、いつでも公共的なバザールにおける〈正しさ〉の観点からジャッジされうる。多くの「炎上」は、この点から生じています。
またインターネット上においては、私たちのなかに往々にしてある、「公共的な」空間で活躍したい、承認を得たいという欲望も暴走しがちです。ソーシャルメディア上に、表面的な匿名性を盾にとりながら「私の意見は公共的に正しい」という信念や熱量を携えた発言が飛び交っているのは、私たちが常日頃から目にしていることでしょう。
こうした状況を考えると、現代のわれわれが考えるべきなのは、むしろ私的な空間やボキャブラリーをどう確保していくか、ということかもしれません。(p.73-74)

第4章 「われわれ」は拡張できる

 最後に、はっとさせられた部分を紹介したいと思います。アイデンティティに訴える論法について書かれていたところです。僕もアイデンティティに訴えた言葉を使うこともあるし、逆にアイデンティティに訴える言葉を使われる(というか投げつけられる)こともあります。なんか、その論法は相手を「黙らせる」ものなのだ、ということにグサリときました。

ローティによれば、誰もが当事者であるはずの政治という場面において、アイデンティティに訴える論法はある意味で相手を「黙らせる」ものです。「俺のつらさはお前にはわからないだろう」といったことが言えてしまう。ローティは、この論法自体がもつある種の危うさこそが問題だと言っていたわけです。
ただ、ここは大いに注意が必要で、議論をていねいに見なければならない部分です。マイノリティにとって、自身のアイデンティティを根拠に「ここにこういうニーズを抱えて困っている当事者がいる」と表明することは、ほとんど唯一可能な政治的手段です。なぜなら、マイノリティはそもそも存在しないものとされ、政治的意思決定のプロセスにおいてまったく顧慮されない存在になってしまっている。だからこそ「私はここにいる」と言う必要がある。その点はもちろんローティも見失ってはいません。アイデンティティに訴える論法を使う者がみな悪いと言っているわけでは必ずしもなく、マイノリティにとってはその論法を使わざるをえない局面があることはローティもわかっています。
ただし、この論法そのものがもっている「会話を止める」という機能には注意しなければならないと彼は考えたのです。「お前にはわからない」という、ある意味で反駁不可能な主張をすることで、相手は二の句が継げなくなってしまう。その構造的な問題点にローティは着目しました。これは必ずしも発話者が悪いわけではなく、そうした叫びをあげるほかはない状況に追い込んでしまう、議論や会話の主導権を握っているはずの多数派にこそ問題がある。指摘の主眼はそこにあります。(p.132-133)

 すごく考えさせられる文章でした。僕も「会話を止める」言葉を投げつけていることがあるのだろうな、と思います。

まとめ(というか、感想)

 本当におもしろく読めました。「100分de名著」の復習にもなりましたし、あまりわかっていなかったところを補強もできた気がしますし、「そういうことなのか…」と思ったところもありました。
 バザールとクラブについては、子どもたちに本当に伝えたい。何を考えるのも自由だけど、それをどこでも言ってもいいわけじゃないんだ、ということを伝えたい。これを、「こういうふうに考えなきゃだめだ」という伝わり方じゃないように伝えたい。そんなことを思いました。

 読み始めてから読書メモをまとめるまでものすごく時間がかかっていますが、その間、たくさんの先生方に「この本、知ってますか?」「読んでください」とお薦めしまくっていました。読んだ先生方と、いまの学校での子どもたちの様子と重ね合わせた読後感想戦をしたいです。

(為田)