教育ICTリサーチ ブログ

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ひとり読書会:『テクノロジーって何だろう? 〈未完了相〉で出会い直すための手引き』

 小林茂さんの『テクノロジーって何だろう? 〈未完了相〉で出会い直すための手引き』を読みました。難しいところも多くて、全体を理解できたとはとても言えないのですが、はっとしたキーワードを読書メモとして共有したいと思います。

技術哲学における道具説

 技術哲学における道具説には、技術決定論と社会決定論という2つの異なる立場がある、というのが書かれていたところをまとめました(p.17-18)。

技術哲学における道具説には、2つの大きく異なる立場がある:

  • 技術決定論(technological determinism)
    • 技術が社会のあり方を決定すると考える。
    • 馬具のあぶみが可能にした馬上刺突戦のような新戦法によって新たな戦士集団が必要になり、その集団に見合う貴族階級の社会と文化が生まれ、ヨーロッパ中世の社会を形成するようになった(歴史学者 リン・ホワイト)
    • スペイン北東部の小さな村に上水道が引かれて、井戸から水を運ぶ必要がなくなった結果、人々の社会関係や生活の仕方が一変してしまった(作家・研究者・活動家 リチャード・スクローヴ)
  • 社会決定論(social determinism)
    • 社会が技術のあり方を決定すると考える。
    • 日本にもたらされた鉄砲は100年間にわたって広く用いられたが、江戸幕府に制限された結果大きく衰退した(随筆家・文学者 ノエル・ペリン)

技術決定論も社会決定論も、どちらも一方が他方を決定するという構造は共通している。

 この目線で、ワードプロセッシングやスプレッドシートのテクノロジー、インターネットやSNSなどのプラットフォーム、生成AIなどを考えてみるとおもしろそうだと思いました。技術決定論と社会決定論、どっちかだけで全部のテクノロジーを考えられるわけじゃないと思っていますけど、この2つの見方を知っておくとおもしろいと思います。

「エイブリズム」と「テクノエイブリズム」

 「エイブリズム(ableism)」という言葉が本のなかで出てきたのですが、自分はこの考えを持っている気がするな、とすごく思いました。

エイブリズムとは、社会が「正常性」や「生産性」を基準に人々の価値を決めつけ、その基準から外れる人々を劣った存在として扱う差別的なシステムと、それを支える考え方のことです。
エイブリズムは、社会をインクルーシブなものにしようという議論において特に注意深く考えなければならない観点です。なぜなら、障害のある/なしにかかわらず、私たちの多くがこの価値観を内面化してしまっており、意識的に問い直さない限り気付くことが難しいからです。たとえば、「障害のある人々(people with disabilities)が抱える問題を解決して社会に適合できるようにするために支援する」というアプローチは、デザインや工学における一般的な考え方として受け入れられています。このアプローチ自体に、既存の社会構造を変えることなく、障害のある人々が一方的に適応することが前提化されてしまっていることに気付けたでしょうか?
こうした論調は、社会をインクルーシブなものにするための手段としてテクノロジーを導入しようとするときにさらに強化されます。たとえば「これまでの社会は、マイノリティを包摂したくても経済的に合理的な範囲において実現する手段がなかった。だが、AIなどのテクノロジーが利用できる現在であれば違う。これら高度で先端的なテクノロジーを利用することによって、マイノリティとマジョリティの間のギャップを埋めて最適化し、私たちの社会をインクルーシブなものにできるのだ」のように。テクノロジーによって私たちの社会が明るいものになるという、いっけん正当なものであるかのように思えるこのような論調は、エイブリズムという概念を知った後で再考すると大いに問題を含んだものであることがわかるでしょう。(p.105-106)

 最後にある、「テクノロジーを利用することによって、マイノリティとマジョリティの間のギャップを埋めて最適化し、私たちの社会をインクルーシブなものにできるのだ」という言葉は、社会というほど大きな範囲ではないにしろ、学校や教室のなかという範囲だったら、僕がいかにも言ってそうだ、と自分で思ってしまいました。
 気になって、「エイブリズム」についてもいろいろ調べてみました。ご参考に。

ideasforgood.jp

 さらに、エイブリズムのなかでも「テクノエイブリズム」という概念が、アシュリー・シュー(障害学とテクノロジー倫理の研究者)とジョシュア・アール(優生学史研究者)の言葉で紹介されていました。

〈テクノエイブリズム〉という概念は、テクノロジーが障害者を「救済」して社会に適合させるという一般的な考え方の問題点を明らかにします。また二人は、ポスト現象学における「人間/テクノロジー→世界」という図式表現についても鋭く批判しました。テクノロジーは「人間と何かの間に位置するもの」ではなく、〈サイボーグ〉という存在を構成する要素そのものであり、その境界線は図式が示すほど明確ではないというのです。(p.117-118)

 テクノエイブリズムという言葉を知ったからこそ、気づけることがあるかもしれません。すぐには変われないかもしれないけれど、エイブリズムの視点をもちながら「デジタル化」を考えたいと思います。

テクノロジーと出会い直し、編み直すための設計

 本の終盤で、テクノロジーを設計者の意図と違う形で使うことで新たな創造がされる、ということが書かれていました。そこにあった、「テクノロジーと出会い直し、編み直すための設計論」というのが、学校でのICT活用やプログラミング教育にも援用できそうな内容だったので、メモしました。

〈未完了相〉を開き、テクノロジーと出会い直し、編み直すための設計論を、「心がけ」としてまとめてみたいと思います。なお、ひとまず設計者の視点で書いていますので、適宜読み替えてください。(p.214-215)

  • 余白を残そう:テクノロジーの意味は設計者だけで決められるものではない。そのテクノロジーに想定した範囲でできるだけ使いやすくし、可能性を伝えるためのデモンストレーションとして〈プリセット〉を提供することは大切だし有効だが、〈パラメーター〉の可変範囲には十分に余白を持たせよう。たとえそれによって設計者から見たときにいっけん破綻してしまうように見えたとしても、破綻しているかどうかを決めるのは設計者ではないのだから。
  • 遊びから始めることを促そう:設計者の意図は、送信機から受信機へのメッセージのように送信者から受信者に伝わるわけではない。いっけんふざけているとしかみえないようなところから始め、遊んでいるうちに設計者が想像もしなかったような意味が創発される可能性を制限しないようにしよう。
  • 決定論的な物語をつくらない:あるテクノロジーの意味を固定し、そのテクノロジーによってもたらされる変化が不可避なものであるかのように物語るのをやめよう。この世界は展開されつつあるのであって展開され尽くしてはいないのだから、いつだってそこに介入して新しいことを起こすことができるはずだ。
  • 一緒に実験することから始めよう:障害のある人の世界がどのようなものであるかを、障害のない人が想像してどうすれば支援できるかを考え、「解決策」ができてからそれが有効であるかどうかを検証するのでなく、「エビデンス」などまったくない状況から一緒に実験することから始めよう。ここでの実験とは、誰かが誰かを対象として実験するという非対称的な関係性とはまったく異なる。そうではなく、フラットな関係において全員で一緒に実験することを意味する(ただしそこには緊張関係が伴う)。

まとめ

 技術哲学における道具説、テクノエイブリズム、テクノロジーとの出会い直し、という3つのポイントで読書メモをまとめてみました。
 この本の題名そのままですが、僕は「テクノロジーって何だろう?」と考えながら、学校でテクノロジーを使う場面を作っていきたいと思っているので、とても勉強になりました。

(為田)