教育ICTリサーチ ブログ

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考えるヒントになりそう:DISTANCE.media「そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか」

 先週書いた「ひとり読書会:『テクノロジーって何だろう? 〈未完了相〉で出会い直すための手引き』」のコメント欄に、kotobukiさんから「エイブリズム/テクノエイブリズムについては、アシュリー・シューさんへのインタビュー記事を読んでいただけると理解が深まるかもしれません」とコメントをいただきました。教えていただいたリンクは、メールマガジンを購読しているDISTANCE.mediaで掲載されているインタビュー記事でした。アシュリー・シューさんの名前も、小林茂さんの名前も、見過ごしてしまっていました。

 全3回のアシュリー・シューさんのインタビュー記事を以下にリンクします。「テクノエイブリズム」について知ることができるインタビューでした。

distance.media

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 個人的に心に残ったのは、#1のなかにあったアシュリー・シューさんの言葉です。

私はまた、社会の側が「障害」が現れる空間を作り出している、ということも考えています。たとえば現在、日本やアメリカでは、ほとんどの人が人生のどこかで読み書きを学びます。だからこそ、ディスレクシア(失読症)のようなものが見つかるわけです。でも数百年前、多くの人がそもそも読み書きを教わらなかった時代には、「この人はディスレクシアだ」と判明すること自体がなかったでしょう。情報処理の仕方に違いがあったとしても、それは障害というカテゴリーには入らなかったはずです。読み書きが一般化する以前なら、そうした人たちは「他と違う存在」として認識されることすらなかった。では、誰が数えられ、誰が数えられないのか。そこにはどんなヒエラルキーがあるのか。ディスレクシアと診断されると、「特別な支援が必要な人」と見なされ、不利な立場に置かれます。でもそれは、社会が読み書き能力を非常に重視しているからです。何か生物学的に本質的な欠陥があるからではありません。

そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #1

 それから、#2の見出しにあった「障害そのものをなくすテクノロジーと、生活の質を上げてくれるテクノロジー」という言葉も、いまちょうど取り組んでいるプロジェクトのメンバーと共有したい表現だな、と思いました。

(為田)