教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

授業で使えるかも:ニュース映像タイムライン 戦争証言アーカイブスと「記憶の解凍」プロジェクト

 NHKニュース映像タイムライン 戦争証言アーカイブスをときどき見ています。タイムラインにそっていろいろな映像が見られるのですが、青が「戦況」、赤が「国民生活」です。
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 こうして記録がすぐに見られることはとても大切なことだと思っています。当時どうやって報道されていたのか、いま振り返って日本ではどのように伝えられているのか、海外ではどのように伝えられているのか、そうしたことと組み合わせて歴史について考えることができるように、こうしたアーカイブがあることが大事だと思います。
www.nhk.or.jp

 先日読んだ、福間良明さんの『戦後日本、記憶の力学 「継承という断絶」と無難さの政治学』のなかでは、さらにそこから戦争の「体験」と「記憶」について書かれていました。

住民の戦争体験ではないものが、「自らの記憶」へと置き換えられるようになったのは、やはり知覧に特徴的なことであった。沖縄での地上戦や広島の被爆であれば、現地住民が広く体験したことではあったが、特攻出撃したのは、記述のように、決して知覧住民ではなく、全国各地から集められた陸軍パイロットたちであった。知覧が「特攻」に傾斜していくことは、明らかに「他者の体験」を「自己の記憶」へと置き換えていくことにほかならなかった。(p.212)

 一方で、戦争の記憶や戦争体験の継承については、東京大学大学院情報学環・学際情報学府の渡邊英徳 先生が取り組まれている「記憶の解凍」のプロジェクトのことも思い出させてくれます。
 「記憶の解凍」プロジェクトでは、ニューラルネットワーク人工知能技術)により白黒写真の自動色づけをしています。写真に色づけがされることで、記憶を呼び起こす方もいるそうです。テクノロジーで写真に色づけをしながらも、そこに人が介在して記憶を解凍していき、継承していくことをしています。
blog.ict-in-education.jp

 こうした戦争の記録・記憶・体験の継承において、テクノロジーがどんな役割を果たせるのかということを考えるいい機会になるように思いました。

(為田)

湘南学園中学校高等学校 訪問レポート No.1(2020年10月28日)

 2020年10月28日に、湘南学園中学校高等学校を訪問しました。情報科・入試広報主任の小林勇輔 先生と、国語科・ICT主任の山田美奈都 先生に校内を案内していただきました。

 湘南学園中学校高等学校では、生徒たちが自分で情報端末を選ぶことができる一人1台のBYOD環境を実現しています。学校から「これを使って」とコンピュータを渡されるのではなく、自由に自分のコンピュータを選ぶことができます。現状、生徒が選んでいる情報端末としては、iPadが70%くらいで、その後にSurfaceMacbookが続く、という感じだそうです。授業の様子を参観させていただくと、一人ひとりが、自分の使いたいように情報端末を使っている様子が見られました。
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 湘南学園中学校高等学校で、今のBYODの形になったのは2019年度からですが、その1年前に湘南学園中学校高等学校は、学校が指定する形で生徒一人1台のiPadを導入しています。そのときは、学校が選んだアプリしか使えず、閲覧制限も厳しく設定したiPadを渡していたそうです。当時をふりかえって、山田先生と小林先生は「生徒たちが使ってくれなかった。使いたいと思えないような“ガチガチiPad”だった」と言います。
 このガチガチの管理体制を1年でキャンセルし、今の自分の選んだ情報端末を持ってくるBYOD環境に変わることで、自分のコンピュータを自分で管理することになります。「壊れました」「挙動がおかしい」「どうしたらいいかわからない」というのは、学校に丸投げになるのではなく、学校のサポートを受けつつ自分で解決することになります。
 学校でICT窓口も用意しているそうですが、技術的なサポートは、初期こそ少し来たものの、2年目に入った今はぐっと数が減っているようです。生徒同士で解決することも増えてきているそうです。

 “ガチガチiPad”体制から、自分で情報端末を選ぶBYODへの体制変更にあたっては、学内でも不安に思われる声もあったそうですが、いまは「結果的にBYODでよかった」というのが学内の評価だそうです。
 山田先生は、「ICTを文房具として使ってほしい」と言います。いくつかの授業を参観すると、授業のなかでどう使うかは、先生方によってそれぞれです。すべての授業がICTを使ってデジタルで教えられているわけではなく、デジタルとアナログ(ICTと教科書やノート)を組み合わせて使っているように思いました。
 「文房具として使う」というのは、まさにそういう使い方だと思います。「どういう使い方が便利なのか」「どういう使い方が学びやすいのか」ということを、先生方も生徒たちも考えて選んでいるようになるといいと思いました。

 先生が配るプリントを、クラウドにある資料を見ながら解いている生徒がいます。先生の作ったプリントだけでなく、自分でメモを書き加えることもできますし、自分で書いたノートを撮影してクラウドに保存しておくということもできます。文房具として自由に使うということは、こうして学び方を自分にあった形にどんどん変えていけるということだと思います(大人も同じように、デジタルとアナログを組み合わせて仕事をしている人はたくさんいます)。
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 問題を解いたり、板書をノートに写すときに、わからないところがあれば、自分の端末でどんどん検索していきます。
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 湘南学園中学校高等学校での情報端末の条件として、「G Suiteを使える」ということが条件になっているので、Googleクラスルームで小テストを出しているクラスも多くありました。
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 先生方のICTの活用の仕方も、教科によってさまざまでした。ロイロノート・スクールなどの授業支援ツールを使って問題や解説を共有しながら、ホワイトボードで説明している先生もいます。
 Apple Pencil対応のiPadを使いたいなど、担当している教科の特性に応じて、先生方も、学校から貸与されるコンピュータから、自分の端末を持つ先生が増えてきたそうです。生徒たちのBYODだけでなく、学校・先生の方も、「自分にあった端末」を使っていくように変わってきているそうです。
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 No.2へ続きます。

(為田)

授業で使えるかも:PowerPointの「図形の結合」機能

 Twitterのタイムラインで流れてきて知った、PowerPointの「図形の統合」機能。図形を組み合わせるのはグループ化くらいしかしたことがなかったですが、図形と図形を統合することができるそうです。

 さっそくやってみました。とりあえず、長方形と円と三角形を作ってみて、重ねてみました。全部を選択して、「図形の書式」のタブを開くと、「図形の結合」のボタンがあります。なるほど、ここでやるのか。選べるのは、「接合」「型抜き/合成」「切り出し」「重なり抽出」「単純型抜き」の5つでした。見るだけだと、どれがどう違うのかがわかりにくいですね。
 「接合」をすると選んだ図形が全部くっついてひとつの図形になります。おもしろい。小学校の授業で図形を組み合わせて遊びつつ、クリックやドラッグの練習をする時間を作っていますが、これで切り絵や影絵みたいなものを作ることもできるようになりそうです。
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 そのほかにも、「型抜き/合成」とかはなかなか紙で図形を組み合わせたりして実践するのが大変そうなので、形作りとうまく組み合わせるとおもしろそうだと思いました。
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 5つめの「単純型抜き」も、なかなか難しいです。型抜きをした後の図形を子どもたちに見せて、「同じ形を作ってみよう!」という課題とかしてもおもしろそうです。
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 上手に組み合わせて同じ形を作るパズルゲームでありながら、形に親しむこともできるし、お互いに問題を出し合ったりすることもできそうだと思いました。ちょっと試してみようかな、と思いました。

(為田)

横浜市立鴨居中学校 訪問レポート まとめ(2020年10月14日)

 2020年10月14日に横浜市立鴨居中学校を訪問し、今月から活動を開始した生徒ICTサポーターの活動を参観させていただきました。生徒ICTサポーターの活動内容のレポートと共に、一人1台の情報端末を配備していく鴨居中学校の取り組みについて、校長室で齋藤浩司 校長先生にお話を伺いました。
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(為田)

授業で使えるかも:『アフターソーシャルメディア 多すぎる情報といかに付き合うか』

 法政大学大学院 メディア環境設計研究所『アフターソーシャルメディア 多すぎる情報といかに付き合うか』を読みました。さまざまな調査を組み合わせて、スマートフォンソーシャルメディアなど新しいテクノロジーによって、「情報が多すぎる」状態について考えさせられました。関心があるところをメモしましたので公開します。

 まず、NHK放送文化研究所が行った 2018年「情報とメディア利用」世論調査から、「今の社会は情報が多すぎると思いますか?」という質問です。

「今の社会は情報が多すぎると思う」との質問に対して、16~69歳の全体で84%が「あてはまる」「まああてはまる」と回答し、すべての年層で8割以上でした(p.17)

 みんな「情報が多すぎる」と思っているのですね。NHK放送文化研究所のサイトで、この調査報告のPDFを見てみましたが、高校生世代である16歳から19歳でも80%は「情報を多すぎる」と思っていました。どんな情報を見て「多すぎる」と思うのだろう、流れてくるタイムラインとかだろうか…と考えてしまいました。

 多すぎる情報を全部見ているわけでも当然なく、逆に多すぎる情報から自分にとっていい情報しか得なくなる、という問題も指摘されています。これは、テクノロジーによって履歴からレコメンドされる情報は自分の価値観にあう情報になるし、自分と近い考え方のニュースやユーザーばかりフォローしていく、ということからも、ソーシャルメディアではしかたないかと思いますが、それをどのくらい意識的に使うか、は大きな問題だと思います。

取材した都内の大学3年生(男性)は、「タイムラインの中が自分にとっての“世間”」「タイムラインに載らないものは自分にとっては存在しないのと同じ」だと語っていました。その学生は、ネット上の情報やアプリの通知があまりに多すぎて、自分が信頼できる、または同じような趣味嗜好を持っていると判断した人やブランドのアカウントだけをフォローすることで、あらかじめ情報を選別しているのだそうです。(p.60-61)

 情報接触スタイルについては、意識的であることが求められると思います。こうした情報への接し方なども、どうやって教えていくか考えなければならないな、と思います。

「ニュースは能動的な接触から受動的接触へ」という新たな情報接触スタイルがみられました。また、関心の幅が狭く、政治・経済・社会の動きを伝える情報への関心度が低く、配信元を確認しない、などの態度から、「メディア・リテラシーが乏しいのではないか」と感じてしまう人もいるでしょう。しかしながら、今はテレビや新聞でなければ情報が得られない時代ではなく、24時間365日肌身離さず持っているスマートフォンから絶え間なく情報が届けられるメディア環境にいます。そうした環境では、能動的接触は非常に困難です。メディア環境が変われば、消費やマーケティングの方法も変わるように、メディア・リテラシーも変わっていくでしょう。すでにその片鱗は見えてきています。ここでは、受動・能動は、良い・悪いといった問題ではないとしておきます。大切なのは「ズレ」の存在です。(p.68)

 いろいろな観点からソーシャルメディアスマートフォンと情報について考えられる本でした。ここからさまざまな調査などにあたっていくのもいいな、と思いました。授業で高校生たちと一緒にトピックとして「多すぎる情報といかに付き合うか」を取り上げて、ディスカッションしてみたいと思いました。

(為田)

『デジタル社会の学びのかたち Ver.2』 ひとり読書会 No.10「10章 テクノロジ世界のなかで教育を再考する」

 A・コリンズ、R・ハルバーソン『デジタル社会の学びのかたち Ver.2 教育とテクノロジの新たな関係』をじっくり読んで、Twitterハッシュタグ#デジタル社会の学びのかたち」を使って、ひとり読書会を実施したのをまとめておこうと思います。

 いよいよ最終章となる、「10章 テクノロジ世界のなかで教育を再考する」を読みました。なんだか詩的な章タイトルです。新しい教育システムに向けたビジョンの幕はまだ開いたばかりで、新しい教育システムを実現するためには、リーダーがリソースを投入する必要がある、という言葉から章は始まります。


本書を通して私たちが主張してきた教育の再考とは、社会のすべての人々が、新しい教育リソースにアクセスできるようにする戦略を目指すべきだということです。そして、人々にリソースを活用するモチベーションを与えるのです。社会、教育、学習を分けて考えるのではなく、それらの相互の影響を考えることが、教育の再考には求められています。(p.156)

 「社会、教育、学習を分けて考えるのではなく、それらの相互の影響を考える」という部分には大賛成です。学習と社会の相互の影響は、もっともっと考えられるべきだと思っています。松岡亮二先生の『教育格差』とかとも僕の中では繋がってくる話です。
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 教育の再考は、全部で7つの分野にわたって詳しく紹介されます。それぞれの部分について、メモをまとめてみました。事例などもたくさん触れられている箇所なので、本を読んで見るとより深く学べると思います。

  1. 学ぶことの再考
    • 「学習とは、学校が提供する科目を履修することだという考えとともに、私たちは育ってきました。本書を通して主張してきたように、学校に行くことが教育だという見方は、新しいテクノロジが学習を学校の壁の外にもち出すことで、ゆっくりと見直されてきています。」(p.156)
    • 「学校をどのように改善できますか?」ではなく、「どうしたら学習者が自分で学びの道程をつくることを支援できますか?」「どうしたらより多くの人たちに、新しいテクノロジ・リソースを提供できますか?」「どのようなツールが、人々が自力で情報を探し出す活動を支援できますか?」と問う必要がある。(p.156-157)
    • 「学習が学校の外に移ることで、私たちの学習に対する概念が広がり始めます。教室と教室外の場所とを行き来するハイブリッドな学習経験を目にすることができるでしょう。」(p.157)
    • 「もし学校が、学習テクノロジの進歩と歩調を合わせて十分に変化することができなければ、学習は学校を置き去りにするでしょう。」(p.159)
  2. モチベーションの再考
    • 「現在の学校制度は、生徒の学ぶことに対する内発的なモチベーションを引き出すことに役立っていません。多くの生徒が経験しているこの(学びからの)逃避は、理想以下の教室体験によってつくられています。」(p.159)
    • 「学びつづける世代になるために学習者は、自分の学びを今まで以上にコントロールする必要があります。学習者のコントロールは、子どもたちが自分自身の学びをサポートするツールを手にすることによって育成されます。」(p.160)
  3. 学ぶべきことの再考
    • 「学ぶことに対する内発的なモチベーションを提供することは、(略)科目を修了した際の報酬についても再考することになります。学校が提供するプログラムと、知識経済において成功する人生を送るために必要なスキルの間にはミスマッチが起こっています。」(p.161)
    • 「社会が取り組まなければならない課題は、豊富なテクノロジリソースがある時代を生徒たちが生きる準備をするうえで、最高のカリキュラムであるかどうかを問うことです。」(p.162)
    • 例えば数学:「テクノロジは、生徒が学校でかなりの時間をかけて学ぶアルゴリズムのすべてを取り扱うことができます。それ以上に、数学的に考えることを学ぶのは、かつてなく重要です。それゆえ、コンピュータのアルゴリズムを真似る方法を学ぶことよりもむしろ、現実の問題を解決するために数学的ツールを活用する方法を学ぶことに生徒の時間を費やすべきでしょう。実際、コンピュータ・ツールを適切に使用する方法を理解することは、アルゴリズムを実行することよりも、非常に多くの思考を必要とします。これは数学を教える上での新しい課題です。」(p.163)
    • 「スキルとして重要なのは、もはや暗記することではありません。ほしい情報をウェブ上で見つける方法を知ることです。信頼性の異なるウェブサイトのなかから、見つけた情報を評価する方法も含まれるでしょう。すなわち、人々は、より多くの情報を入手することよりも、新しい学習スキルを伸ばす必要があるのです。」(p.164)
  4. キャリアの再考
    • 「キャリアの流動性は、生徒がより適応力を身につけるよう教育機関に求めています。」(p.164)
  5. 学びと仕事の間での移行の再考
  6. 教育のリーダーシップの再考
    • 「次世代の教育リーダーは、政治的課題とともにテクノロジに関する問題と向き合う必要があるでしょう。」(p.170)
    • 「すべての生徒と家庭にコンピュータとオンラインアクセスを提供する政策の推進は、ひとつの可能性です。非エリート層が膨大な教育リソースへアクセスできるようになります。」(p.170)
    • 「これまでの事例が示しているのは、学校を内部から変えることと、学習者が学校外のリソースといかにつながれるかを、教育リーダーが考える必要があるということです。」(p.172)
  7. 教育における政府の役割の再考

 そのうえで、どんな将来のビジョンを持っていなければならないのか、というのが最後に書かれています。

平等性と経済発展の両面に対応できる教育を実現するために、リーダーたちは伝統的な取り組みを発展させ、新しい情報テクノロジの力を取り入れるようになる必要があると私たちは考えています。そのために学校は、学習プロセスをコントロールすることをある程度あきらめることになるでしょう。その代わりに、学びを改善する最新のツールを、もう一度公的な制度が手に入れることになるのです。(略)
保護者や市民は、教育改革という広い視点から、この変化を後押しすることから始める必要があります。(p.176)

 「デジタル社会の学びのかたち」とは、どういうものになっていくのかを考えるきっかけになる本だと思いました。実現のためには、リーダーが必要というのもそうだと思いますが、僕らにもできることはあると思います。
 僕は、保護者には学校を応援してほしいです。リーダーシップある校長先生や能力の高い先生がいらっしゃる学校でなくても、校長先生はじめ先生方の背中を保護者が押してくれれば、変われる学校もたくさんあると僕は信じています。そうした「変え方」もあると思っています。学校が全員にとって素晴らしいところだとは思っていないので、選択肢はあればいいと思いますけど、学校が学びの場として機能する場面もまだたくさんあると思っています。全否定ではなくて、僕はアップデートで変えていきたい。そういう学校を応援していきたいと思いました。

 最終第10章まで読み続けてきて、無事にひとり読書会を終了となりますが、最後に特別編をご用意できましたので、No.11へ続きます。

(為田)

書籍ご紹介:『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』

 田野大輔『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』を読みました。最初のきっかけは、講談社 現代ビジネスで読んだ「私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由」で、田野先生が甲南大学でされている授業を知ったことでした。
 本を読んで、サイトで紹介されていた授業の裏側の意図、詳細な実施の方法などを読むことができました。

 本の最初で、ファシズムについての定義づけがされています。インターネットでのさまざまな炎上騒ぎや誹謗中傷などを見るにつけ、サブタイトルである「なぜ集団は暴走するのか」というテーマは、これからの子どもたちにどう伝えていけばいいのか考えなければならないと思っています。

ファシズムの本質とは何なのか。本書で詳しく説明するように、これを究明する鍵は何よりも、集団行動がもたらす独特の快楽、参加者がそこに見出す「魅力」に求められる。
大勢の人びとが強力な指導者に従って行動するとき、彼らは否応なく集団的熱狂の渦に飲み込まれ、敵や異端者への攻撃に駆り立てられる。ここで重要なのは、その熱狂が思想やイデオロギーにかかわりなく、集団的動物としての人間の本能に直接訴える力をもっていることだ。
全員で一緒の動作や発声をくり返すだけで、人間の感情はおのずと高揚し、集団への帰属感や連帯感、外部への敵意が強まる。この単純だが普遍的な感情の動員のメカニズム、それを通じた共同体統合の仕組みを、本書ではファシズムと呼びたい。(p.6)

 炎上や誹謗中傷の延長線上に、ファシズムにまで転がっていくことを僕は恐れています。ネットメディアの悪い面として、ファシズムに繋がる可能性はあると思っています。だからこそ、教育の問題として、この『ファシズムの教室』について考える価値があると思っています。

ファシズム的と呼びうる運動にはほぼ共通して、複雑化した現代社会のなかで生きる人びとの精神的な飢餓感に訴えるという本質的な特徴がある。それゆえ、そうした運動が人びとを動員しようとするやり方も、きわめて似通ったものとなる。すなわち、強力な指導者のもと集団行動を展開して人びとの抑圧された欲求を解放し、これを外部の敵への攻撃に誘導するという手法である。権威への服従を基盤としながら、敵の排除を通じて共同体を形成しようとすること、そこにファシズムの根本的な仕組みがある。(p.7)

 ネットでのコミュニケーションが普及することによって、こうしたファシズム的と呼びうる運動に絡め取られる恐れは大きくなっていると思っています。絡め取られないためのコミュニケーションのやり方、リテラシーが必要になると思っています。このあたり、宇野常寛さんの『遅いインターネット』を読んでの問題意識と、僕にとっては重なってきます。

blog.ict-in-education.jp

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 実験としての有効性について疑問視されていますが、映画『es [エス]』の監獄実験についても書かれています。

映画『es[エス]』には、暴力がエスカレートする最初のきっかけとして、何人かの看守が騒ぎ出した囚人たちを鎮めようと、消火器を噴射するシーンが出てくる。看守らは囚人たちの暴動を鎮圧した後、彼らの服をすべて脱がして裸にし、手錠をかけて監獄の柵にくくりつけた。
このように屈辱を与えた後で、看守たちが控室に戻ってきたときに発した言葉が重要である。ある看守が「少しやりすぎじゃないか」と言ったのに対し、別の看守が「まずかったら上の連中がやめろと言うはずだ」と答えるのである。
この言葉に、権威に服従する人間の心理が如実にあらわれている。権威に服従している人は、いわば「道具的状態」に陥っている。自分の意思で行動しているのではなく、上の命令車の意思の道具になっているのである。(p.22)

 ここで書かれている、人が「道具的状態」に陥っているという表現は、自分が関わる子どもたちに、「こうなってほしくない」と思うひとつの状態です。


 最初に読んだオンラインでのコンテンツ「私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由」で読んだ授業の様子が、より詳細に書かれていました。
gendai.ismedia.jp

一連の実習を通じて、受講生は教師に指示されるまま集団に合わせて行動しているうちに、本来なら良心がとがめるような悪行に加担することになるわけだが、その過程で自分を含む集団の意識がどう変化するかを観察し、ファシズムの危険性がどこにあるかを認識するようになる。それがこの授業のねらいである。
同じ制服を着て指導者に忠誠を誓い、命令に従って敵を攻撃するだけで、人はたやすく解放感や高揚感を味わうことができる。そこではどんなに暴力的な行動に出ようとも、上からの命令なので自分の責任が問われることはない。この「責任からの解放」という単純な仕組みにこそ、ファシズムの危険な感化力があると言ってよい。
そのような感情を体験することで、ファシズムが参加者にとって胸躍る経験でもありうること、それだけに危険な感化力を発揮しうることが理解できるようになるだろう。(p.65-66)

 こうしたファシズムを体感させるという授業の方法がいいことなのか?という問題はありますが、田野先生がそこに非常に注意をして行われてきた様子も書かれています。

もちろん、ナチスを模倣したロールプレイをおこなうことには倫理上の問題があり、充分な配慮が必要である。ドイツでナチス式敬礼が刑事罰の対象になっていることからも、そうした実践が大きな問題をはらんでいることは明らかである(ただしドイツでも、ナチス批判の目的でおこなわれる場合や、芸術・研究・教育などに用いられる場合は罰則の対象外となっており、本授業はこれに該当する)。(p.139-140)

授業の後にはそうした行動が許されないものであることに注意を喚起し、事後的に反省を促す必要があることは言うまでもない。(p.140)

 このファシズムを体験する授業は、現在は行われていません。その決定にいたるまでの過程も書かれています。

2019年4月、そろそろ新年度の「体験学習」の準備に入ろうかという時期になって、私はあらたえて非公式に関係当局に問い合わせをおこなった。それに対する回答は、「人目につくグラウンドではなく、体育館など屋内の見えない場所で実施してほしい」「ツイッターでの告知や、マスコミの取材への対応も控えてほしい」という内容であった。
こうした要請を受けて、私は熟慮の結果、体育館での実施や情報発信への規制は受け入れるものの、今回を最後に「体験学習」の実施をひとまず打ち切ることにした。授業を取り巻く環境が厳しくなり、充分な教育効果が望めなくなったことが最大の理由だが、10年にわたって授業を実施し、一定の成果は得られたという思いもあった。(p.194-195)

 問題は日本だけではなく、アメリカでも「青い目、茶色い目」という実験授業が行われています。これについても、田野先生は言及されています。

1960年代末にアメリカの小学校で人種差別を体験させる有名な実験授業「青い目、茶色い目」をおこなったジェーン・エリオットは、メディアの注目を集めたことで学校当局や地域社会の反発を招き、最終的に教壇を去ることになった。私には職を賭するほどの覚悟はないが、それでもエリオットの無念が多少は理解できるような気がしている。(p.195)

www.huffingtonpost.jp

 こうしたことを教えるのはとても大切なことだと思うけれども、「どういう成果が出るか分からなくて怖い」のは新しい教育実践をするときには必ず出てくることだと思いますが、こうした実践の上に、どんどん時代にあった教育が作られていくのだと思います。田野先生の教えている大学と、初等中等教育ではまた違うとは思いますが、参考になる部分は多いと思います。
 「ファシズムを体験する」授業の記録ということだけではなく、非常に多くのことを考えさせてもらった本でした。

(為田)