教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『おやときどきこども』

 鳥羽和久 先生の著書『おやときどきこども』を読みました。鳥羽先生は、株式会社寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生(150余名)の学習指導に携わる方です。大学院在学中に中学生40名を集めて学習塾を開業したのがキャリアのスタートだそうです。

 子どもたちの様子をすごくよく見られていて、そこから書かれる文章は、同じように教室で子どもたちを見ている自分にとっても、すごく心に響く言葉が多くありました。いくつか読んで「あー…」と思ったり、刺さりまくって落ち込んだりした部分のメモを公開したいと思います。興味をもった先生方や保護者の方は、ぜひ本を手に取って読んでほしいと思います。

宿題について

 最初は教室運営に関わるところで、「宿題」について書かれていた部分です。ただ「宿題がない」ということを評価するのではなくて、宿題がどんな目的をもって出されているのかを明確にすることが大事だなと思っています。目的が明確になっているうえで、「宿題はなくす」だったら全然いいのですが、最終的な成果である「宿題はなくす」だけを真似するだけになるのはいやだな、と思います。

宿題がないフィンランドは素晴らしいと手放しで信じている人たちがいることに私は驚きを禁じえないのですが、義務教育期間に学ぶことは、野球の素振りのような型を身につけるための学習が多いので、毎日少しずつでも「身につく」学習を継続することが必要であり、そのための課題設定は欠かせません。私は子どもたちに課題を出すときには、手だけ動かしていれば頭は働かせなくても終わるようなものは出さないこと、ちゃんと仕上げることができる適切な量を出すこと、一方的ではなく、子どもたちが承認する内容であることなどを重視しています。その結果、課題自体が子どもとの間の大切なコミュニケーションツールになっていると感じることが多く、私はその取り組み方と達成度を見ることで、各生徒の学習進捗度にとどまらないさまざまな情報(例えばその日の精神状態や各単元に対する苦手意識、そして問題を解くときの思考の流れやクセなど)を得ています。(p.128)

子どもの進路について

 子どもが自分の人生を自分で選び取っていくということを、大人はどうサポートできるのかということについて考えさせられました。教育業界にいる人間としてもですし、親として、若者の先輩として、どう関わればいいのかな、ということを自分に問うていきたいと思いました。

「私には好きなことがある。だからそれを仕事にしたい。」そう目の前で宣言する子どもに対して、親はいとも簡単に「そんなに現実は甘くないわよ」と言います。このとき、親としては子どもの将来を心配して忠告しているつもりかもしれません。自らが「現実の壁」という役回りを引き受けることで我が子を守ろうとしているつもりなのかもしれません。しかし、これも一種の呪いです。それは「私が現実を引き受けているのだから、あなたも引き受けなさい」と自分の現実の側に子どもを引き入れようとする呪いなのです。親はこうして、自分の人生に、特に自分が人生で断念してきた記憶に対して正当性を与えるために、自分と同じ道を子どもにもたどらせようとすることがあります。
こうした親が子になすりつける「現実」によって、どれだけ多くの子どもたちが「自分の好きなこと」を仕事にすることを諦めて親と同じになることを選択してきたことでしょうか。子どもの目の前に広がる無限の可能性が、どれだけ台無しになってきたことでしょうか。「そんなに現実は甘くないわよ。」親が子どもにそう言うとき、彼らは自分の人生のうまくゆかなさを子どもに転嫁しています。親は人生経験という子どもが持ちようのない武器を使って「現実」を語り聞かせるので、子どもはそのうち自分のほうが間違っているという不幸な認識を抱くようになり、親に従うことが正しいのだという判断を自らで下すことになります。(p.140-141)

 この後で、鳥羽先生の教え子で、イラストを描くのが好きだった子が、絵を描く仕事を目指すことを否定され、お母さんの仕事である看護師になるために看護コースを選んだ、という話が書かれていました。

果たして彼女がそうだったのかはいまとなってはわかりませんが、親の呪いにかけられて自分の将来を決めていく子どもはたくさんいます。しかし、そうやって親に操作されているように見える子どもに「親の言うことなんて聞かずに自分のやりたいことを貫きなさい」と第三者が口をはさむことは簡単ではないし、たいていうまくいきません。これは所詮他人の立場では親に遠慮して言えないという単純な問題ではなく、もっと子どもという主体の根幹に関わる問題です。
というのは、子どもが主体性を獲得するためには、多かれ少なかれ親の呪いを必要とするのです。親の価値観や美意識といったものの影響は子にとって呪いとなりますが、一方で一生の宝にもなりうるものです。呪いではない宝はなく、だから親と子の間に第三者が立ち入ってその考えに異議申し立てをすることを簡単に考えてはいけません。呪いは確かに子どもをコントロールすることと同義ですが、だからと言ってすべて悪いものだと断定するわけにもいかないのです。だから、彼女が母親と同じ職業を選び取ったことは、呪いであると同時に一生の宝であるかもしれません。このように、親と子の関係は一筋縄ではいきません。親は子どもに、祝福と呪いとを同時に与えうる存在なのです。(p.142-143)

 他にも、親がついつい子どもたちにいってしまう言葉が子どもを追い詰める、ということも書かれています。

子どもに対して、「がんばる意志(=やる気)を見せなさい。目標を持ちなさい」と迫る親は、子どもが意志や目標をなんとか無理やりに絞り出したとたんに、「自分でがんばるって言ったんでしょ!」とそれを表明した「責任」を子に取らせようと血眼になります。
このように、意志や目標というのはたびたび大人が子どもに「責任」を取らせるための罠(トラップ)として使われます。だから、言質を取られることに気づいた子どもはきまって無口になります。すると頑なに意志を示そうとしない子どもを見て、親は「うちの子は意志を示さない」「やる気がない」「何の目標もない」と他人に愚痴ります。本人がいる前でも平気で、むしろ本人に当て擦るように「この子は何を考えているかわからない」と言います。これは親子関係におけるひとつの地獄です。(p.197)

 親子関係だけでなくて、学校で先生が子どもたちに言う言葉も同じです。

子どもを「勉強しない子」として扱うと、その子はほんとうに勉強をしない子になってしまいます。なぜなら子ども自身が、自分は「勉強をしない子」なのだと思い込んでしまう、つまり「勉強しない自分」を内在化してしまうからです。だから「勉強しない子」ではなく、「いまはたまたま勉強をしていない子」として扱うことが大切です。「勉強しない子」は存在しません。勉強しないのは、彼がいま「勉強しない状態」になっているだけであり、その状態は彼そのものではなくひとつの現象に過ぎません。
意志が傷ついてしまった子どもと対話するには、いったんこうして意志と責任という重荷から解放してあげる必要があります。子どもの行為を「あなたの意志でそうしている」のではなくて、単に「そうなっている」こととして受け止め、それを子どもに伝えるのです。(p.207-208)

 これ、僕も授業中に言っちゃっているかもしれないな、と思います。ちょっと自省したいと思います。いや、すごく自省したいと思います。

学校や塾で大事だと思うこと

 学校や塾がどのような場であるべきなのか、というのは人それぞれいろいろな考え方があると思いますが、僕はすごく優秀な子を育てる、というよりも、「ちょっと算数が苦手だって、あなたにもいいところ、めっちゃあるじゃん」と言ってあげられるような授業をしたいなと思っています。それが、プレゼンでも、プログラミングでも、イラストでも、スポーツでも、ユーモアでも何でもいいなと思っています。そういう学校や塾の大事な機能、果たすべき役割の1つの可能性を、鳥羽先生が言葉にしていたのが、すごく心強いなと思いました。

学校や塾というのは、いかに子どもたちの「企て」を加速させるかということが最優先課題とされるような場所ですから、子どもを教える立場の私は、子どもを「企て」に駆り立てることを生業にしているとさえ言えます。でもそれは競争しても負け続けてしまう「弱者」にとっては苦しい場所です。スタートラインに立った時点で否定されたような気持ちになり、どうしようもなく動けなくなる子がいます。そのせいでわざと問題行動を取る子もいます。
だからこそ、教える現場にいる大人たちが、勉強が苦手な子に対して、あなたを見ていること、大切にしていること、出来不出来だけであなたを判断していないということを伝えるのはとても大切です。その手ごたえがあるだけで、彼らは下を向かずに生きていけると思うからです。(p.154)

 いまの学校って、こういうところを大事にできていますかね。こういうところを大事にしている先生がたくさんいらっしゃることはもちろん知っているのですが、もっと多くの学校で、もっと多くの教室で、こういうことが大事にされるといいな、と思います。

 次に書いたメモのところは、『おやときどきこども』を読んでいて、いちばんズシンときたところです。いま自分自身のいちばんの問題意識はこの周辺にあると思っています。

平成は、個人間が「平らに成る」時代でした。運動会では勝ち負けを決めず、学校でのテストでも順位や偏差値を出さないことが求められました。一番(=ナンバーワン)を取るのではなく、個性(=オンリーワン)を尊重して、それを伸ばすことが大事だと、それが倫理だと、平成の若者たちは教えられて育ちました。
しかし、このことはかえって若者たちを苦しめました。そこに待っていたのは、表向きは競争が存在しないように見えて、それでも自分の価値を定めるために、心の中で他者への勝ち負けのジャッジを繰り返すという彼らの新しい現実です。こうして、自分で自分の価値を見つけなければならなくなったことで、彼らの心には小さな自己否定が積もっていきます。そうやって内側から自身を腐らせてゆき、「何者でもない自分」に負けて自滅してゆく若者たちの姿がそこにはありました。
『黒子のバスケ』脅迫事件の犯人は、「いじめられっ子」として、同級生だけでなく、先生や親からも謗られ続けて生きてきた人生を明らかにしながら、将来に何の希望も持てないまま、もう死んでもいいと思っている自身のことを、逆説的に「無敵の人」と呼んでいます。彼は、自分の考えていることは「ほとんどの人には理解できないだろう」と語っていますが、「無敵の人」として、死ぬ前にせめてもの思いで自らが設定した仮想敵と戦う彼の姿は、平成の若者たちとの親和性を強く感じさせます。生きる積極的な意味を奪われた彼らは、「生きよう」というモチベーションが希薄になり、「人生に何らかの意味を残して死ねたらいいな」という感覚だけで生きているように見えます。(p.180-181)

 本当に、自分のことを「無敵の人」なんて言いたくなる子もいるのだ、ということを僕らは考えないといけないのだな、と思います。自分に何ができるか、考えていきたいと思います。

(為田)