教育ICTリサーチ ブログ

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『コンヴィヴィアル・テクノロジー』 ひとり読書会 No.7「第6章 コンヴィヴィアル・テクノロジーへ」&「第7章 万有情報網」

 緒方壽人さんの『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』をじっくり読んで、Twitterハッシュタグ #コンヴィヴィアル・テクノロジー を使って、ひとり読書会を実施したのをまとめていこうと思います。

「第6章 コンヴィヴィアル・テクノロジーへ」

 第6章のテーマは、「コンヴィヴィアル・テクノロジーへ」です。本のタイトルと同じ章タイトルで、いよいよ総まとめの章です。

 まずは、この本のテーマである、「二つの分水嶺」の話のふりかえりです。何度も何度も出てくる、この「二つの分水嶺」、あらゆる道具にあてはまる、大事な話だと思います。

 いま、社会に普及しているPCやインターネットも、この「二つの分水嶺」の第二の分水嶺を超えつつある、という話が続きます。

いま、「コンヴィヴィアリティのための道具」だったはずのパーソナルコンピュータやインターネットがもたらした情報テクノロジーは、エネルギーやパワーといった物理的な力ではなく、情報処理能力や計算能力といった知的な力において再び第二の分水嶺を超えつつある。ここで注意すべきは、AIは敵か味方かといったように、あるテクノロジーを是か否か、善か悪かと二元論的に語ることはできないということだ。そうではなく、あらゆる道具に不足と過剰の二つの分水嶺は存在するのだ。しかも、分水嶺が二つあるということは、運命を分ける分岐点は一点ではないということ、つまり、不足と過剰の間の「ちょうどいい」には幅があるということでもある。(p.194)

 僕はPCもインターネットも道具として使っているけれど、僕の使い方は「二つの分水嶺」のどのあたりだろう、と考えてしまいました。仕事として文章を書いたり、表計算使ったり、こうしてブログを書いたりは、第一の分水嶺を超えて第二の分水嶺の前、ちょうどいい範囲かなと思っています。
 一方で、SNSの使い方とかスマホゲームとかにちょっと時間使いすぎかな、と思うので、やや第二の分水嶺の近くにあるような気がしています。アルゴリズムに操られている感じもちょっとしますし。その視点で言うならば、Amazonでの買い物とかもアルゴリズム効いているだろうし、このあたりはどうだろう…と考えます。
 でも、どのサービスも便利だったり楽しくて使い始めたものなので、手放せるものと手放せないものがあるな…この「手放す」とはどういうことなのかについて、この章ではたくさん書かれていました。

イリイチが「道具」という言葉にこだわった理由。それは、道具は本来「つくる」だけでなく「手放す」ことができる、ということにもあるのではないだろうか。(略)使い終わったのに手に持ったまま放さないでいるより、手放せることの方がよほどサステナブルとも言える。「手放す」ことは「捨てる」ことではないのである。(p.196-197)

テクノロジーが生み出した道具だけでなく、教育も、医療も、労働も、政治も、法も、本来必要に応じて「つくれる」そして「手放せる」道具だったのではなかったか。(略)
必ずしもいますぐにすべてを手放す必要はない。ただ、使うだけでなく、つくれるように、そして手放せるようにしておくこと。それこそが未来のテクノロジーに必要なことではないだろうか。(p.198)

 ここで出てきた「手放すことは捨てることではない」「教育も道具」というのを読んで、これまでの「チョーク&トーク」の教育方法、一斉授業をベースにした学校の制度、などにもそのまま当てはまるかもしれないと思います。
 教育の情報化を進めていますが、これは「今までの教育を(一部)手放す」ことにつながるけども、「今までの教育を捨てろ」とは言っていないんですよね。そして、先生側にだけそれは言えることではなく、子どもたちの側にも言えます。教え方だけでなく、学び方も、「(一部)手放す」ことが必要だけど、「捨てろ」とは言っていないんですよね。

「手放せるようにする」ということは、すべてを手放して自分の力だけで生きていけるようになれということではない。わたしたちは生まれながら何にも頼らずスタンドアローンで生きていくことはできない。むしろ「手放せるようにする」ために大事なことは、「頼れるものがいくつもある」ことなのである。(p.198)

 「むしろ「手放せるようにする」ために大事なことは、「頼れるものがいくつもある」ことなのである。」(p.198)っていうところ、本当にそのとおりだな、と。学校でデジタルを使って学ぶ必要は、こういう言葉でも言えるな、と思います。

未来のテクノロジーは、自然から逃れるためではなく、自然と共に生きるための道具であるべきであり、他者との関わりを断つためではなく、他者と共に生きるための道具であるべきである。(略)
ただ、ここで注意しなければならないのは、わたしたちは、本来「つくれる」し「手放せる」はずの道具であっても、生まれたときにすでに存在していたものや、認知限界を超えて大き過ぎたり複雑過ぎたりするものを、まるで自然のようなものとみなしてしまう傾向にあることだ。それは、本当に手放せない自然なのか、つくり、手放すことができる道具なのか、見失ってはいけないのである。(p.201)

 「手放せる」道具であること。二つの分水嶺のことを考えるときに、「手放せない」のであれば、そもそも分水嶺を超えないように調節とかが難しいはずなので、こういう考え方は大事だな、と思いました。

われわれは、自然や他者と「共に生きる」ためのテクノロジーだけでなく、テクノロジーそのものと「共に生きる」ことについても考えていかなければならないのである。それが、本書のタイトルをイリイチにならった「コンヴィヴィアリティのためのテクノロジー(Technology for Conviviality)」ではなく「コンヴィヴィアル・テクノロジー(Convivial Technology)」とした意図でもある。(p.202)

「第7章 万有情報網」

 「第7章 万有情報網」では、著者の緒方さんがプロジェクトメンバーである、ERATO川原万有情報網プロジェクトのメンバーとの対談。ぐっと具体の話が読めて知的刺激がすごかったです。
www.jst.go.jp

まとめ

 じっくりと読んできて、いろいろなヒントをもらえる本でした。僕は仕事で、学校にICTを実装していくことのお手伝いをすることが多いですが、そのときに、「ICTは道具」だという言葉はすごくたくさん言われるのです。そのときに、この本で読んだ「二つの分水嶺」の話はとても多くの考えるべきヒントをくれました。先生たちに話してみて、いろいろとディスカッションしてみたいと思います。

(為田)