緒方壽人さんの『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』をじっくり読んで、Twitterのハッシュタグ #コンヴィヴィアル・テクノロジー を使って、ひとり読書会を実施したのをまとめていこうと思います。
「第5章 人間と人間」
第5章のテーマは、「人間と人間」です。ここまで「人間と…」で章タイトルは統一されていて、テクノロジー、情報とモノ、デザイン、自然と人間「じゃないもの」でしたが、ついに「人間」になりました。
「わたし(I)」の自由から、「わたしたち(We)」の自由へ。そしてこの「わたしたち(We)」にどこの誰まで含めるのかという想像力が、家族や身近な仲間から世界中のあらゆる人、まだ生まれていない未来の人、さらには他の生き物や人工生命といった人間以外の存在へと拡張されてきた。そして、間違いなくテクノロジーの存在もそれに寄与してきたはずである。(p.148)
「拡張されていく「わたしたち(We)」に対して、現実には「わたしたち(We)」が生きるための環境や資源に限りがあり、必然的にお互いの自由は干渉し合い、「自由の相互承認」はどんどん難しくなっている。」(p.149) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) September 5, 2021
コンヴィヴィアリティとは「共に生きる」ことである。情報テクノロジーや気候危機やパンデミックなど、いずれにしてもお互いの自由がグローバルに複雑に干渉し合う時代において、言ってみれば「共に生きざるを得ない」状況の中で、自由の相互承認の対象としての「わたしたち(We)」はどこまで拡張できるだろうか。(p.150)
「自立というのは決して「何にも頼らずスタンドアローンで生きていける」ということではなく、「いざとなれば他に頼れるものがいくつもある」ということなのである。」(p.163) #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) September 5, 2021
「いざとなれば他に頼れるものがいくつもある」状態になるためには、テクノロジーは役立つ面もたくさんあるので、うまく使えるようにしたいな、と思いつつ、逆にテクノロジーによって人と人が分断されている例もたくさんあるので、ここにもまた、二つの分水嶺がある、ということだと思います。
ここで、以前にこのブログでも紹介したスマートニュースの鈴木健 さんについての紹介がありました。
鈴木さんによる具体的な提案は、社会への貢献が貨幣価値として伝播していく投資貨幣システムPICSYや、一票を細分化してイシューごとに投票配分を変えたり、一部を他の誰かに委任することができる分人民主主義Divicracyなど、いずれも言われてみればどうしていまだにこんな原始的で単純なシステムをつか続けているのか、いまのテクノロジーを使えば確かにもっとうまくやれそうだと思わされるアイデアであり、しかも概念だけでなく実際に数理モデル化し、実証実験まで行われている。
さらには、スマートニュースという自身のビジネスにおいても、こうした考え方を社会実装する試みを行っている。特に、2020年の大統領選挙でもますます分断が鮮明になっているアメリカへの進出において、フィルターバブルやエコーチェンバー現象を助長しないよう、あえてユーザーの政治思想の傾向と異なる記事を織り交ぜて配信するアルゴリズムを採用したり、「News from All Side」という、保守とリベラル、自分と反対の立場にたつとどんなニュースが表示されるかを知ることで自分のバイアスに気づくきっかけになるようなスライダー機能も追加している。いまやスマートニュースはアメリカでも人気のニュースアプリの一つとなっており、実際に社会の中で「敵」と「味方」という分断のない「なめらかな社会」を実現するための「なめらかなテクノロジー」の実践者でもあるのだ。
一方で、こうした手に負えない複雑さを引き受けてくれる「なめらかなテクノロジー」もまた、人間の認知限界を超えて行き過ぎれば、人間を隷属させるブラックボックス化した過剰な道具ともなりかねない。ここにもまた「第二の分水嶺」は存在すると言えるだろう。(p.174)
インターネットのテクノロジーが、人間と人間を結びつけてくれるものです。
インターネットは、これまで出会えなかった「感度の合う仲間」を見つけることを手助けしてくれるテクノロジーである。これまで、世界がこんな風に見えているのは自分だけかもしれないと悩んでいた人たちがつながりあい、それぞれの物語を紡ぎあい、自伝的自己を形成することができる可能性は、インターネットというテクノロジーによって大きく広がっているのである。(p.179)
一方で、自分に心地いいコミュニティだけで固まり、外と繋がらないのもよくない。アルゴリズムというテクノロジーに任せておくと、自分に心地いいコミュニティ外との関係はだんだん目に入らなくなっていくし、外と繋がる術ももっていなければならないと書かれています。
わかりあえる仲間を見つけることでわたしたちは孤独を乗り越えていくことができるが、一方で現実世界で生きていくには、それだけでなく「食べていく」ための経済的成立性も無視できない。そのためには、賛同者や仲間を増やすこと、価値をつくり届けること、コミュニティを閉じずに開くこと、つまり、わかりあえない「わたしたち(We)」とわかりあえる「わたしたち(We)」をつなぐ努力も必要である。(p.181)
同じ価値観でつながるコミュニティや地域のコミュニティなど、多様で小規模なコミュニティの中で生きていく道が開かれてきた背景には、原題におけるコンヴィヴィアリティのための道具としてのインターネットやスマートフォンの恩恵があることは間違いない。ただ、そこで「つながる」だけでなく、そのコミュニティの中で「食べていく」ことを考えると、閉じた小さなコミュニティの中だけでいわば自給自足的に生きていくことには限界があり、その小さなコミュニティの中で価値を生み出し、それをコミュニティの外に伝え届けることや、少しずつでも賛同者や仲間を増やすことが必要になる。(p.182-183)
ここにも、「二つの分水嶺」が存在していることがわかります。
小さなコミュニティの中で生きていくためには、そのコミュニティの外にあるより大きなコミュニティとの関係性を無視してはいけない。そして同時に、際限なくコミュニティを拡大しようとすれば、そこにはコミュニティの拡大が目的化してしまう第二の分水嶺が待っている。コミュニティにも、不足と過剰の二つの分水嶺の間のバランスが求められるのである。(p.184)
コミュニティにも、二つの分水嶺がある。役割を終えたように見えるコミュニティは、二つめの分水嶺を超えてしまっているのだろうな。この考え方、本当におもしろい。 #コンヴィヴィアル・テクノロジー
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) September 5, 2021
人間と人間を繋ぐものとして、テクノロジー、コミュニティ、言語(たぶん知識も)が書かれているのが非常におもしろいと思いました。イリイチとしては、こうしたものもすべて「道具」なので、コンヴィヴィアル=共に生きるために、二つの分水嶺を意識して使うことが重要だということだと思います。
こういう体験を子どもたちに教えるのに、ICTはすごく有効だとあらためて思いました。ICTの3文字の中の「C=コミュニケーション」のところには、コミュニティを作っていくことも含めて考えられるので、考えていきたいな、と思います。
No.7に続きます。
(為田)