中村高康 先生・松岡亮二 先生 編著の『現場で使える教育社会学 教職のための「教育格差」入門』を読みました。
全体の目次は以下の通りです。第Ⅰ部は社会全体のテーマ、第Ⅱ部が学校現場でのテーマとなっている2部構成、全15章で幅広くさまざまな問題について問題の概観をつかむことができます。各章が独立しているので、気になる章から読み始めることができます。
第Ⅰ部 教育関係者のための教育社会学概論
第1章 教育は社会の中で行われている
第2章 教育内容・方法は社会と深く関わっている
第3章 教育は階層社会の現実から切り離せない
第4章 「平等」なはずの義務教育にも学校間格差がある
第5章 制度が隔離する高校生活
第6章 教師は社会的存在である第Ⅱ部 学校現場で使える教育社会学
第7章 保護者・子どもの言動の背後にあるものを見据える
第8章 教師はどのように生徒と関わってきたのか
第9章 非行は学校教育と密接に結びついている
第10章 進路が実質的に意味する生徒の未来
第11章 「性別」で子どもの可能性を制限しないために
第12章 日本の学校も多文化社会の中にある
第13章 特別活動と部活動に忍びよる格差
第14章 不登校・いじめは「心の問題」なのか
第15章 「現場」のために教師が社会調査を学ぶ
各章末に「現場のためのQ&A」「演習課題」「理解を深めるために」というパートがあります。「現場のためのQ&A」では、研修で話したら質問が出てきそうな内容が書かれていて、とても参考になりました。また、「理解を深めるために」では、その章の内容の理解をより深めるための文献やメディアの紹介がされています。
興味深かったところを読書メモとして共有したいと思います。今回は、「第Ⅱ部 学校現場で使える教育社会学」の中に、「これは!」と思った部分が多かったです。
第7章 保護者・子どもの言動の背後にあるものを見据える
「第7章 保護者・子どもの言動の背後にあるものを見据える」のなかで、学校のもっている大きな役割について書かれていた部分に強く共感しました。学校を全否定するのではなく、学校に何ができるのかを考えながらサポートしていきたいと僕は思っています。
制度としての学校が有する相対的自律性は、不利な立場にある保護者たちの子育て様式の長所を正当に評価し励ますことによって、これまでにない新しい教育を構想する余地を与えてもくれるはずである。学校は既存の関係を温存するよう機能しがちだが、他方で格差を是正し、公正な社会を築き上げる礎にもなり得るのである。
望ましい未来に向けた社会構想が実現するかどうかは、実のところ、学校で幾度となく繰り返される日常生活によって決まる。というのも、個人と社会とが分かちがたく結びついているということは、個々の人々の振る舞いやその背景となっている意味づけが変わることで今後の社会のあり方が変わってゆくということでもあるからだ。日々の生活に追われていると、いまある社会の姿は容易には変わらないように思える。だが、10年単位の時間軸でみると、私たちが予想する以上に社会は大きくその姿を変えることがある。社会の変わりにくさと予想を超えた大きな変化といういずれをも生み出す制度的な特質が学校教育にはあるのだ。(p.139-140)
章末の「理解を深めるために」のところで参照されていた映画『家族を想うとき』(2019年、ケン・ローチ監督)についてのコメントを読んで、映画を見てみたいと思いました。エンターテイメントにも考える機会はたくさんあります。
カンヌ国際映画祭で最優秀賞を獲得した『わたしは、ダニエル・ブレイク』をはじめとする多数の話題作を手がけた英国の名匠が、ICTを駆使したギグエコノミーと呼ばれる「新しい働き方」を選んだ父親とその家族が抜き差しならない状況に追いつめられてゆく姿を描き出した作品です。原題の“Sorry, We missed you”は宅配便の不在票の定型文で、映画ではそれが別の意味を持つことが徐々に明らかにされます。学校や教師はほとんど登場しませんが、逆にそのことが教師には見えない多数の困難があることを端的に示しているように思います。(p.143)
第11章 「性別」で子どもの可能性を制限しないために
教室のなかで、男の子も女の子も教えていますが、「可能性を制限しないために」自分がどんなことができているだろうか、どんなことができていないだろうか、ということを考えるきっかけになる文章がありました。
「心理学の知見によれば、数学の試験で良い点をとった女子生徒に対して教師が「女の子なのにすごいね」と褒めると、「すごいね」だけの時よりも女子生徒の数学意欲は低くなる傾向にあり、一度だけのそうした発言でも影響をおよぼすとされる(森永ほか 2017)。(p.216)
この出典は、「森永康子・坂田桐子・古川善也・福留広大, 2017, 「女子中高生の数学に対する意欲とステレオタイプ」『教育心理学研究』65: 375-387頁」で、インターネットで検索したら見つけることもできました。先生の仕事の大切さを感じる部分でした。
第12章 日本の学校も多文化社会の中にある
最後に、さまざまなルーツをもつ児童生徒がいる学校での実践を考えさせられた、「第12章 日本の学校も多文化社会の中にある」です。「異質な文化への教員の対応には2つの戦略がある」(p.237)と紹介されていた部分をまとめました。
- 差異の一元化
- 学校文化への適応の度合いや学力の違いなどが、生徒自身の心構えの問題や個人の努力に基づくと解釈する見方。
- 誰であっても努力次第でいかようにでもなれるというメッセージを与える一方で、社会的・文化的差異は見えにくくなる。
- 個人の差異に細かく配慮することはできるが、マジョリティ中心のカリキュラムや学校文化という構造自体を見直そうという思考にはなりづらい。
- 差異の固定化
- 「文化の違い」を解消できないものと認識する。「~~は、○○人の感覚だから仕方がない」など。
「差異の一元化」と「差異の固定化」という2つの戦略は、こうしてまとめられるとハッとさせられる感じがしました。この2つの戦略についての出典は、児島明『ニューカマーの子どもと学校文化――日系ブラジル人生徒の教育エスノグラフィー』でした。
続けて、日本の公立学校ではどのように多様性に対してきたかが書かれていました。
全体的には、マジョリティへの同化圧力が働く日本の公立学校という場では、移民の子どもを「特別扱い」せずにマジョリティと同じように扱うことが良しとされ、学校文化になじまない文化的差異は個人の努力によって変えていくべきものと見なされる。一方で、その異質性の内容や度合いによっては、「移民の子どもは日本の学校に無理に来なくてよい」という扱いをする。このような多様性に対する一貫しない対処によって、マジョリティ中心の公教育システムが維持されてきたという見方もできる。(p.237-238)
社会が多様になりつつあるいま、学校がどういう場であれるのかということについても書かれていました。
移民の子どもは不就学や学校経験といった教育機会で不利な状態にあり、マジョリティと比べると低い教育達成に留まっている。これは日本の教育制度が移民の子どもたちの可能性を引き出せていないことを意味する。公教育が移民の文化的多様性に対応することは、将来的な社会の分断を抑制することにもつながるはずである。(p.238-239)
「異質な文化」への対応というだけでなく、あらゆる「異質性」への対応でも、同じような戦略をとってしまっていないか、自分で確認をしたいと思いました。
まとめ
全部で15章あるなかで、自分の関心のあるところだけ、いま先生方の学校に関係するところだけを読んでみるのでも、何かヒントになりそうなことが見つかる感じがする本でした。現場の先生方のお役に立てるように、自分自身もいろいろなことをまだまだ学ばなければいけないし、自分自身の言動をチェックしていかなくてはならないと強く感じました。
(為田)