教育ICTリサーチ ブログ

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『だれが校則を決めるのか 民主主義と学校』ひとり読書会

 理不尽な校則を見直す活動や授業を見ることが多くなりましたが、ただ「校則を変える」ということを目的にしてしまうのではなく、より多角的に校則について考えたいと思って、内田良 先生・山本宏樹 先生 編の『だれが校則を決めるのか 民主主義と学校』を読みました。読書メモを共有します。

はじめに~第1章 教師の目線、生徒の目線 (内田良 先生)

 最初に、編者の一人である内田良 先生による、この本のねらいを引用したいと思います。

しかしながら、気がかりなことが一つある。理不尽な校則やその改革の取り組みは各地で実践されまた報じられてきた。その情報量に比して、校則を教育学的に検証しようという試みは、いまだ貧弱だ。理不尽に抗して少しずつ成果を勝ち取っていく若者の姿は、わかりやすい物語として、お茶の間に享受される。それで終わってしまえば、校則というイシューは、ただ消費されるだけである。お茶の間から学術の場へ、一つの物語から教育学研究の枠組みへ――教育学の複数の研究領域にまたがって、校則ならびにその改革の取り組みを実践的かつ学術的に検討することが本書の企てである。(p.v)

 第1章では、服装についての校則について、生徒の意識調査や先生方の意識調査などの結果を比較しながら「校則」について考えていきます。僕が通っていた高校には校則がほとんどありませんでした。体育祭になったらクラスリーダーたちがクラスカラーの色に髪を染めるような自由な学校でした。一方で、いま仕事で訪問させてもらっている学校では、厳しめなルールが廊下や教室に貼ってある学校もあります。「ここまで書かなくてはいけないのか?」と思うことも何度かありました。

 それぞれの学校によって、文化も違います。校風や地域性も関係してくるので、「校則はなくていい」と簡単に言えるものではないと思っていますが、内田先生が第1章の最後に書かれていた言葉が、本当にそのとおりだなあ、と納得できました。

中高生に自由を認めれば、すぐに荒れるにちがいない――私たちは、あまりに子供を疑ってきた。子供に不信感をもちつづけるのか、子供を信じてその声に耳を傾けていくのか。コロナ禍でその答えははっきりと見えてきたように思う。子供に対する大人の側の信頼が、問われている。(p.18)

 子どもたちを信頼して、一緒に校則やルールを作っていく活動ができればいいと思います。

第4章 学校という「公共圏」と校則見直し (末冨芳 先生)

 第4章では、2020年度に安田女子中学高等学校で行われた、校則見直し(ルールメイキング)のプロセスがまとめられていました。このプロジェクトは、経済産業省の未来の教室実証事業のレポートも公開されています。

www.learning-innovation.go.jp

 また、校則見直しを進めてきた校長補佐の安田馨 先生によって本にもまとめられています。

校則見直しを通じて、学校が民主主義の実践の場としての機能を向上させていくことができたかどうかのクライテリア(評価基準)の一つは、マネジメント職が、学校づくりの当事者・パートナーとして、生徒を位置づけるという、生徒観の転換と学校の変化を実現することができたかどうかではないかと判断される。
生徒は「できる」存在、である。「生徒が主体となって校則の形を検討し、多様なステークホルダーと合意形成をしていく方法がつくられたことこそ実は大きな意味のある変化であった」と校長補佐は振り返っている。
(略)
学校という「内側の公共圏」において、学校づくりのパートナーとして、意見表明・意見尊重を通じて意思決定に参画してきた生徒たちは、学校の「外側の公共圏」である大きな社会においても、また民主主義の当事者として成長しつづけることが期待される。
こうした生徒の成長、社会の成長を、学校から実現する際に、生徒を統制の対象とみなす管理職ではなく、生徒を学校づくりのパートナーとしてともに活動を続けるマネジメント職こそが、求められる存在なのである。(p.99)

 「意見表明・意見尊重を通じて意思決定に参画」するという経験自体が、民主主義の当事者として生徒たちを育ててくれるというのはそのとおりだと思います。学校という小さい社会のなかで、意思決定に参画する体験ができるのは大事なことだと思います。
 学校の先生方だけでなく、地域の方々も含めて、ルールメイキングの活動をしながら「意見表明・意見尊重を通じて意思決定に参画」する授業の機会があればいいと思いました。

第5章 制服・指定品類の経済的負担と子どもの権利 (福島尚子 先生)

 第5章では、制服・指定品類の経済的負担と子どもの権利について書かれていました。「制服を変える」「制服を廃止する」というのは、校則を変えるときのアジェンダとしてよく出てきていると思います。
 「近年では、制服リユース活動をPTAなどが中心となって実施している学校が多い。また、制服類の中古販売を行っている店舗もある」(p.124)とも書かれています。
 さいたま市立大宮北高等学校は、UNIQLOの既製品を制服として採用しています(2022年度~)。埼玉県立北本高等学校は、定額の料金を支払うことで制服を貸し出すサブスクリプションサービスを始めたそうです(2022年度~)。
 いろいろな選択肢があることはいいことだと思っていますが、その背景に子どもの権利があることが指摘されていました。

ただし、こうしたリユース品、割安品、貸借品を着用した子どもと、正規品を着用した子どもが同じ空間にいることがいじめに繋がることを危惧する人は多い。自由化された場合の私服と制服の併存も同様だろう。教育学の立場からは、いじめを防ぐために見た目を画一的に整えるのは学校の役割ではない。服装や見た目によって人をいじめたりからかったりしてはならないと学ばせるのが学校ではないのか、ということだ。(p.125)

 こうしたことが、子どもの権利とどのように結びついているのかということについて多角的に教えられた章でした。僕自身、こうした面については不勉強だったな、と反省しています。

第6章 外見校則とルッキズム西倉実季 先生)

 第6章では、外見校則=外見に関係する理不尽な校則(髪染め強要、パーマ禁止、細かな毛髪指導、服装規定)について書かれています。「生まれつきアルビノのため金髪の女性が、髪の染色や脱色を禁止する校則があった中学校で髪色を問題視された経験」「脱毛症で頭髪が抜け落ち、ウィッグを被って生活していた男性は、高校から「異装許可願」を提出するよう求められる」(p.143-144)という事例が紹介され、これが生徒たちにどのように受け止められるのかということが書かれています。

これらのエピソードは、外見校則が特定の外見を「逸脱」として否定的に価値づけるだけでなく、同時に、逸脱していない「正しい外見」「普通の外見」を生み出していることを示している。もちろん、何が「普通の外見」とみなされるかは、文化や社会によって大きく異なる。たとえ同じ社会であっても、世代や社会階層、住んでいる地域や触れている文化などによって異なるだろう。つまり、何が「普通」で何がそうでないかを決める普遍的な基準があらかじめ存在しているわけではない。にもかかわらず、外見校則が生み出す「普通の外見」は生徒たちにとって絶対的なものとして受け止められる恐れがある。
校則の一律適用に例外を設けるものであるという理由で、「地毛証明書」や「異装許可願」は生徒への「配慮」とみなされることがある。しかし、上記のエピソードからわかるのは、他の生徒は必要としない「証明」や「申請」が求められること自体が、自分の外見をどこか逸脱したものとしてとらえることにつながっている実態である。」(p.144-145)

 校則だけに限らず、大人の社会でも似たようなことはたくさんあるな、と思いました。自分がたまたま、「証明」や「申請」を求められてこなかっただけなのだ、ということに気づかされます。こうしたところまでルールメイキングの授業で考える機会をもてればいいなと思いました。

第8章 校則をめぐる闘争のゆくえ (山本宏樹 先生)

 最後の第8章では、これからの校則見直しについての行く末が書かれていました。

校則改革運動がこのまま単なる「ブラック校則撲滅運動」に矮小化される可能性もある。教師中心の校則決定モデルは変わらず、子どもの権利論者が待望するような「子ども中心」へのパラダイムシフトはほとんど起こっていない。(P.188)

 「校則見直し」や「ルールメイキング」の活動が消費されて終わってしまうのではなく、きちんと社会の中に根づくためにどのようなことを考えればいいかが書かれていました。

改革の火を絶やさぬために、どのようにすればよいか。まずは筆者なりの問題の見取り図を示したい。フランスの社会学ピエール・ブルデューの理論に基づけば、政治、経済、教育などの社会システムは各々の行為を行うアクターを依代として存立しているのであり、そこには各々の領域に独自のルールや利害関心、社会的地位や資本をもった一群の人々の参与がある。ブルデューはそうした関係論的独自性を有するネットワークの総体を「界」と呼ぶ。教育界、経済界、芸能界などは「界」の一例であるし、個々の学校にも独自の教師界、生徒界、保護者界がある。(p.189)

 最後の「個々の学校にも独自の教師界、生徒界、保護者界がある」というところ、校則に限らず、学校で何かを変えていくときに考える枠組みとして使えそうだと感じました。それこそ、ICTを導入するときにも、「教師界」「生徒界」「保護者界」を考えていく必要がありそうです。さらに、「界には闘争がつきものである」(p.189)と書かれていて、界内部の闘争もあるし、界同士の闘争のあるということがエピソードを交えて書かれていました。

 それと、最後に校則や定期テスト、宿題を廃止して有名になった世田谷区立桜丘中学校について書かれていたパートがあり、すごくフェアな書き方だなあ、と思いました。少し長いですが、引用します。

西郷孝彦校長のもとで特徴的な学校づくりを行った桜丘中学校の触れ込みは「教員と生徒が語り合いながら、校則や定期テスト、宿題を廃止。服装や髪型、携帯電話の持ち込み、登校時間、廊下での学習、授業中の居眠りも全て自由にした。学校の荒れは収まり、都内有数の進学校になった」というユートピア的なものである。ただそういった状況を現出させるために、ある種の「教育からの撤退」が選択されている点も正確に見ておく必要がある。
それは第一に「学力向上」路線からの大胆な撤退である。桜丘中学校は西郷自身が述べているとおり「塾の邪魔をしない学校」であって、学習面での指導を外注して「居場所」に特化した学校づくりを行っているがゆえに教師と生徒の融和が可能になっている部分を見過ごすべきではない。逆に言えば、学校内の学力格差の是正や低学力層に対する学習支援の優先順位は高くないのであって、教育研究者のなかには批判的なスタンスの者もいるはずである。(略)
そうした特色のある学校づくりは、従来、私立学校やフリースクールを中心に試みられてきたのであって、公立中学校では珍しいこともあり学校づくりのモデルとして注目されている部分がある。しかし桜丘中学校に通っている子どもの社会経済的背景(SES)が全国的に見て非常に恵まれていることは容易に推測できるのであって、SESの低い学校で同様の実践が可能かどうかは慎重に試行されるべきであり、「校則改革は校長の心構え次第でなんとかなる」といった誤解はすべきではない。
とはいえ桜丘中学校の実践は啓発的である。西郷が明らかにしているとおり、桜丘中学校にも生徒による授業妨害や軽度のいじめ、対教師暴力はある。それに対して校則と懲戒によって管理するのではなく、膨大な時間と労力をかけて対話によって解決していこうという姿勢は重要である。たとえ実践上において有利な条件があろうとも陰には相当の苦労があるはずであり、だからこそ素晴らしい。桜丘中学校はユートピアとしてではなく、オルタナティブとして評価すべきなのである。(p.197-199)

 学校での事例は、書き手がどんな立場でどんな場面を切り取って書くか編集しているものなので、自分が見に行ってみて自分なりの立場で自分から見える範囲のことを受け取る、ということしかできないと思うのですが、ここで書かれていることはフェアだなと感じました。
 最後に書かれていた、「桜丘中学校はユートピアとしてではなく、オルタナティブとして評価すべきなのである」というのはそのとおりだと思います。選択肢として、「こういう学校もあるよ」と広く知られることは大切だと思います。

まとめ

 校則についていままで考えてこなかった視点を得ることができました。各章で取り扱っている専門分野が違うため、読み進めるごとに「そういうポイントもあるか…」と考えることが増えていきます。「民主主義と学校」とタイトルにあるとおり、学校で民主主義を学ぶことは重要ですが、こうしていろいろな視点があるのだということを知ることこそが健全な民主主義に繋がっていくだろうなと感じました。