広田照幸 先生の『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』を読みました。僕は、学校は公教育システムにおいてとても大切な機関であると思っています。だから、「学校は時代遅れ」「学校はオワコン」などという言葉をメディアなどで目にするといつも、「いやいや、悪いところばかりではない…」と思っています。学校が今のまま変わらなくていいとは思っていませんが、良いところもたくさんあります。だからこそ、「学校がFuture Readyになることをお手伝いする」のを仕事としています。
そんな僕にとって、この本のタイトルである『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』は、多くの人に知ってもらいたいことです。広田先生がどんなふうに説明するのだろうと思って手に取りました。
『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』を読んで、たくさんの新しい学びを得ることができたのと、「あ、これは学校の先生と話をしてみたい」と思うところがたくさんありましたので、読書メモを共有します。
教育とは何か?
最初に広田先生は、そもそも「教育」とは何かという定義をしています。学校で行われている「教育」について評価をするにあたっては、こうした定義をしっかり考えることが重要だと思います。
そもそも「教育」とは何なのでしょうか。私は、「教育(education)」を定義するとき、「教育とは、誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである」という定義を与えています(広田 2009)。「教育とは何か」については、いろいろな人がいろいろな定義をしていますが、おそらく、最もシンプルな定義の一つだと思います。いろいろなものをそぎ落としてみて、最後まで残る重要な性質を、私は「教育」の定義に使っています。(p.18)
この定義文の中で使われている言葉から、広田先生は「意図的に」「他者の学習」「組織化しようとすること」の3つのポイントについて説明しています(p.19-25)。
- 「意図的に」:
こうなってほしい、こういうことを理解してほしいという、教育しようとする誰かの意図が存在する。- 「他者の学習」:
教育は他者を変えようとするおせっかいな営み。他人に押し付けるものだからこそ、権力性を持っている。- 「組織化しようとすること」:
「しようとする」ことなのだから、成功するかもしれないが、失敗するかもしれない。
こうしてポイントが明確になったうえで、学校のカリキュラムや学校の授業を考えてみたいと思いました。広田先生が書かれている「教育」の定義を学校現場にあてはめて考え直してみると、小中学生が一人1台の情報端末を使うGIGAスクール構想、英語教育やプログラミング教育、プロジェクト型学習(PBL)などについて少し見え方が変わったように僕は思いました。
学校とは、「経験によっては子どもが到達し難い部分」を学べる場
広田先生は、ドイツの教育哲学者 K・モレンハウアー『忘れられた連関』(1987)を引用しながら、家庭や自分の身の周りから直接経験することだけでは、子どもたちの未来が開かれないことを説明しています。
日常の身近な関係だけの中の学習では対応しきれません。「この結果、おとなが自らの生活を生きて見せる『提示』とは別に、社会的・歴史的文化のうち、経験によっては子どもが到達し難い部分を何らかの仕方で彼らに知らせてやるという課題が生じる」。モレンハウアーが指摘する、この「経験によっては子どもが到達し難い部分」というのがポイントです。つまり、身の回りにないものを学ばせる必要が生じてきたのだ、という話です。
そこで、学校の重要性が出てきます。学校は、この世界がどうなっているかということを、言葉や記号を使って子どもたちに学ばせる役割を果たすというのです。ここが重要なポイントです。(p.89)
学校は、家庭や自分の身の周りで直接経験できないこと「も」学べる場であるべきです。親が教えてあげられること、親が経験させてあげられることだけで学びが完結してしまえば、自分の生まれた環境から出ていくことは非常に難しくなると思います。自分の生まれ育った環境を出て自分自身で好きな場所で生きていけるようになるためには、直接経験できないことを学校で誰もが学べるようになっていなければなりません。学校で教えられているカリキュラムはそのために役立つものであってほしいと思います。
学校で教えられているカリキュラムは、「この世界が何なのか」について縮約・再構成された知識や文化であり、あるいは、それをベースにした技能の習得のようなものです。ですから、日常の生活世界での経験では学べないものが、「カリキュラム化された知」として学校で学べます。そこでは、親や友だちからは学べないような種類の知を学ぶことができます。
重要なことは、それによって、子どもたちはより広い世界に出ていくことが可能になるということです。
何よりも、親とは違う職業に就いていくときに、単に親から学んだだけでは足りないものを、私たちは学校から学んでいます。(略)学校で、「この世界が何なのか」についてのさまざまな知を学ぶことで、子どもたちは親の職業とは別のさまざまな進路の可能性が開かれるのです。
ただし、学校知は、仕事に役に立つこともあれば、当然、役に立たないこともあります。なぜならば、「世界とは何か」を学ぶのであって、職業人の育成のためだけに学校があるわけではないからです。(p.95-96)
「世界とは何か」を学ぶためのカリキュラムを導入するという観点から、GIGAスクール構想を見てみると、少し見方が変わるように思いました。
「個別最適化した学び」についての危惧
広田先生は「第5章 平等と卓越」で、「個別最適化した学び」が家庭環境の差を増幅させてしまうのではないか、という危惧を指摘しています。
どの子も自分の学力に見合った学習ができるということが語られますが、家庭環境の差の影響を増幅させることになります。簡単なモデルで言うと、スタート時点ではわずかな差だったのが、一人ひとりに合わせた教材、カリキュラムを作っていくと、結果的には、ゆっくり進む子どもはゆっくり、速く進む子どもは速くという形でどんどん広がっていくだろうと思うのです。スタート時点での学力は、家庭環境の差の影響がとても大きいです。小学校に入るまでに既にいろんなものを読んだり、親と一緒に勉強して学んでいる子どもや、小学校に入るまで文字の読み書きに全く触れなかった子どもなど、家庭環境の差の影響が非常に大きく、それがどんどん増幅していきます。(p.172-173)
「個別最適化というのは、医療の分野で先に議論されていって、それが教育にも持ち込まれ」(p.173)たそうです。ただ、医療については、個々の患者のタイプに合わせた治療をする必要があるという点では、「個別最適化」が行われますが、その最終目標=ゴールは、「治療して健康を回復すること」で、すべての患者に共通のゴールです。
ところが、教育の個別最適化は、ゴールが拡散しています。すなわち、個々の子どもがたどり着く先はまちまちなのです。一人ひとりに適した学びの場合には、ずっと行った先に、非常に高度なことを学習して、社会に出ていく子どもと、そうではなくて、本当に初歩的なことを何度も反復学習をして、社会に出ていく子どもがいます。待っている先は、別々の職業世界です。そうすると、ゴールが拡散してしまうわけです。
それゆえ、教育で「個別最適化」を追求していくと、差異化の増大ということ自体が善になります。医療や福祉は、最終的に誰もが共通の目標を実現しようという話になりますが、教育の場合は、別々の学習をして、別々のものを追求する人間になりましょうという話になってしまうのです。(p.174-175)
デジタルドリルを導入して個別最適化を目指している授業を見ることが多い僕にとっては、向き合うべき危惧だと思っています。
「指導の個別化」と「学習の個性化」を上手に組織した教育実践が、学力の格差を縮小させることに成功している事例はないわけではありません(森 2011)。しかし、これまでの議論をながめるかぎり、学習の個別化によって生じる機会の差に対してどう考えるのかということに対する配慮が、個別最適化した学び論には欠けています。つまり、機会の不平等をシステムで構造的に作り出してしまうことになる。個別分化した学習のシステム自体が、機会の不平等を増幅させて、しかも、それに誰も反論できなくなるという問題をはらんでいます。いずれ、教育社会学者が問題提起をすることになると思いますが、皆さんにはいち早く問題点を指摘した話をしました。」
何のために個別最適化を目指すのか、ということをしっかり考えていくことで、授業をどのように設計するのかということにつながっていくテーマだと思いました。「何のために個別最適化を目指すのか」を、学校現場の先生方と一緒に考えていきたいです。
まとめ
本当にいろいろなことを考えさせられる本でした。「学校はなぜ大切なのか」は、きちんと考えて、自分自身の言葉で答えられるようにしておかなくてはいけないな、と思いました。ちくまプリマー新書なので、学校関係の方だけでなく、保護者の方にも読んでもらいたいと思います。
▼広田先生の「教育」についての定義のところの参考文献はこちら。
▼ドイツの教育哲学者 K・モレンハウアーの参考文献
▼森先生の「指導の個別化」と「学習の個性化」を上手に組織した教育実践が、学力の格差を縮小させることに成功している事例が書かれていると思われる参考文献
(為田)