教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

『学校するからだ』ひとり読書会

 矢野利裕 先生の『学校するからだ』を読みました。都内の中高一貫校の国語の先生である矢野先生は、ラジオに出演されているのを何度も聴いていて、学校という場所に身を置く先生だからこその言葉を話してくださっている感じがして、ずっと気になっている方でした。読書メモを共有したいと思います。

 「はじめに」のなかで、学校をめぐるさまざまな問題提起について書かれていました。

学校はどんな場所として記憶されているだろうか。
良い思い出が詰まっている人もいれば、思い出したくもないことばかりの人もいるかもしれない。学校という場所は、なんとなく大事なものだと思える一方で、多くの問題を抱えているような気もする。だからなのか、人が学校について語るときは、すごく甘美な思い出として語られるか過度に批判的な論調で語られるかのどちらかになることが多い。(p.7)

近年、学校をめぐっては、体罰の問題、生徒の負担の問題、教員の長時間労働の問題といった、あたりまえながらも長いあいだ見て見ぬふりをされていたことが問い直されている。
このような外部からの問題提起はおおいになされるべきだろう。部活動に限らず、ブラック校則、運動会における組体操など、社会的通念に照らしたときにあきらかに問題含みなものであっても、学校という特殊な場所がその問題性を覆い隠してしまうことがある。長い目で見たとき、外部からの指摘とそれによって形成される世論が教育現場を健全なものにするものだと思っている。
しかし、その意義をおおいに認めたうえで、ある種の歯がゆさがあるのも事実である。それは、そのような正論が言われるとき、僕が学校で感じているさまざまな感触が抜け落ちてしまう、ということだ。
これは、「部外者になにがわかるのだ!」なんていう偏屈な現場主義ではないつもりだ。外部からの批判を防いでしまうような現場主義こそ学校内部の問題を温存してしまう。僕が求めているのは、正論と現場主義のあいだにあるような言葉だ。
大事なことはおうおうにして、対立するふたつのあいだに存在する。とりわけ、冒頭に書いたような僕が学校現場で味わうマジカルな感触は、正論と現場のあいだに存在している。本書では、そのような学校をめぐる言説のなかで抜け落ちてしまうものを拾い集めたい。(p.11)

 「僕が求めているのは、正論と現場主義のあいだにあるような言葉」と矢野先生が書いていますが、まさに、「あいだにあるような言葉」を見つけていきながら、学校が変わっていくお手伝いをしたいんだな、と自分を省みました。

 この本は「1章 部活動」「2章 授業」「3章 教員」「4章 生徒」「5章 行事」「6章 コロナ以後の学校」の全6章の構成になっています。学校で見ることのできる素敵な風景を感じさせながら、そこからちょっと距離をとって分析している文章で、学校をちょっと違った角度から考えさせてくれる本だと感じました。

2章 授業

 学校での先生方と児童生徒たちとの時間として大きな部分を占めるのは授業です。テレビのバラエティ番組のセットが教室のようでMCは先生のようにトークを回していく、という話から、授業形式について書かれていました。

バラエティの世界が学校のようになっていき、教室もまたバラエティ番組のような空間になっている。とくに2000年代以降、そのような流れはたしかに存在している気がする。
ここ数年、「生徒にいかに学習の動機づけをもたせるか」という問題意識から、生徒の「主体的・対話的で深い学び」を推進すべく、従来の一斉教授型の授業ではなく能動性を重視したアクティヴ・ラーニングが強く推奨されている。このような立場からすると、教員が一方的に教団から話している姿は、いかにも時代遅れのものに映るだろう。
しかし、「いかに学習の動機づけをもたせるか」という問題意識自体を共有するからこそ、一斉教授型の授業を時代遅れのものとして片づけることには違和感がぬぐえない。アクティヴ・ラーニングだって予定調和になることはいくらでもあるし、反対に、一斉教授がエキサイティングなことだってありえる。
だとすれば、「一斉教授型かアクティヴ・ラーニング型か」という問いは本質的ではない。大事なことは、どのような形式であれ、いかに生徒を授業に巻き込むか、ということである。アクティヴ・ラーニングはその手法のひとつでしかなく、それ自体を目的とするものではないはずだ。(p.62)

 「一斉教授型かアクティヴ・ラーニング型か」という質問は、いまでも学校の研修をさせていただくと質問としてもらうこともあります。同じ感じで、「アナログかデジタルか」という質問もいただきます。いずれも、目的によるもので、それ自体を目的とするものではないことをあらためてメモしておきました。

 全体に音楽などの話がたくさん出てくるのですが、そのなかでも、KRS・ワンというアーティストのMVを引用しながら書かれていた部分、とても好きでした(MVを途中でリンク貼りました)。

音楽ライターの泉山真奈美さんは、「You Must Learn」が収録されたアルバム『Ghetto Music: The Blueprint Of Hip Hop』について、「自称“ゲットーの教師”を体現するかの如く、当時のKRSワンは急速にカリスマ性を帯びてきて、神がかり的でさえあった。「YOU MUST LEARN」はまさに耳で読む歴史書」と書いている(『DROP THE BOMB!!』
注目すべきは、なによりそのMVだ。MVでは曲が始まるまえに、少し長めのイントロションの部分がある。そこでは、次のような状況が映し出される。
KRS・ワンがハイスクールの教室で「黒人」のルーツを説明するような授業をおこなっている。黒板にはアフリカ大陸の地図。アフリカン・アメリカンの生徒は、KRS・ワンの授業に熱心に耳を傾けている。しかし、ほどなく白人教師が連れてきた警察によって、KRS・ワンは教室を追い出されてしまう。追い出されたKRS・ワンは、街頭のブロックパーティーで「耳で読む歴史書」たる「You Must Learn」を披露する――。

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大学生のときだったか、このMVを見て思ったことがあった。それは、「そうか、KRS・ワンの言葉は学校のなかに入りたかった言葉なのか」ということである。
僕にとって、それまで反抗の音楽と言えば、せいぜい尾崎豊をイメージしていたくらいだった。中学校卒業のまぎわ、友人たちと窓の外にむかって尾崎の「卒業」を歌ったことは、担任に「お前ら、なんか不満でもあるのか!大人の代弁者とかなんとか言って…」と言われたことも含め、いまでも良い思い出として心に残っている。しかし、思い返せば、僕らはそのときみんな教室のなかにいたのだ。
尾崎本人もまた学校のなかにいる。「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」という歌詞にあらわれているように、尾崎のベクトルは、学校内から学校外を目指すものだ。「この支配からの卒業」と歌われるように。
一方、そもそも社会の外に置かれているKRS・ワンにとって、その言葉は学校外から学校内を目指すものとなる。尾崎とはベクトルが逆なのだ。
ここにKRS・ワンの「Teacher」たるゆえんがある。
KRS・ワンは、アフリカン・アメリカンの言葉を社会や学校のなかに届けようとする。もう少し言えば、社会のなかにアフリカン・アメリカンというマイノリティの言葉を存在せしめようとする。そのために、みずからが「Teacher」となって、演劇的な身振り手振りとともに、なんとか「声」を響かせようとするのだ。
この社会の変革を求めるKRS・ワンの言葉とパフォーマンスは、このうえなく教育的であると同時に、このうえなく刺激的なエンタテインメントである。現在の規範に身を置くと同時に次なる時代の規範を演劇的に示すこと。いつのころからか、同じ「Teacher」としてKRS・ワンのような「声」を目指したいと思うようになった。(p.88-91)

 「学校外から学校内を目指す」言葉。「現在の規範に身を置くと同時に次なる時代の規範を演劇的に示す」という方法。こうしたことは学校の教室でもっとやっていきたいな、と思いました。「学校外から学校内」にどんなふうに届いているのかな、と思う曲にはときどき出会います。例えば、SEKAI NO OWARI の「Habit」の歌詞、毎年NHKで放送されている18祭の曲などもそう思わされます。


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 小学生、中学生、高校生が好きで聴いている曲の歌詞がどんなふうに受け取られていて、それをどう感じているのかを話し合ってみたいなと思いました(矢野先生が、いろんな生徒たちと音楽について話をしているエピソード、本のなかにたくさんあって、うらやましいなと思いました)。

 夏休みの宿題での作文について書かれていたところも、とても考えさせられました。あえて型を与えることの良さは、授業支援ツールを使ってワークシートを作るときにも参考になりそうだと感じました。

このあいだ初めて、夏休みの宿題として「夏休みの思い出について書きなさい」というベタな課題を出してみた。ただし、そこでは「結論はそれぞれ、「楽しかった」「楽しくも切なかった」とすること」という条件を付け、原稿用紙もその形式に合うようなものを用意した。「「楽しかった」「楽しくも切なかった」という観点から、夏休みの体験を編集し直す試みです」と。
そもそも夏休みなんてさまざまな経験をしているに決まっており、それなりに楽しくそれなりに切なくそれなりに嫌なこともあるものだ。では、そのようなまとまらない日々をどのようにパッケージングしようか。テクニックとして作文を捉えたとき、実際の夏休みの感触を忠実に再現するのではなく、自分が過ごした夏休みのどのような側面を強調しようか、という点に注意を向けてもらいたい。
文章を書くのが得意な子どもは、あまり意識せずとも、「楽しかった」というさしさわりのない結論を想定して、その結論に適した体験談をこしらえるという作業をしている感じがする。だとすれば、結論ありきの作文はそのプロセスの可視化である。「どうやって書き始めたらいいのか分からない」のなら、まずは機能的に言葉を出力してもらう。
(略)
文章を書くのが苦手な生徒はむしろ、頭のなかにあるあらゆる経験を言葉に反映させようとして、その不可能性のまえに立ちすくんでいるようにも見える。だから、書くためにはむしろ、パッケージングのほうに意識を向けてほしいのだ。
とはいえ、これは作文テクニック的な話にとどまらない。というのも、言葉になる以前の感触がゆたかなものであることは間違いないものの、それだけではおうおうにして、自分の経験を見失ってしまうからだ。自分の思い出をたしかなものにするためにこそ、その経験を言葉で整理して「分かる」ものにしておくのは大切なことなのだ。夏休みを「楽しかった」というかたちで整理しておくことは、その入門的な第一歩である。(p.92-94)

 自分の考えていることを言葉にできるようになってほしいと思っているので、こうして構造を整理してもらえるのはありがたいと思いました。

3章 教員

 「3章 教員」では、矢野先生が共に働いてきた先生方のことが書かれています。個性的な先生方が多く、学校が、こうした先生方と子どもたちが良い関係を結べる場であればいいな、と思います。なかで「マイメン先生」として登場してきた先生との対談記事も見つけてしまい、本のなかで紹介されていることをさらに豊かにわかるようになりました。

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4章 生徒

 「4章 生徒」のなかで、いろいろできないことがあることについて、「能力」という言葉について書かれていた部分がありました。

わたしたちは、ある「能力」をその人の私的な所有物かのように考えがちだが、このような考えかたは近年問い直しを迫られている。
そもそも、「能力」とはいったいなんだろう。身体の外側にあるものを借りたら、その人の「能力」にあたいしないのだろうか。
しかし、たとえば、義手や義足の人が身体を動かすことは「能力」に違いないではないか。自転車を操作して移動することは「能力」ではないのか。では、競輪選手は?スポーツ選手は?実際のところ、その人が「能力」をいかに発揮するかというのは、周囲との関係性や環境によって決まっている。
遠いところに行くのであれば電車や車に頼る。視力が悪ければ眼鏡やコンタクトレンズに頼る。わたしたちがなにかをおこなうときは、おうおうにして外部の存在との協同的な関係性のなかにある。
そうであれば、「能力」という考えかたを少し拡張しよう。ケンカに自信がなければ腕っぷしが強いヤツを頼ればいい。口下手ならば議論ができる人を頼ればいい。忘れっぽい人はしっかり者に頼ればいい。
この複雑で過酷な社会を見すえたとき、一般的な意味での「コミュニケーション能力」も「事務処理能力」もあったほうがいいのかもしれない。「プレゼン能力」も「ディベート能力」も高いほうがいいのかもしれない。しかし、それ以上に大事なことは、目のまえにいる人とお互いに支え合うような関係性を築けるかどうか、ということだと思う。(p.194-195)

 画稿で身につけるべき「能力」とは何か。また、それをどう評価するのか、ということともつながるテーマですが、「できないことは、誰かに頼れるようになるほうがいい」とおっしゃっている先生方はたくさんいらっしゃって、その先生方の顔が浮かびました。自分でできることが増えることはそれはそれで大事ですが、できないことを人に頼る、ということも同じように大事なので、こうしたところも学校での活動のなかに組み込んでいきたいと感じます。

6章 コロナ以後の学校

 最後の「6章 コロナ以後の学校」では、コロナ禍を経て、「オンライン授業主体にすればいいのではないか?」という声はあがっているが、「学校制度を廃止したらいい」という声はあがらないことをうけて、学校とはどういう場であるかについて書かれていました。

わたしたちは「単に知識を得る」以上のなにかを学校に見出している、ということになる。その中身はさまざまありうるが、僕の立場からしたら、それは身体的な交流ということになる。生徒・教員はじめさまざまな人が、それぞれの身体で生き、それぞれの身体で交流をする。そのような身体の水準での交流によって、お互いが影響を与え合う。
学校という場所ではそれを「成長」とかいった言葉で呼ぶのだろうけど、別にいわゆる「成長」というものにこだわらなくたっていい。
誰かと誰かが時間と場所をともにして、喜びや悲しみを共有すること。お互いに傷つけ合ったり助け合ったりしながら、ゆっくり歩みを進めること。それが社会の根本なのではないか。どんなにデジタル化が進んでも、その身体的な交流はどこかで残り続ける。
もっとも、そのような身体的な交流が、いかにも学校的な体罰やいじめにもつながるのだろう。そして、それは致命的な体験として刻まれてしまうだろう。だから、オンライン化によって、そのような暴力から解放される人がいることもたしかだ。
僕は鈍感で、人の心に土足で踏み込んでいくようなところがあるかもしれないけど(気をつけているつもりだけど)、身体的な交流は別に暑苦しく社交的になることばかりを意味しない。
落ち込んでいる人に声をかけてみるとか、声をかけなくとも肩に手を置いてみるとか、相手の話にうなずいてみるとか、そんな微細な身体の動き。それどころか、意識にものぼらないような身体のやりとりによっても、人と人とは交流している。
学校に行くのが死ぬほどつらいなら学校なんて行かなくてもいいと思うが、微細な身体の交流が完全になくなったら、それはそれで死ぬほどつらいのではないかと思う。学校がそうした社会とのつながりを全面的に担う必要はないが、さしあたりその大きな一部として存在しているのはたしかだ。(p.269-270)

 僕も、矢野先生が書かれていることに賛成です。矢野先生は「身体的な交流」と書かれていますが、時間を共にすることで生まれる何かが学校にはあるように思っています。

まとめ

 自分の好きな部分だけをメモとして共有しましたが、全6章がとにかくおもしろかったです。僕は学校が大事だと思っているし、学校という場が好きですが、どうして好きなんだっけ?というのを、言葉として与えてもらったような気がします。
 どの章も、先生方と子どもたちとでつくる学校生活のエピソードを通じて、いろいろなことを考えさせられますが、全体を貫いているのは「学校という場所で起こっている微細な身体的交流に注目する態度」(p.14)だと矢野先生は書いています。
 学校の先生方と、学校に子どもを通わせている子どもたちは、この本を読んでどう思うのかな、と思いました。

(為田)