教育ICTリサーチ ブログ

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『経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来』ひとり読書会

 宮台真司 先生と野田智義さんが大学院大学至善館で行った講義を再現した『経営リーダーのための社会システム論 構造的問題と僕らの未来』を読みました。「経営リーダーのため」ではありますが、社会がどんなふうに変わってきているのか、ということを知ることは、いま学校で学んでいる児童生徒たちが巣立っていく社会のことを思い描くのと同じことだと思っています。いろいろな視点を得られてたくさん読書メモをしたのですが、そのなかから学校の先生方とシェアしたい部分を公開します。

生活世界とシステム世界

 デジタル化を進めていくにあたって、「人と人の関係の温かみがなくなっていく」というのは、ときどき聞くネガティブなリアクションです。それに関連する感じかなと思った、「生活世界」と「システム世界」について書かれている箇所を紹介したいと思います。
 宮台先生は「生活世界が地元商店的で、システム世界はコンビニ的」と書いています。システム世界は最初は小さいものだったのが、便利なシステム世界になじんでいくうちに、侵食され、気がつけば生活世界がなくなっている(「システム世界の全域化=共同体の空洞化」)のが現状だと書かれています(p.86)。

先進国では、システム世界の全域化と共同体の空洞化が進行している。その結果、表層に浮上しているのが、孤独死や人間関係の希薄化といった問題だ。
ここには、前章で見た構造的貧困と同じ構図が存在する。一つは、「安全・快適・便利」を求める僕らの合理的な判断と行動の積み重ねが、人間同士の関係性を根本的に変化させ、僕らの精神的安定性を失わせているという点だ。短期的な便益を享受するために意図的にシステムに依存する行為(自律的依存)が、気がつけば、システムなしには生きられない他律的依存に頽落する。
もう一つは、悪役の不在だ。システム世界の全域化を推し進めているのは、邪悪な為政者でも、陰謀を画策する秘密結社でもない。安全・快適・便利を求めて地元商店ではなくコンビニを利用する一人ひとりの消費者たち、顧客のニーズ・ウォンツを充足しようと企業活動に勤しむ善良なビジネスパーソンたちの行動が原動力となって、システムは全域化していく。その結果、僕らは多くのものを失うが、この流れに抗おうとするならば、向き合うべきは、僕ら一人ひとりの中にある安全・快適・便利への欲望にほかならない。
こうした社会変容を理解するうえで指針を与えてくれるのが、ニクラス・ルーマンらが提唱した社会システム理論だ。生活世界とシステム世界を対比することで、僕らはより明確に社会変容の正体を掘り下げて理解できる。そして、この対比は、本書での議論と分析を貫く枠組みを提供してくれる。
生活世界は、人間関係が記名的、履歴的だ。それゆえ維持にコストがかかるが、その負担を覚悟しないと、システム世界の侵食を許してしまう。しかも、いったんシステム世界の全域化が始まると、社会の変容は基本的に不可逆となる。というのも、生活世界の維持をみんなで図ろうとしても、必ず誰かが抜け駆けしてシステム世界の便益を享受しようとしてしまうからだ。その誰かは、他の人々と違って生活世界にフリーライド(タダ乗り)するだけで、維持に努力を払おうとしない。また、そもそも他の人々とは価値観が異なっていて、システム世界で生きることを能動的に選択する。同じことは、新興国や途上国においても、その文化的・宗教的背景によって進行の度合いに違いはあるにせよ、起こりうる。
生活世界とシステム世界には、それぞれプラス面とマイナス面があるが、厄介なのは、社会が「つまみ食い」を許さないということだ。(p.91-92)

 生活世界とシステム世界の違い、それぞれのプラス面とマイナス面、そうしたことを考えていく必要があると思います。一人1台の情報端末をもった学校で、学びの場が「システム世界」の方に行ってしまえば、大切なものが失われてしまう可能性もあると思います。授業支援ツールを管理ツールとして使うようになってしまうとか、いろいろと当てはまりそうな事例もあるように思いながら読みました。
 (生活世界とシステム世界、めちゃくちゃおもしろい考え方だなと感じました。引き続きいろいろと読んでいきたいと思います。)

共通感覚を育む機会が失われてきている

 最近、「どうしてそういうことするの?」と思うような事件が増えてきているように思います。いくつかの事件の背景に、共通感覚を育む機会が失われてきていることがあるのではないか、ということが書かれていました。

共通感覚は、社会によって、時代によって、変わります。打ち上げ花火の水平打ちの話をしましたが、僕や野田さんが子どもの頃は、カエルのお尻に爆竹を入れて爆破する遊びや、ミミズを切り刻む遊びもやりました。僕らの世代は、「法」の外での享楽をシェアすることで、共通感覚に支えられた「掟」を育み、仲間をつくる喜びを知ったのです。
今はそんな遊びは許されません。正確に言えば昔も許されなかったのですが、だからこそやっていたのです。昨今では親や先生の目が届かない外遊びの機会そのものが減りました。そういう環境だと、子どもたちは、仲間と一緒にいる喜びを知らないまま育ち、仲間をつくる仕方もわからなくなります。
(略)
つまり、第1に、法の外での外遊びの共同身体性を通じて、共通感覚を育んで「本当の仲間になる」営みが消え、第2に、家庭環境がまったく違ってもゴチャゴチャに混ざって遊ぶことで「誰もが共通感覚を持っている」という感覚を育む営みが消えました。それが友だちになりにくい状況を生み出し、それゆえにますます共通感覚を育みにくくなるという悪循環が回っています。その結果、感情の働きの分散(ばらつき)が広がり、一部にかつてありえなかったような感情の働きを人に対して示す「感情が壊れた」人間を生み出すことにつながります。(p.100-101)

 この、「共通感覚を育む機会」を与える場として、学校が果たす役割は大きいように思います。「共通」のところが強く効きすぎて、同調圧力がかかり過ぎてしまうことがあったと思うので、そこを調整しつつ、できるだけ「共通感覚を育む機会」をもっていてほしいなと思います。
 SNSなどを通じて、自分と気が合う人が周りに全然いなくても、遠くにいる人と繋がれるから寂しくない、というのが実現されましたが、そうなると今度は「自分に近い人としか一緒にいない」ということにもなってしまいます。そうすると、「仲間以外はみな風景」(p.100)という感受性になってしまうことも考えられます。これも考えなければならないポイントだと思います。

男女の性愛とマッチングアプリ

 実はこの本を読んでいていちばんたくさんメモをとったのは、「性愛」について書かれていたところでした。デジタルは、性愛についても大きく変えていきます。

かつての男女の性愛と、現在のそれは、コミュニケーションの仕方がかなり異なります。どういうことか説明しましょう。
かつての性愛は、男女が集まる場から始まりました。かつては若衆宿、後には部活やサークルとか、課外活動を含めての職場とかです。一緒にいるうちに、特定の人のことが気になり始め、だんだん好きになり、気がついたらすごく好きになっていた。性愛はそんなふうに始まりました。一緒にいることでだんだん好きになるので、好きになった理由はよくわかりませんでした。だから、自分がタイプだと思っていたのとは違うタイプの異性とつき合ったり、結婚したりが、ふつうでした。
現在は違います。長くトゥギャザでいられる(一緒にいて空間と時間を共有する)場が激減しました。大学生の多くはサークルに入らないし、職場でも仕事が終わればさっさと帰宅します。するとどうなるか。人は基本的に、「この人がいいな」というふうにターゲットを決めてから相手に近づくことになります。知らない人に声をかけるという意味でのナンパが増えていく過程は、トゥギャザでいられる時空が減っていく過程と、並行します。その結果、男性が街の中で見知らぬ女性に声をかける形での出会いが目立つようになったのです。
考えてください。ターゲットを決めて相手にアプローチする場合、集まってコミュニケーションするうちに好きになるのと違い、当然「属性主義的」になります。「美人だ」「イケメンだ」といったスペックに反応して相手を選ぶようになるということです。するとどうなるか。かわいいという属性で好きになった男性は、女性から「なぜ私のことが好きなの?」と聞かれて「かわいいから」と答えます。それだと、敏感な女性は「かわいい子はほかにもいるよ」と感じてしまう。つまり入れ替え可能性を感じてしまいます。これは現にそうなっています。(p.139-140)

 テレビで普通にマッチングアプリのCMが流れるようになっているし、マッチングアプリの利用者も拡大していると思います。全然悪いことではないと思いますが、「属性主義的」になるというのは、マッチングアプリの機能そのままだと感じました。

マッチングアプリを通じた出会いが、若者たちの性愛関係を回復できるのでしょうか。結論的にはノーです。マッチングアプリを使っている人は、システム世界に依存して、性愛のいいとこ取り=つまみ食いをしようとしているだけだからです。そうした性格は、1985年に誕生したテレクラ以来、何の変化もありません。
先ほどの話を思い出してください。昔の男女の出会いは、まず集まりの場があって、そこで知り合った人同士が、同じ時空間を一緒に過ごしながらコミュニケーションを交わすうちに、気がついたら好きになっていたというものでした。だから、周囲にとっても自分にとっても意外な人と、恋に落ちてしまう。そのことこそが、意外なものへの開かれという意味で、性愛の喜びでした。
これに対し、マッチングアプリを使う場合は、最初に属性で検索を設定し、スマホ画面に次々に表示される異性の写真をどんどんスワイプしては、どんどん「いいね」ボタンを押していきます。(略)
(略)
マッチングアプリは便利なシステムですが、人間が求めているはずの全人格的な性愛関係を回復させるものではなく、むしろ属性主義や損得化を加速させる方向で確実に機能しています。(p.145-147)

 中学校や高校で、「一緒にいるうちに、特定の人のことが気になり始め、だんだん好きになり、気がついたら好きになっていた」というのって、たしかに「かわいい」とか「野球が好き」みたいな属性で好きになったわけじゃなかったな、と思ったりもします。また損得で好きになっていたわけでもない。
 学校が属性や損得を超えて好きな人を見つけられるような場である必要はないし、中学生や高校生がマッチングアプリの長所短所まで全部知っていなければいけないとは思うけれども、こうした社会の流れがあるのだということを先生は知っていてもいいように思いました。少なくとも、僕はこういう意識でマッチングアプリを見たことがなかったので、世の中の見え方がずいぶん変わりました=勉強になりました。

求められるリーダー像

 本の最後に、宮台先生からのメッセージが書かれていました。宮台先生がよく話してる内容で、僕がとても好きなところです。

この講義の最後の最後に、お伝えしておきたい言葉があります。
「ミメーシスを起こす人間たれ」
これが僕たちからみなさんへのメッセージです。権力をベースにトップダウンで命令を下すのではなく、人々の信頼を得て共同体自治の確立に向けて人々をエンパワーするリーダー。利他的・倫理的で、周囲から「こんな人になってみたい」と憧れられるリーダー。そんなリーダーにみなさんになっていただきたいという僕たちの願いを込めた言葉です。(p.282)

 ここで書かれている、「ミメーシス」は「感染的模倣」で、人が他者の振る舞いに対して感動や共感をおぼえ、内側からわき上がる衝動に従って同じ行動を取ろうとすることを言います。つまり、「この人みたいな人間になりたい」と人々に思わせる力です。
 いろんな人と交わって、「この人みたいな人間になりたい」と思える機会をもつ、学校をはじめとする学びの場は、そんな場になってほしいと思います。

まとめ

 「経営リーダーのための」と書かれていますが、「社会システム論」なので、社会を見るときの見方や価値観をアップデートすることができる本でした。社会がどんなふうに見えているかによって、学校がどんな学びの場であるべきかという考えも変わってくると思います。先生方の「やりたい教育」をサポートするための引き出しが増えたように感じられる本でした。社会システム論、続けて勉強したいと思います。

(為田)