A・コリンズ、R・ハルバーソン『デジタル社会の学びのかたち Ver.2 教育とテクノロジの新たな関係』をじっくり読んで、Twitterのハッシュタグ「#デジタル社会の学びのかたち」を使って、ひとり読書会を実施したのをまとめておこうと思います。
「3章 テクノロジ懐疑派の意見」には、新しいテクノロジを教育に活用することについての懐疑的な意見がまとめられています。こちらの立場のことを知るのも重要だと思います。
「学校教育の保守的な勢力は、指導と学習という教育実践のコアを気を散らせる(危険ですらある)新しいメディアの影響から守りたいと考えています」(p.39) #デジタル社会の学びのかたち
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) October 17, 2020
「公立学校は、すぐれて耐性のある制度です。実際、公教育の組織構造とその普及拡大は、アメリカが世界の文化に貢献した、最も価値あることの1つといってもいいでしょう」(p.40) #デジタル社会の学びのかたち
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) October 17, 2020
かつて、徒弟制のなかでしか学びがなかった時代から、学校制度をはじめとする公教育制度ができ、これが成功しているからこそ、新しいテクノロジを入れにくいということもあるのだと思います。これは、アメリカよりも日本はもっと顕著な気がします。
時代として「今まで大丈夫だったから」とか「大学進学率がいいから」「学力テストの成績がいいから」などは、現状の教育の成功であるがために、新しい変化を取り入れる障壁にもなっていると思います。成功しているときほど、変えにくい。
ここで書かれている「公教育の良さ」っていうのは、しっかり考える必要があると思っています。ここがうまくいきすぎたから、成功体験に縛られて捨てられていないこともたくさんあるのですけど。だからこそ、きっちりそれこそ「振り返り」をして、未来へ歩み出してほしい。 #デジタル社会の学びのかたち
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) October 17, 2020
そこから、「学校教育の組織構造は、指導と学習の伝統に影響を与えることなく、革新的なテクノロジを処理するために、3つの戦略を展開」(p.44)していると書かれていて、これらについて言及されています。
- テクノロジに対する非難
- 既存のシステムに簡単に組み込めるテクノロジを取り込む
- テクノロジを軽んじる
- テクノロジに関心のある教師は、一般的な学校の文脈とは別に新しい専門プログラムをつくることができる。が、そうして新しくつくられたプログラムは、「教師が専門知識を生徒に伝え、彼らが授業科目を学んだかどうかをテストで確かめるといった教育の最も基本的な骨組みを変えることはできないでいる」(p.45)
- 「子ども中心の教育を構築するための改革は、今のところ、初等教育のフレキシブルな部分でわずかに実施されるにとどまっています」(p.45)
- 「現在、K-12教育において進められている、カリキュラムと評価を標準化しようとする動きが、情報テクノロジを基盤とした新しい授業の採用に向かうことは、あり得ないでしょう。ほとんどの州で学習のスタンダードとされているのは、基礎的なスキルの獲得と、広範囲にわたる学習内容の理解の両方です」(p.45)
ここで懐疑派の戦略の2つめとして書かれている、「既存システムに取り込みやすいところだけテクノロジを導入」は、僕としては片棒を担いでいる自覚もあります。教員研修をすれば、「今までの授業を全部変えるわけではありません。テクノロジー(ICT)を武器にして、今の先生方の授業をもっと良くしましょう、パワーアップしましょう」と言っているので。何もテクノロジーが導入されていかない=成果ゼロよりはいいと思っているのです。ただ、そこで止まってしまうのではなく、その先にどんなふうな「新しい学び」が見えるのか、をきちんと想像してもらわないといけないな、といつも思っているつもりです。
「学校におけるテクノロジ活用をはばむもの」として挙げられているのは以下のもの(p.46-52):コストとアクセス、教室の管理、コンピュータが教えることができないもの、指導方法の課題、「権威」と「教える」ということ、評価 #デジタル社会の学びのかたち
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) October 17, 2020
さらに、学校においてテクノロジ活用をはばむものもかかれています。
学校においてテクノロジ活用をはばむもの(p.46-52)
- コストとアクセス
- コンピュータをネットワークに接続するコスト。(安くなってはいるけれど)
- 情報端末も増えてきている。が、「情報端末の存在感が高まってきているにもかかわらず、多くの教師が授業実践を変化させることに時間がかかっています」(p.46)
- 教室の管理
- 教室にコンピュータが整備されても、指導に関わる問題は発生する。コンピュータで学ぶようになると、一斉指導ができなくなる。
- 「コンピュータの前に座っている生徒たちが一緒に活動する場合、騒いで他の生徒のじゃまになってしまいます。コンピュータで活動できない生徒は、取り残されていると感じます」(p.47)
- 教室にコンピュータをおけないというスペース上の問題もある。
- コンピュータを使う学習には時間と指導上の問題もある。(起動、生徒の準備などに時間がかかる)
- コンピュータが教えることができないもの
- 人が成長する過程で学ばなければならない、「友達と分け合うこと」「ルールを守って遊ぶこと」「人をたたいてはいけない」…などを学ばせることができない。
- 「教師は、コンピュータがなじまない、多くのことを学習に持ち込んでいます」(p.48)
- 「教育者の立場からみればコンピュータは単なるコンテンツの提供役であり、子どもたちの成長にとって、コンテンツは最も重要なものではないのです。そのため、ほとんどの教師と学校長は、コンピュータはけっして教室を支配すべきでないと感じているのです」(p.48-49)
- 指導方法の課題
- 「多くのコンピュータ・アプリケーションを駆使した革新的な指導方法は、教師の仕事をより困難にしています」(p.49)
- 「権威」と「教える」ということ
- 「コンピュータは、教室で教師がもっている権威―とくに正しい知識とは何かに関わるような権威―を弱めます。インターネットに接続すると、コンピュータは、さまざまな情報源から得られる、多様な情報へと教室を開きます。(略)コンピュータを指導に取り入れることで、教師は権威を失うリスクを負ってしまうのです」(p.50)
- 「教師は、みずからの専門性を、生徒と共有することを好みます。コンピュータを頻繁に使うことになれば、教師たちは、教室という舞台の中央の位置を手放さなければならないでしょう」(p.50)
- 評価
- いまされている標準テストは、コンピュータが最も役に立つたぐいの学習とは反している。「標準テストによって、教育とは、個別的な知識やスキルを学ぶことであり、調査やプロジェクトを行うものではないといった信念がきょうかされる傾向があります」(p.52)
- 「コンピュータは、コンピュータ室のような学校の周辺に追いやられたままで、生徒が合格しなければならない多くのテストに必要なスキルを練習させるために、教師が生徒を連れていく場所なのです」(p.52)
学校とテクノロジの矛盾(p.52-58):画一的な学習vsカスタマイズ、専門家としての教師vs多様な知識の情報源、教師vs学習者コントロール、評価の標準化vs専門家、知識の囲い込みvs外部リソースの活用、知識の詰め込みvs知識の爆発、吸収する学びvs為すことによる学び #デジタル社会の学びのかたち
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) October 17, 2020
こんなにたくさんの矛盾があるのだ、ということが書かれています。ただ、テクノロジをいまどんなふうに社会で使っているかを見ていけば、この矛盾をどちらの方向に整合させるほうがいいのか、というのは方向づけられるのではないかと思います。
テクノロジ懐疑派にとって「学校教育の重要な使命は、生徒を刺激し、人類の英知を理解させ、問題を深く考えさせ、異なる視点をふまえ、説得力と一貫性のある方法で自分たちの考え方を伝えられるようにすることだと考えています」(p.58) #デジタル社会の学びのかたち
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) October 17, 2020
「学校は、この先必要とするかもしれないすべてを教えるために設計されています。しかし、既存の知識に簡単にアクセスできるツールが与えられたことによって、それらは徒労に終わるかもしれないのです」(p.59) #デジタル社会の学びのかたち
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) October 17, 2020
「一方で、新しいテクノロジは学習をまったく異なるアプローチでサポートします。必要なことを必要なときに学ぶのです。教育を受けることの意味を変えていくために、私たちの社会に何が求められているのでしょうか」(p.59) #デジタル社会の学びのかたち
— 為田裕行 (@Hiroyuki_Tameda) October 17, 2020
本当にそのとおりで、テクノロジがある世界で「もしテクノロジがなかったら…」と考えることに意味は内容に思います。また、だからといって、今までの公教育を全否定することにはならないのですが…。ここは公教育のシステムが大きいし、関わる人が多いからこそ、大変な部分ではありますが、手をつけずにはいられないところだと思います。
No.4に続きます。
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(為田)