教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『遅いインターネット』

 宇野常寛『遅いインターネット』を読みました。仕事として教育に関わっているなかで、ICTをどう取り入れていくかというのはけっこう中心に近い仕事になっています。宇野さんは、「いま、必要なのはもっと「遅い」インターネットだ」というメッセージを、この本のなかで何度も何度も、伝えています。

 もうこれだけインターネットが普及したら、「使わない」という選択肢はどんどんなくなっていくだろうと思っているので、「どう使うか」をどう身につけるかということが大事なんじゃないかと思っています。仕事に関連して、「これからの子どもたちはインターネットをどう使っていくべきなのだろう」と考える参考にしたいと思った、自分のための読書メモを公開します。

現在のインターネットは人間を「考えさせない」ための道具になっている。かつてもっとも自由な発信の場として期待されていたインターネットは、いまとなっては、もっとも不自由な場となり僕たちを抑圧している。それも権力によるトップダウン的な監視ではなく、ユーザーひとりひとりのボトムアップ同調圧力によって、インターネットは息苦しさを増している。
一方では予め結論を述べてくれる情報だけをサプリメントのように消費する人々がいまの自分を、自分の考えを肯定し、安心するためにフェイクニュース陰謀論を支持し、拡散している。そしてもう一方では自分で考える能力を育むことをせずに成人し、「みんなと同じ」であることを短期的に確認することでしか自己を肯定できない卑しい人々が、週に一度失敗した人間や目立った人間から「生贄」を選んでみんなで石を投げつけ、「ああ、自分はまともな側の、マジョリティの側の人間だ」と安心している。
これらはいずれも、「考える」ためではなく「考えない」ためにインターネットを用いる行為だ。ネットサーフィンという言葉が機能し、インターネットが万人に対しての知の大海として開かれる可能性は、つい最近まで信じられていたはずだ。しかし、もはやそれは遠い遠い過去のことのような錯覚を僕たちにもたらしている。(p.184-185)

 僕自身は、インターネットは、大学生のときにMosaicを使い始め、キャンパスでは同級生・先輩・後輩の書いている日記(当時はまだブログという言葉もなかった)を読み、その後もいろいろとネットに文章を書いたり、SNSを楽しんだりしてきました。いい思いも、いやな思いもそれなりにしていて、「ネットが好き」も「ネットが嫌い(怖い)」も、どちらの気持ちもわかるのですが、けっきょく「どう使うか」じゃないかと思っているわけです。たしかに、「考えない」ためにインターネットを用いている人は多いのかもしれないな、と思います。

たしかにインターネットは多様な情報発信を可能にするメディアである。だが同時にこのインターネットという素晴らしい装置は、発信能力を与えられたところで発信に値するものをもっている人間はほとんどいないことを証明してくれた。たしかに世界は多様だがこれらの多様さを確保しているのは一握りの天才と(言葉の最良の意味での)変態たちで、大抵の人間の考えていることは少なくとも自己評価ほどにはユニークではない。いや、はっきり言ってしまえば一様なものに過ぎない。そのことをインターネットは証明してくれたのだ。
(略)
この四半世紀のあいだに、人類の何割かは確実に発信することでより愚かになっている。少なくとも発信する能力を得ることで、その愚かさを表面化させている。この現実から、僕たちは目をそらすべきではない。(p.190)

 だからといって、「インターネットを使って発信することに意味がない」ということではありません。いやでも、そもそも学校ではこうしたことさえも教えられていないのですが…。
 いま、授業支援システムを使って子どもたちの書いたものを一瞬で教室内で共有したり、コメントを送り合ったり、ということをしていますが、小学生の頃からすでに承認欲求っぽいものも見えるし、「○○ちゃんが書いたから、いいねつけたよ!」というような人間関係が見えたり、くだらないコメントばかりが飛び交ったり、ということをときどき見かけます。
 このあたり、この本のなかで宇野さんは吉本隆明の三幻想と絡めて書かれていて、ここもすごくおもしろかったです。

共同幻想論』で吉本隆明は人間がその世界を認識するために、三つの幻想が機能すると主張した。それが自己幻想、対幻想、そして共同幻想だ。自己幻想とは文字通り自分自身に対する像、つまり自己像のことだ。対幻想とは1対1の関係について、その二者があなたと私はこのような関係なのだと信じる幻想だ。共同幻想とは集団が共有する目に見えない存在のことだ。そして、この当時の吉本が提示した三幻想の区分は今日の情報社会を考えるにあたって、極めて有効な視座を与えてくれる。なぜならば、この三幻想は今日の情報社会――とりわけインターネット上のコミュニティを形成するソーシャルネットワーキングサービス――の基本構成と合致しているからだ。
そう、自己幻想とはプロフィールのことであり、対幻想とはメッセンジャーのことであり、そして共同幻想とはタイムラインのことに他ならない。卑近な例を挙げるのなら、自己幻想の肥大した人間はFacebookに依存し、対幻想に依存する人間はその対象となる人物とのLINEに執着し、そして共同幻想に同化する人々はTwitterに粘着する。自分がいかに社会的に、文化的に充実した生活を送っているかをアピールしたい人々は、常にFacebookのウォールに著名人とのセルフィーや意識の高いイベントへのチェックインを投稿し、この人にだけは認められていればよいと依存してしまう人々は四六時中LINEの既読マークを気にしながら生活している。そして、社会に対して「発言」することで(その多くは、失敗した人物や目立ちすぎた人物への、集団リンチ的な苦言として表現される)何ものでもない自分を底上げしたがる人々は常にTwitterのタイムラインの潮目を読んでいる。そう、人類はいつの間にか吉本の提起した三つの幻想に基づいて情報社会を構築しつつあるのだ。(p.135-136)

 子どもたちがきちんとインターネットを使いこなせないからといって、「その程度だから使わせない」というふうにしていてはいけないと思うのです。インターネットという技術を、どう使うかということにしっかり向き合う場を、学校でこそ作ってあげて、目が届く範囲で良さも怖さも教えてあげたいし、体験してもらいたいと思っています(まだ、自分は全然そこまで行けていないと思っているんですけど…)
 「発信すること」にどう向き合えばいいのか、ということも宇野さんは書いてくれています。

これからインターネットを用いて不特定多数に発信するスキルは、決してメディアや広報関係の仕事についている人だけに必要とされるものではない。むしろ公私に亘って、僕たちの社会生活の基本的なスキルになるはずだ。しかしその反面、世の中に何か自分の考えを述べたいが技術が追いつかなくて、コメント欄やソーシャルブックマークでタイムラインの潮目を読んで同調圧力に加担してしまうというケースは意外に多いはずだ。またこういう卑しい「発信」をしてしまう人が目立ってしまういまのインターネットにウンザリして、自分が発信することに二の足を踏んでいる人も多いはずだ。だがもはや僕たちは「書く」ことから逃れることはできない。


そう「書く」こと、「発信する」ことはもはや僕たちの日常の生活の一部だ。この四半世紀で、「読む」ことと「書く」ことのパワーバランスは大きく変化した。前世紀まで「読む」ことと「書く」ことでは前者が基礎で後者が応用だった。「読む」ことが当たり前の日常の行為で「書く」というのは非日常の特別な行為だった。しかし現代では多くの人にとっては既にインターネットに文章を「書く」ことのほうが当たり前の日常になっている。これまで僕たちは「読む」このと延長線上に「書く」ことを身につけてきた。しかし、これから社会に出る若い人々の多くはそうはならない。彼ら/彼女らの多くはおそらく「書く」ことに「読む」ことより慣れている。現代の情報環境下に生きる人々は、読むことから書くことを覚えるのではなく、書くことから読むことを覚えるほうが自然なのだ。これは現代の人類が十分に「読む」訓練をしないままに、「書く」環境を手に入れてしまっていることを意味する。だが、かつてのように読むこと「から」書くというルートをたどることは、もはや難しい。それは僕たちの生きているこの世界の「流れ」に逆らうことなのだ。
ではどうするのか。現代に置いて多くの人は日常的に、脊髄反射的に、たいした思慮も検証もなく「書いて」しまう。ならば「読む」ことと同時に「書く」ことを始めるしかない。いや、より正確には訓練の起点は「書く」ことになるはずだ。まずはプラットフォームの促す脊髄反射的な発信ではない良質な発信を動機づけ、その過程で「書く」ためには「読む」ことが必要であることを認識させる。そして「読む」訓練を経た上でもう一度「書く」ことへの挑戦を求める。「読む」ことではなく「書く」ことを起点にした往復運動を設計する必要があるのだ。(p.198-200)

 ここには、授業のなかにどのようにインターネットを使って発信するか、インターネットとどういう付き合い方をするか、ということが書かれていると思いました。宇野さんは、「情報社会から程よく距離をとる」、情報社会への「気持ちのいい進入角度とほどよい距離感」という表現をしていますが、まさしくそうした体験を、できるだけ学校でさせなければ本当はいけないのだろうな、と思っています。
 授業だけでなく行事なども含めて多面的に子どもたちを見ている先生方がいる学校だからこそできる関わりがあるのではないかと思っています。そうしたことについて考える良い機会になりました。

(為田)