教育ICTリサーチ ブログ

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『デジタルで変わる子どもたち 学習・言語能力の現在と未来』ひとり読書会

 バトラー後藤裕子 さんの『デジタルで変わる子どもたち 学習・言語能力の言語と未来』を読みました。

 バトラー後藤 さんの専門は「子どもの第二言語習得・言語教育および言語アセスメント」であり、この本のテーマも、「学習・言語能力」にフォーカスしたものになっています。以下のような目次になっています。

第1章 デジタル世代の子どもたち
第2章 動画・テレビは乳幼児にどう影響するのか?――マルチメディアと言語習得
第3章 デジタルと紙の違いは何?――マルチメディアと読解力
第4章 SNSのやりすぎは教科書を読めなくする?
第5章 デジタル・ゲームは時間の無駄?
第6章 AIは言語学習の助けになるか?
第7章 デジタル時代の言語能力

 特に第3章から第7章にかけては、一人1台の情報端末が入った小学校・中学校のことを考えたときに、学びや気づきに繋がることが多いのではないかと思いました。気になった部分などを、メモとして共有していきたいと思います。

第3章 デジタルと紙の違いは何?――マルチメディアと読解力

 まずは、「第3章 デジタルと紙の違いは何?――マルチメディアと読解力」から、デジタルと紙を組み合わせて使うことの重要性を説いている部分です。

普段から仕事上、テクストを多く読む人たち(作家、研究者、編集者など)を対象にした研究によると、このような読みの達人たちは、紙媒体、デジタル媒体のそれぞれの特徴を把握した上で、目的に応じて、両者を使いわけ、それぞれ有効なストラテジーを身につけていることがわかる。たとえば、ある現象の大まかな傾向をつかみたい時には、デジタル媒体でヘッドラインや写真をとばし見し、詳細な情報を正確に得たい時には、プリントアウトして、他情報へのリンクがあえてできない状況を作り、テクスト情報の理解に集中するなどである。こうした達人は、紙媒体、デジタル媒体の持つ特徴を有意義に利用して、情報を効率的に選別し、正確に理解し、知識として蓄えている(Hillesund, 2010)。
しかし、このような使い分けやストラテジーを構築できないまま、情報過多のデジタル環境に放置されたままになっていると、必要な情報を正確にとらえることが難しくなる可能性がある。非言語情報に大きく頼った情報処理の仕方ばかりしていると、学校教育の場で求められるように、テクスト情報だけから意味を構築したり、テクストと非言語情報とを相互的に使いながら正確に意味を構築することが難しくなる。非言語イメージに大きく支配された表象は、「自己完結的」と記されることがあるように、多様な解釈を生み、創造性に貢献する一方、科学概念の理解など、意味の構築に正確さを求められる際には、問題となる可能性がある(Hillesund, 2010)。(p.138-139)

 参照されているのは、「Hillesund, T. (2010). Digital reading apaces: How expert readers handle books, the Web and electronic paper. First Monday, 15(4)」となっていて、検索してみるとPDFで読めるようになっていました。

 第3章では、この他にも『ペーパーレス時代の紙の価値を知る 読み書きメディアの認知科学』も参照されていました。
blog.ict-in-education.jp

 そして、第3章の最後では、情報活用能力につながるまとめがされていました。

この章では、デジタル絵本・物語本などの電子書籍が、学齢期の子どもや大学生の読みにどのような影響を与えるのかを見てきた。デジタル媒体は紙媒体の特徴を取りいれ、両者の媒体を通した読解の差は近年縮まってきたが、紙媒体の持つ身体性・物理性を克服するまでにはいたっていない。私たちの読みに手の果たす役わりは大きいようだ。
デジタル機器により、膨大な情報にアクセスすることが簡単になったが、デジタル機器による情報を有意義に使いこなすには、情報処理を戦略的に行う技を身につける必要がある。そうした技を身につけ、デジタル環境を享受できる人がいる一方で、情報処理を戦略的に行う技を身につけないまま、情報過多環境に置かれていると、必要な選択ができないまま、一部の情報だけに頼ったりすることで、正確な意味構築や批判的な読みができなくなる可能性がでてくる。(p.141-142)

第4章 SNSのやりすぎは教科書を読めなくする?

 続いて、「第4章 SNSのやりすぎは教科書を読めなくする?」では、SNSで発信する言葉についての知見が紹介されていました。普段、授業支援ツールを使っていて子どもたちのチャットやコメントでの言葉づかいについて考えている先生は多いのではないかと思います。デジタルで言葉を使うことによる変容も考えていく必要があるかもしれない、と思いました。僕は、「学校でやる作文などは、デジタルをもっと使えばいいのに」と思っているので、非常に参考になりました。

スマートフォンやいわゆるガラケー(フィーチャーフォン)上で行われるやりとりには、ユニークな特徴がある。若者のSNSのメッセージを見て、外国語か暗号かと思った年配の読者もいることだろう。携帯電話などのデジタル機器で「打って」使われることから、SNSやメールで使われる文字ことばを「打ちことば」などといったりする。英語ではテクスティングやテクスト・スピークと呼ばれる。(p.145)

 他にも、社会言語学者の三宅和子さんと米川明彦さんのコメントも書かれていました。

日本でもSNS上の打ちことばが言語コミュニケーション能力に及ぼす影響を指摘する声はある。社会言語学者の三宅和子は、「ウイットが効いているなど文字の使い方のスキルは高くなっていると思う」とその創造性を高く評価する一方で、デジタル世代は対人コミュニケーションが少なくなったため「相手のことばに即応したり、表情を読み取ったりする対人関係の力は醸成されにくくなったと言える」とし、「このため価値観や世代が異なる人に理解してもらうことに対して敏感ではなくなったと感じる」と述べている(三宅 2018)。同じく、若者のことばを長年研究している社会言語学者の米川明彦は、「ことばを厳密に使い分けるのを煩わしいと考え、自分の思いを丁寧に説明するのも面倒ととらえる傾向が顕著である」と言っている(米川 2017)。
社会言語学者は、ことばの変化を肯定的にとらえる人が多いが、打ちことばの魅力をたたえつつも、デジタル世代の言語表現能力への懸念も隠していない。(略)「打ちことば」と学校教育をどのように共存させていくかは、難しい課題だといえそうだ。(p.154-155)

newswitch.jp

www.yomiuri.co.jp

 最後に第4章のまとめです。子どもたちが、「SNSでの言語使用だけしかできない」という状況にならないようにしなければならないと思っています。SNSでの言語使用、デジタルでの言語使用も取り込んで、文章を書けるようにするには、どういった授業が必要なのだろう、と考えさせられました。

SNSの上の言語使用は、「打ちことば」と呼ばれ、非常に創造的でユニークな特徴を持っている。新しいコミュニケーション形態であり、今や、多くの子どもたちの生活の一部だといってもいいだろう。
ただ、SNSをはじめ、スマートフォンへの過剰依存は確かに潜在的な問題を含んでいる。デジタル世代のSNS使用は動画中心へとますます加速化している。したがって、SNS以外でテクストに触れる機会がないと、思考や学習の土台となる言語認知能力がしっかり身につかない可能性が高くなる。そうした状況をきちんと把握し、効果的な対策を打たないと、テクストを読むこと自体が苦痛となる子どもたちが増えてしまうかもしれない。SNSの打ちことばだけでなく、さまざまなタイプの言語テクストに触れる機会を十分に確保していくことが大切だろう。また、ある程度の長さのテクストから意味を構築するための耐久力を培う練習は不可欠だ。そもそも学習とは、意味を構築することなのだから。
その一方で、ただ、むやみにスマートフォンをデジタル世代から排除しようというのは、あまり現実的ではないし、また必ずしも生産的ではないだろう。SNSもスマートフォンも使い方次第だといえる。(p.181)

第5章 デジタル・ゲームは時間の無駄?

 「第5章 デジタル・ゲームは時間の無駄?」のなかで紹介されていた、デジタル・ゲームのなかで子どもたちが言語を学んでいる様子はとても印象的でした。学校での英語の授業でなかなか実現できない、「もっとコミュニケーションしたい!」という動機づけがゲーム内で実現されているのは、ありそうだと感じました。

デンマークの7歳から11歳までの小学生が、放課後や家庭でどのようなデジタルでの活動をしているのかを調べたある研究では、ゲームのエキスパートが英語を媒介してゲームを行っていることに触発されて、わざわざデンマーク語ではなく英語を選んでプレイしたり(英語でのほうが、いろいろな技や戦略などに関する情報を、デンマーク語より多く得られるらしい)、ゲーム・コミュニティーの一員になるために、機械翻訳などを使い、外国語でのやりとりにも挑戦するなど、目標を持った言語使用をしていることが報告されている。そして、デジタルの世界で英語の言語活動を活発に行なっている児童ほど、学校での英語の授業は現実味に欠いていると感じており、興味を失う傾向にあることも記されている(Jensen, 2019)。(p.195-196)

 「ただゲームをさせていればいい」というわけでもない、ということも書かれています。

ゲームを取り入れた学習では、教師や保護者の役割も実は非常に大切であることが指摘されている。特に年少者の場合は、その役割が大きい。むやみにゲームを導入するのではなく、適切なガイダンスと、ゲームを使った学習に対する大人の理解が必要であるといわれている。教師の側が、ゲーム・ベースの学習に不信感を抱いていれば、効果がでなくても、それほど不思議ではないだろう。(p.221-222)

 最後にまとめです。ゲームには学びの動機づけを高めるヒントが隠されている、と言います。

この章では、デジタル・ゲームと第二言語・外国語習得におけるゲーム使用の可能性についてみてきた。ゲームは、人間の歴史の中で、学習のツールとして利用されてきた。そして、デジタル・ゲームは今、多くのデジタル世代の心をつかんでおり、その中には、動機づけを高めるヒントがいろいろと隠されていると予想できる。
デジタル・ゲーム世代は、ユニークな認知スタイル・学習嗜好があると考えられており、そうしたスタイルや嗜好に合った学習方法への模索が大切になってきている。繰り返しにはなるが、ゲーム的なアプローチには可能性もある一方で、個人差もあり、すべての子どもたちが好むわけではないことも、押さえておかなくてはならないだろう。(p.222)

 ここで書かれているように、誰もがデジタル・ゲームを好きなわけではないですが、ゲーム以外でも、何か熱中できるコンテクストのなかで言語を学びたくてしかたない状況を作れたらいいな、と感じました。

第6章 AIは言語学習の助けになるか?

 第6章で紹介されていた、「機械翻訳を英語クラスで使う余地はあるか」という課題は非常におもしろいと思いました。英語の先生方と話してみたいです。

筆者の勤務するアメリカの大学の英語教師養成のコースで、「機械翻訳を英語クラスで使う余地はあるか、ない場合はなぜか、ある場合はどのように使えると思うか」というテーマでエッセイを書いてもらったところ、ほぼすべての学生(英語教師の卵)が、自分の授業に導入したいと書いていた。機械翻訳の持つ不完全さを逆手にとって、どこがおかしいのかを見つけて修正することで、言語間の違いに関するメタ知識を伸ばすタスクなどとして導入できると考えているようだ。ただし、初心者には導入しない。ライティングのクラスでは最初から機械翻訳は使わせないようにするなど、条件をつけた上で活用したいという声が多かった。(p.260-261)

 Google翻訳を使って「楽をする(=宿題を丸々、機械翻訳をして書き写すだけ)」になるような課題を出すのではなく、Google翻訳を使うことで英語(だけでなく他言語も含めて)に触れる量を圧倒的に増やし、多少の翻訳ミスがあっても、「あれ?ここちょっとおかしいかな、自分で訳し直してみよう」と手直しができるような活動を作ることこそが、先生の役割になるのではないかな、と僕は思っています。
 これは、僕をはじめ、多くの大人が英語を仕事で使うときにそうしているからで、大人がやっている方法を「学校だから」といって制限しないほうがいいだろう、と思っています。

まとめ

 幅広く、さまざまな視点から、デジタル×学習・言語能力を考えることができる本でした。先生方とディスカッションしてみたい話題がたくさんありました。

(為田)