教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『ペーパーレス時代の紙の価値を知る 読み書きメディアの認知科学』

 柴田博仁・大村賢悟『ペーパーレス時代の紙の価値を知る 読み書きメディアの認知科学』を読みました。僕は、デジタル情報端末を学校で使うようになったときに、思考手段・表現手段としてデジタルを使えるようになったらいいな、とずっと思っていたので、このテーマについては非常に興味がありました。興味深かったところのメモを公開したいと思います。

読みへの操作性の問題

 電子書籍になると、紙の本を読むのと何か効果が違うのか、というようなことについて、さまざまな角度からこの本のなかで検討がされているのは、勉強になります。そのなかで、紙を「表示メディア」としてだけではなく、「操作メディア」としても捉えているのは、非常におもしろいと思いました。

私たちは紙の読みやすさは「見やすさ」ではなく「扱いやすさ」によるところが大きいと考えている。見るだけならば紙で読んでも電子メディアで読んでも読みのパフォーマンスに大差はないが、手を使って文書を操作しながら読む場合には電子メディアに対する紙の優位性が顕著に示される。
こうした紙の利点を強調して、紙は「表示メディア」というよりも「操作メディア」という表現を私たちは好んで使う。読む行為は目を用いてなされるが、同時に手も使う。文書は目で読むだけでなく「手で読む」とも言えるのである。読みにおける紙の利点を引き出すためには、頻繁に手を使って文書と格闘するような状況においてこそ、文書は紙で読むべきだと言えるだろう。(p.134-135)

 たしかにページを行ったり来たりするのは、紙の方がやりやすいとは思います。これらを「操作」としてまとめて考えるのは、非常におもしろいと思いました。
 「読む」という活動を、学校であれば、「表示メディア」的に行うことが多いのか、「操作メディア」的に行うことが多いのか、考えてみてもいいかもしれないと思いました。
 国語の授業などでみんなで読んでいくときには、「操作メディア」として紙を使っているような気がします。そう考えると、紙の方がいいのか、とも思えます。だとすると、デジタル教科書とは、どうあるべきなのか、なども考える必要がありそうです。もちろん、デジタルドリルなども同様です。

読書への集中のしやすさの問題

 読書への集中のしやすさ、についても書かれていました。ここについては、デジタルメディアにどれくらい親しんでいるか、どれくらいの頻度で使っているか、によって変わってくるのではないかな、と思いながら読みました。紙で読んでいても、外部に注意を奪うさまざまな邪魔は介入すると思うので、「えー…そうなの?」と思いながら読みました。

ウェブや電子メディアといった電子環境は、読書に没頭したり、深い読みを行うには好ましい環境とは言えない。本章で述べたように、読書に関連のない刺激や外乱刺激、ハイパーリンクマルチタスク、読書のための負荷のかかる操作など、読書から注意を奪うさまざまな邪魔が介入するためである。(p.157)

手書きの効果の問題

 もっとも自分として関心があったのは、「第7章 手書き・手描きの効果」でした。さまざまな調査をしていて、その成果を読むことができます。1989年のハース(Haas)の比較実験が興味深いです(論文は、Haas, C. (1989b). How the writing medium shapes the writing process : Effects of word processing on planning. )。この調査は、経験豊富な書き手10名(技術文書の出版経験がある人)と文章作成の初心者10名(大学1年生)での比較なのですが、作文教育をされている先生方のコメントを伺ってみたいな、と思いながら読みました。

結果として、図56に示すように、初心者に比べて経験豊富な書き手は構想立案に費やす時間が多く、しかも実際に書き始める前に構想立案に多くの時間を費やすことがわかった。これに対して、ワードプロセッサを利用すると、実際に書き始める前に構想立案に費やす時間が減り、その程度は初心者のほうが大きいことがわかった。(p.168)

 僕は、文章を作成するときには、手書きで紙にアイデアメモを書いて、文章を書き始めるところから電子メディア(主にキーボードを活用)へ移り、何度か推敲をディスプレイ上でしてから、全体構成に見直しをかけるときには紙に出力して、手書きで赤入れしていき、また電子メディアで推敲していきます。
 全部を手書きでやるようにするからといって、「構想立案」に多くの時間を費やすようになるだろうか。これはデジタルを組み込んで、構想立案をして、推敲作業をして、というふうな方法を学んでいないからではないだろうか、とも思った。
 このあたり、マーク・プレンスキー『テレビゲーム教育論』のなかで触れられている、「デジタルネイティブ」と「デジタル移民」の話とか読み返してみたいな、と感じました。

まとめ

 「推敲するなら、圧倒的にデジタルの方がいい」とけっこう端折って考えてしまっている自分に気づかされた気がします。紙が、子どもたちにとって情報を得たり、思考をしたりするための「操作メディア」であると捉えるならば、別の表現ができるかもしれない、もうちょっと慎重に言葉を選ばなければいけないのかもしれない、と思いました。

(為田)