苫野一徳『「学校」をつくり直す』を読んで、自分のためにまとめたメモを公開していく、ひとり読書会のNo.2です。
今回は、発表の仕方についてメモをした部分です。小学校の授業を見に行くと、授業の中で「わたしは○○だと思います。その理由は~」や「□□さんの話を聴いて、わたしは~だと思いました」のように決まった形で発言しましょう、と決まっていることがあります。これを「話型」として、苫野先生は、これにあまりにはめすぎているのではないかと書いています。
「話型」なるものは、本来子どもたちの発言を型にはめるためのものではなく、あくまでも一つの型として子どもたちが参照すべきものです。自分自身の言葉をものにするにしたがって、どんどんアレンジしたり離れていったりすればいい。
でも、これを必ず従わなければならない「型」のように指導する先生も少なくありません。多くの子どもたちも、「型」が示されたら、従わなければならないものと思い込んでしまいます。(p.34)
発言だけでなく、プレゼンテーションなどでもこういう話型というかテンプレートが、過度に用意されすぎていている場面を見ることが多いように思います。思考などについても同様です。
あまりに型にはまった発言、コミュニケーション、思考になってしまうのはよくないことかもしれません。「協同的な学び」を大切だとする苫野先生にとって、型にはまった発言は、協同を曽合するものになってしまいます。
子どもたちが「遊び」の中で交わし合う言葉は、まさに、自然で、即興的で、掛け合い的で、熟考的なものです。そこには、自分の考えを伝えたい、相手の言うことを理解したいという、真剣なコミュニケーションの動機が見られます。そうしたいわばホンモノのコミュニケーションの場で、子どもたちは自分たちの言葉を鍛え合うのです。そのすべてを否定するつもりはありませんが、先生の敷いたレールや型に従った、作り物の「対話的な学び」「協同的な学び」にどれだけの意義があるのか、わたしたちは改めて考え直す必要があるのではないかと思います。(p.35)
テクノロジーの発達により、協同的な学びを実現することは以前よりもずっと容易になっていると思います。授業支援のアプリやシステムを使うことで、児童生徒が書いた解答を簡単に共有することができるようになりましたし、テンプレートを簡単に配布することもできます。最初はそれでいいと思いますが、それを身につけることができたら、そこから離れて、ホンモノのコミュニケーションができるように、先生が型から子供たちを解放してあげられるような授業がされていないと、苫野先生が言う「作り物の「対話的な学び」「協同的な学び」になってしまう恐れがあると思います。
「多様な意見を出してもいい」「何を言っても受け入れられる」という心理的安全が確保された環境(これは別に学校の教室でなくとも、オンライン環境でも問題ないと思います)を作り、そこでさまざまな考えに触れる、ということができなければいけない、とあらためて感じました。
No.3に続きます。
(為田)