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『コンヴィヴィアル・テクノロジー』 ひとり読書会 No.1「コンヴィヴィアル?」「プロローグ」

 緒方壽人さんの『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』をじっくり読んで、Twitterハッシュタグ #コンヴィヴィアル・テクノロジー を使って、ひとり読書会を実施したのをまとめていこうと思います。
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「コンヴィヴィアル?」

 タイトルを見て、「コンヴィヴィアルって、どういう意味?」となる人は多いと思います。この本の序文ともとれる文章も、「コンヴィヴィアル?」と疑問の形で書かれています。

 副題にもある「人間とテクノロジーが共に生きる社会へ」というテーマは、僕の仕事の現場である教育の場でも、ICTやインターネットは「適切な距離感で使う」とか、「きちんとした倫理観をもって使う」というふうに言われています。どれくらい子どもたちに触れさせるべきか、というのは大きな問題へのヒントを探せれば、と思って読み進めていこうと思います。

「プロローグ」

 タイトルにもある「コンヴィヴィアル」という言葉は、思想家イヴァン・イリイチの著書『コンヴィヴィアリティのための道具』でも紹介されています。

 僕は、いまの子どもたちにコンピュータやインターネットなどテクノロジーを道具として使いこなせるようになってほしい、と思っています。それもあって、イリイチがどう「道具」を考えているのか、というのは非常に勉強になりました。

イリイチは、人間が自らが生み出した技術や制度といった道具に隷従させられているとして、行き過ぎた産業文明を批判した。そして、未来の道具はそのようなものではなく、人間が人間の本来性を損なうことなく、他者や自然との関係性のなかでその自由を享受し、創造性を最大限発揮しながら共に生きるためのものでなければならないと指摘し、それを「コンヴィヴィアル(convivial)」という言葉に託した。イリイチが人間と道具との関係におけるコンヴィヴィアルな状態と対比しているのは、人間が道具に依存し、道具に操作され、道具に隷属している状態である。
道具を使うのか、道具に使われるのか。現実を顧みれば、わたしたちはいま様々なテクノロジーに囲まれながら、道具を使いこなしているつもりで、知らず知らずのうちに道具に使われてしまっている状態に陥ってはいないだろうか。そうではなく、あくまで人間が主体性を保ちながらその生をいきいきと生きるための能力や創造性をエンパワーしてくれる、そんなコンヴィヴィアルな道具とは、具体的にはどんなものであるべきだろうか。(p.18-19)

 道具は、人間が「その生をいきいきと生きるための能力や創造性をエンパワーしてくれる」ものであってほしい、という部分は、僕が「学校でデジタルを学ぶ意味」だと感じている理由と同じです。
 こうした「能力や創造性をエンパワーしてくれる」道具にはどんなものがあったのだろう?ということも書かれていました。

1970年代にこの概念を提唱したイリイチは、自転車をその象徴的な例としてとりあげている。確かに自転車はあくまで人間が主体性を持ちながら、人間の移動能力をエンパワーしてくれる素晴らしいテクノロジーである。イリイチはこの他にも、人類史を振り返りアルファベットや印刷機や図書館をそうしたコンヴィヴィアルな道具の例として挙げているが、では、現代社会において具体的に例示できるような道具にはいったいどんなものがあるだろうか。(p.19)

 自転車、アルファベット、印刷機、図書館も、イリイチが言う「道具」に入ってくるのがいいな、と思います。ただのモノだけでなく、インフラやシステムなども含めて「道具」が考えられています。そして、この流れは情報化が進んだ時代に入っても変わらず、デジタルの世界でもイリイチの思想は影響を与えている、ということが書かれていました。

実はその後、イリイチをはじめとする人間性を取り戻そうとする思想が大きな影響を与えたと言われる、世界を変えた道具がある。それが、パーソナルコンピュータやインターネットだ。もちろんそれらの誕生に思想的な影響を与えたのはイリイチだけでないが、実際に初期のパーソナルコンピュータやインターネットを生み出したハッカーたちがイリイチをたびたび引用し、「コンヴィヴィアル」という言葉を好んで使っていたことが記録にも残っている。
言われてみれば確かに、それまで国家や大企業などだけが特権的に所有することができ、限られた専門家だけが使うことができたコンピュータや軍事用のネットワークを、個人が主体性を保ちながらその能力や創造性を最大限に発揮できるよう人間をエンパワーしてくれるテクノロジーに変えたという意味で、パーソナルコンピュータやインターネットは、まさしく「コンヴィヴィアリティのための道具」だったと言えるだろう。

 ここで、テクノロジーについてのもう一つの面も書かれています。「道具を使う」のか、「道具に使われる」のかというところで言えば、テクノロジーが発達していくことで、「使われる」ことになる場面も増えてきていると思います。

人間がテクノロジーを意識することなく自然に使いこなせる世界は、裏を返せばテクノロジーブラックボックス化され、さらに言えばブラックボックス化されていることにさえ気づかない世界にもつながりかねない。そこには先ほど述べたような、知らず知らずのうちに再びテクノロジーに隷属させられてしまう状況を生み出す危うさも潜んではいないだろうか。(p.21)

 検索やレコメンドのアルゴリズムなど考えると、こうした危うさ、「隷従させられている」とまで言っても言い過ぎではない感じはあるかもしれないな、と思う。家電や車などでさえ、「どうやって動いているか」は僕にはわからないことが多いです。

 プロローグの最後に、あらためての『コンヴィヴィアル・テクノロジー』の目指すところが書かれていました。

イリイチが「コンヴィヴィアリティのための道具」を提唱してから半世紀が経とうとするいま、改めて本書で考えていきたいのは、使いこなすのに専門的な知識や習熟が必要な特権的なテクノロジーでもなければ、使いこなしているようでいて知らず知らずのうちにわたしたちを隷従させているようなテクノロジーでもない、人間が人間の本来性を損なうことなく、他者や自然との関係性のなかでその自由を享受し、それぞれの能力や創造性を自発的に最大限に発揮しながら共に生きるための「コンヴィヴィアル」なテクノロジーとはどのようなものなのかという問いである。(p.22)

 自分にとって本当に大事な問いなので、じっくり読み進めていきたいと思います。

 No.2に続きます。
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(為田)