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教材で使えるかも:『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』

 哲学者の國分功一郎 先生が、自身が関わった小平市都道328号線の工事見直しのための住民運動に関わり、民主主義について書いた本、『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』を読みました。高校生の社会科の授業でみんなで読んでいろいろと考えたくなる本です。

民主主義と行政について考える題材にできそう

 この本で取り上げられている、小平市都道328号線についてまとめてみます。

  • 問題の道路は、多摩地域を南北に走る「府中所沢線と呼ばれる道路の小平市部分(「小平都市計画道路3・2・8号府中所沢線」
  • 府中所沢線の総延長は約27キロあり、そのうち小平市部分の328号線は1.4キロ。
  • 道路を整備するとなると、多くの人が暮らす住宅地と、雑木林、玉川上水を貫通する。200世帯以上に立ち退きを強いて、480本の樹木が切られる。
  • 総工費は200億円をくだらないと推定されているが、そのうち8割近くが立ち退きのための費用となる。
  • 計画が立てられたのは1963年。その当時から交通を巡る状況は変わっている。
  • 328号線のすぐ脇を並行して府中街道が通っていて、こちらを整備して活用すれば十分ではないかという意見もある。
  • 住民投票条例案が可決されてから2週間ほどたったときに、小平市長から「投票率が50パーセントに満たなければ住民投票は「不成立」とし、開票もしない」という修正案が出された。(直近の小平市長選挙の投票率が37パーセント)

 こうして箇条書きにまとめると、「え!?」と思うところが多いですが、本を読むともっと詳細にエピソードも知ることができます。2013年5月に東京都初の住民直接請求による住民投票が行われましたが、結果は投票率が50%に達しなかったため不成立となりました(結果の公開もなし)。
 2013年から10年経って、いま都道328号線はどうなっているのかと思い、キーワード「小平市都道328号」「小平3・2・8」などのキーワードで検索してみました。東京都建設局のサイトで「小平3・2・8」として公開されています。事業概要のPDFへのリンクも貼られていました。

 継続してこの工事の進捗を見ることができるブログもありました。用地取得率や現在の場所の写真なども時系列で見ることができます。
urban-development.jp

 「小平3・2・8 用地取得率」と検索してみると、令和4年7月の建設局道路建設部の資料が見つかりました。この資料によれば、用地取得率は70パーセントとのことです。

 10年前の住民投票の結果、いまどうなっているのかをこうして検索して読みながら、「どうするべきだと考えるのか」を授業の中で話し合うのは意義があると思います。こういう自治体の行政資料だったり、議会の議事録だったりを、直接教材として使えるのもネットがあってこそだと思うので、リアルな教材としてどんどん授業に入れればいいと思っています。自分たちの町のプロジェクトについて興味を持ってもらうことは本当に大事なことだと思います。

「実感」から離れてはいけない

 すごくいろいろなことを考えさせられる本でした。最後の「第5章 来るべき民主主義」のなかで、國分先生は、“「実感」から離れてはいけない”と書いていました。長いのですが、とても大切なことだと思ったので引用します。

実感は自然と出てくるものである。そしてこのような感覚は、現実を批判的に検討する際の出発点になる、とても大切なきっかけである。この感覚は何としてでも守り抜かねばならない。そこに民主的でない何かがあるのであり、それは人に不満を与えたり、人を不幸にしたりするのだから。
ところが、そうした実感が時折、概念を経由することによって手元から離れていってしまうことがある。「民主的でない」という実感や感覚が、「民主主義」という概念を経由して変貌し、何らかの実態を求める要求になってしまうことがあるのだ。
「民主主義が欠けている」とか「民主主義を実現しなければならない」という言明は、「民主主義」という名詞を用いている以上、到達点としての民主主義の実体を前提している。だが、その実体はいったい何を指しているのだろうか?そもそも民主主義に実体はあるのだろうか?それはあらかじめ明確に定義できるような政治体制なのだろうか?これこれこういう条件が揃えば民主主義ですよ、と、そんな風に語ることは可能なのだろうか?民主主義という到達点を、あらかじめ存在するものとして設定することは可能なのだろうか?
「こういう政治体制が民主主義である」という明確な定義をもっている人もいるのかもしれない。しかし、議会制民主主義が達成されても社会はまだまだ十分に民主的ではないのだから(これこそが本書が主張してきたことである)、そのような明確な定義をもつことは非常に難しいと言わねばならない。民主主義の完成した姿を描くことは、独断的であることを避けられないだろう。
ならば、民主主義の完成した姿を描くことはできないのに、民主主義を実体として要求することはどういう事態を生み出すだろうか?
一方で、民主主義が何なのかは分からず延々と要求だけを繰り返すということが考えられるだろう。たとえばそのような思いを共有している仲間たちと「民主主義を実現しよう!」と言い合っているという事態である。
他方で、実体の中身が空っぽであることに耐えられない人たちが出てくることが予想できる。そうした人たちは自分では民主主義の完成した姿を思い描けはしないのだが、完成した姿がほしくてたまらない。すると、誰か他の人が作った完成像にすがることになる。もちろん、そのような完成像は独断的であろう。
感覚的判断(「民主的ではない」)から、概念的判断(「民主主義が欠けている、だから民主主義を実現しなければならない」)への移行はこのような大きな問題を引き起こす場合がある。手元にあった判断がどこか遠くに持ち去られる時、大きな過ちが犯される可能性があるのだ。
「こんな社会はおかしい」という感覚を抱き、この社会を何とかしようと思い立つ人は少なからずいる。しかし、その人がふと気がつくと、特定の概念のために奉仕するだけになっていることがありうる。しかもその概念が実現された時、その人が最初に抱いた感覚とは全く異なるものが姿を現すことがしばしば起こる。革命運動ではそうしたことが何度も繰り返されてきた。(p.198-200)

 ここで書かれていることは、民主主義についてはもちろんそうですが、他の分野でも似た状況を見ることが多いと思っています。「実体」と「実感」を大事に仕事をしていきたいと思います。

(為田)