教育ICTリサーチ ブログ

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書籍ご紹介:『遅いインターネット(文庫版)』

 評論家の宇野常寛さんの著書『遅いインターネット』を読みました。2020年3月に紹介をしているのですが、2023年4月に文庫化されたのでそちらを読みました。
 子どもたちがインターネットを使える学び場をどんなふうに作ればいいのかを考えるときに、宇野さんが繰り返し言う「いま、必要なのはもっと「遅い」インターネットだ」というメッセージを、僕は何度も思い起こしています。

 自分にとても刺さった部分を読書メモとしてまとめて共有したいと思います。2020年3月のときに書いた読書メモとはまた全然違うところを残そうと感じているのが、3年間の時間の流れを感じますし、『再読だけが創造的な読書術である』のメッセージが思い出されます。

 まず、インターネットポピュリズムと民主主義の現状とこれからについての文章です。インターネットをどのように使って社会にコミットしていくのかを考えるときに、ポピュリズムの話や承認欲求の話は、学校でどうインターネットを子どもたちに活用させるかを考えるときに避けて通れないことだと思っています。

「民主主義を半分諦めることで、守る」というのが僕の解答だ。民主主義はインターネットはおろか、放送技術が生まれる前に発案されたものだ。インターネットポピュリズムに少なくとも既存の民主主義は耐えられない。この現実を、僕たちは受け止めるべきだ。

(略)これからはほとんどの場面で、民主主義は自由と平等の最大の敵として立ちふさがることになる。今日において僕たちは軍国主義共産主義と同程度(よりはやや低い程度)に、民主主義の暴走によって自由と平等がトップダウンではなくボトムアップで抑圧されるリスクを管理していかなければいけない。だがいま述べたようにそれでも、他制度よりは相対的に民主主義はまだ暴走のリスクが低い。だからこそ「熟議を重視すべきだ」といった類の事実上無内容な精神論ではない、暴走リスクを減らすためのあたらしい知恵が必要なのだ。

もちろん前提として、究極的な結論としてはあたらしい「境界のない世界」が拡大し、旧い「境界のある世界」を飲み込むしかない。そうすることで、「Somewhere」な人々を「Anywhere」な人々に徐々に変化させていくしかない。しかし現時点では世界のどこでも働ける「Anywhere」な人々は一握りの成功者だ。したがって彼らのような自由を中流以下の人々が獲得できるようにするしかない。そうすることで、「Somewhere」な人々が承認欲求のはけ口として政治を利用するインセンティブを下げるしかない。だが、そうなるには(特にこの日本では)途方もない時間がかかるだろう。その途方もない時間を1年でも、1ヶ月でも縮める努力は最大限に行うことを前提とした上で僕たちは民主主義を(半分諦めることで)守り、そしてそのことで民主主義「から」自由と平等を守る他ないのだ。(p.60-62)

 もうひとつ、ここで書かれている「Somewhere」と「Anywhere」の話もデジタルを学びに活用するときに考えたいキーワードです。イギリスのジャーナリストで経済学者のデイビッド・グッドハート(David Goodhart)が著書「The Road to Somewhere: The Populist Revolt and the Future of Politics (2017)」の中で言っている、「Somewhere=どこかで生きていかなければならない人々」と「Anywhere=どこでも生きていける人々」との分断がICTによってより進んだりする可能性も考えなければならないと思っています。
 子どもたちの未来を考えるまでもなく、いまの学校の先生方の間でも、「Somewhere」と「Anywhere」の分断はあるようにも思います。デジタルを上手に活用する先生方は、ツールを使いこなして外部とどんどん繋がり、自分の実践を積み重ねていく「Anywhere」な先生方が多いようにも思います。一方で、勤務校ならではの文化のなかで成果をあげている「Somewhere」な先生方も多くいらっしゃいます。どちらがいいという話でなく、両方いるのだということを知ることに意味があるように思います(これは学校だけの問題ではないですね)。

 書名の「遅いインターネット」の対義語は「速いインターネット」だと思います。速いインターネットとはどういう状況なのか書かれている部分を紹介します。

現在のインターネットは人間を「考えさせない」ための道具になっている。かつてもっとも自由な発信の場として期待されていたインターネットは、いまとなっては、もっとも不自由な場となり僕たちを抑圧している。それも権力によるトップダウン的な監視ではなく、ユーザーひとりひとりのボトムアップ同調圧力によって、インターネットは息苦しさを増している。
一方では予め結論を述べてくれる情報だけをサプリメントのように消費する人々がいまの自分を、自分の考えを肯定し、安心するためにフェイクニュース陰謀論を支持し、拡散している。そしてもう一方では自分で考える能力を育むことをせずに成人し、「みんなと同じ」であることを短期的に確認することでしか自己を肯定できない卑しい人々が、週に一度失敗した人間や目立った人間から「生贄」を選んでみんなで石を投げつけ、「ああ、自分はまともな側の、マジョリティの側の人間だ」と安心している。
これらはいずれも、「考える」ためではなく「考えない」ためにインターネットを用いる行為だ。ネットサーフィンという言葉が機能し、インターネットが万人に対しての知の大海として開かれる可能性は、つい最近まで信じられていたはずだ。しかし、もはやそれは遠い遠い過去のことのような錯覚を僕たちにもたらしている。(p.190-191)

 続いて、民主主義とメディアとしてのインターネットについて書かれていた部分です。

では、どうするのか。解答は民主主義の「回路」をあたらしく作ることだ。
本書を手に取る大半の人々が、民主主義といえば選挙による代表者の選出や国民投票による意思決定のことを思い浮かべるだろう。あるいはデモを中心とした社会運動のことを想起するはずだ。だが民主主義の回路とはほんとうにこのふたつだけなのだろうか。
東日本大震災後にいよいよ明らかになったのは、この国の民主主義は使い物にならない、ということだ。市民運動には旧態依然とした左翼の文化が残り続け「意識の高すぎる市民」たちの自分探しの域を出ず、選挙は相変わらず「意識の低すぎる大衆」たちを対象にしたどぶ板選挙が支配戦略として定着している。しかし、インターネットと民主主義はここにあたらしい政治参加への回路を構築する可能性を秘めている。
そもそも人間とはすべての選択を自己決定できる能動的な主体=市民でもなければ、すべてを運命に流されていく受動的な主体=大衆でもなく、常にその中間をさまよっている。
言い換えれば、20世紀的な想像力の限界はここにあったのだ。20世紀は「映像の世紀」だと呼ばれているが、この「映像」という制度は現代から考えると旧い人間観に立脚したものだと言える。
たとえば「映画」はとても能動的な観客を想定したメディアだ。対してテレビはとても受動的な視聴者を想定したメディアである。これは先ほどの比喩に当てはめるのなら映画は市民、テレビは大衆を対象にしたメディアだと言える。
しかしインターネットは違う。インターネットはユーザーの使用法で映画よりも能動的にコミットする(自分で発信する)こともできれば、テレビよりも受動的にコミットする(通知だけを受け取る)こともできる。もちろん、その中間のコミットも可能だ。
インターネットは、はじめて人間そのもの、常に「市民」と「大衆」の中間をさまよい続ける「人間」という存在に適応したメディアだと言える。にもかかわらず、2010年代の人類はインターネットを「大衆」を動員するために用いた。ここに過ちがあったのだ。
同じことが、たとえば政治制度にも言える。多くの民主国家では現在、二院制が敷かれている。上院と下院、参議院衆議院。これは要するに「市民」を対象とした熟議と「大衆」を対象としたポピュリズムでバランスを取る、という発想だ。
ここから分かるのは、20世紀までの人類は技術的に人間の、極端なふたつの側面、つまり「市民」か「大衆」かを想定した制度しか作ることができなかった、ということだ。そして技術的限界から「仕方なく」その両者を併置させてバランスを取っていたのだ。しかしインターネットは、いやインターネットを下支えする情報技術の発達はこの二項対立を崩す可能性を秘めている。しかし、人類はその用い方をこの四半世紀のあいだ間違え続けたのだ。(p.66-67)

 こうして読むと、「速いインターネット」と民主主義は取り合わせとして全然良くないように思います。そのなかで、子どもたちにどんなふうにインターネットを「遅く」使ってもらいたいのかを考えないといけないと、単行本を読んだときにも思いましたが、文庫版を再読して改めて思いを強くしました。

 文庫本に追記された新章ではコロナ禍やウクライナ戦争の話も書かれています。情報量がたっぷりで、考えさせられるポイントがいくつもあり、僕のメモがほんの断片でしかないことが読めば分かると思います。読む人それぞれが、考えるきっかけをもらえることに意味がある本だと思います。

(為田)