教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』ひとり読書会

 朱喜哲さんの著書『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』を読みました。NHK「100分de名著」でローティの「偶然性・アイロニー・連帯」が紹介されたときの指南役だった朱喜哲さんの話がとてもおもしろくて、手に取りました。
 プラグマティズム言語哲学を専門とする朱さんの話では、「ことばづかい」がキーワードとなることが多いように思いました。また、哲学は「会話を止めない」ためにあるという言葉も心に残っていました。
 「ことばづかい」「会話を止めない」という2つのトピックは、学校での子どもたちの「ことばづかい」と対話の問題と合わせて考えるべきだと感じるのです。

 そう感じて読んだ『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』の読書メモを公開しますが、あくまで断片的なのでどこかに「お!」と思うところがあればぜひ本を手にとって読んでみてほしいです。

2章 「正義」の前提としての「公正」

 政治哲学者のジョン・ロールズは、「正義とは公正さである」「公正としての正義(Justice as Fairness)」と正義の構想を語っています(p.35)。ロールズの「社会」の捉え方もすごくいいなと思いました。

ロールズ自身は、「社会」をつぎのようにとらえています。

社会とは、おたがいにとって利益があるように、みなでとりくむ命がけの挑戦である。そこでは利害・関心の一致ばかりでなく、その対立や衝突が起こるのがつねとなる。[それでも]各人が自分だけの力でひとり生きることと比較して、社会においてみなでともにとりくむことによって、すべてのひとにとってよりよい暮らしが可能になるからこそ、利害・関心の一致が成立するのだ。

ここで、「みなでとりくむ命がけの挑戦」と訳した原語は「a cooperative venture」です。意訳気味ですが、社会という営みを「危険のともなう投機・冒険(venture)」と表現するところに、ロールズの姿勢がよく現れているように思います。つまり、社会とはみなで営むものであるが、それはまったく安定していない、一触即発の危険に満ちたものだというのです。(p.42)

 社会という言葉に、「みなでとりくむ命がけの挑戦(a cooperative venture)」という意味づけができるかどうか。命がけで挑戦しないと守れないものだというふうに感じている人がどれくらいいるか。
 また、こうした意味づけができる人たちをどれだけ増やせるか、ということは学校にとって大事なことだな、とも感じました。

3章 道徳教育と「正しいことば」の危険運転

 3章では、、日本の学校で教えられている「道徳」教科についても紹介され、ロールズの「正義」との関連が語られていきます。
 ロールズは、人々がそれぞれに、「よい」ことについての考え方=善の構想(conceptions of the good)」(p.34)をもっていて、それら異なる善構想どうしを調停し、合意に至った状態において実現するための一連の手続きが「正義」概念である、としています。

ロールズの場合、個々人の善構想どうしがバッティングし、対立することは大前提です。むしろ、個々人にとって善構想の自由な追究が最大化されるためには、社会がどのような協働のシステムをとっている必要があるのか。そして、そうしたシステムを作動させる原理としてふさわしいものはなにか、というこの問いに対して提出される回答のひとつひとつが「正義」(の構想)なのでした。(p.68)

 「正しいことば」をへたに使うことで、容易に「会話を止める」という事故につながる、と朱さんは書きます。

日本語での道徳の公教育における学習指導要領にみられる「道徳としての正義」は、ロールズ的な「公正としての正義」とまるで異なるばかりでなく、コミュニケーションにおける持続可能性、すなわち会話の継続という観点からも問題ぶくみでした。それは、上記の三種類――「相対主義」「解釈の決定不能性」「一人称特権による訂正不可能性」――どのタイプの事故にも容易につながるような、きわめて危なっかしい「正しいことば」のドライビング、いわば危険運転なのです。(p.72)

 ここで紹介されている3種類の会話を止めてしまう問題を書かれていた説明からまとめると、以下のような感じでした(p.69-71)。

  • 相対主義
    • 個々人の善構想でしかない以上、当然ながら相互に対立することがありえる。
    • 「正義」の所在が道徳として、ひとびとの内面に位置づけられるので、本人が「正義を奉じている、努力している」と言いつのれば、それを否定できない。
  • 解釈の決定不能性
    • 「きみは、わたしの正義を誤解しているよ」と会話を打ち切られるとき
  • 一人称特権による訂正不可能性
    • 「きみにはわからないだろうけどね」と言われると、原理的には誰にも否定できなくなる

 この3種類の会話の止め方=「これを言われるとそのあとどうしようもなくなる、というのはいろんな場面で出くわすようにも思います。個人同士のコミュニケーションでも、仕事場での大人数のコミュニケーションでも、SNSでのコミュニケーション(あるいはケンカ)でも、国会での議論においても、こういうことがあるように思います。

5章 「会話」を止めるとはどういうことか

 キーワードとなる「会話を止めない」について書かれている5章です。

まずもって「会話が止まる」ことはなぜ避けるべき事故なのか、というところからいきましょう。「ひとを黙らせる」ような言動をとることや、「それを言われたらもうなにも言えなくなる」ような話法をもちいることがなにかしらわるいという直観は、おそらく広く共有されうると思います。
ただ当然のことですが、個別具体の「会話」はいつでも切り上げることができます。また途中で話題を変えたり、時をおいて再開したりすることもできます。そして、ある会話につきあい続けることが不快だったり、ある特定のひとだけが会話を続けるためのコストを払わねばならないといった場面においては、だれでもその会話を制止したり、話題を変えたり、そこから離脱することができるべきです。(p.106)

 人類の会話には、「会話の豊かさ」という指標を考えてみるのが有望そう、と朱さんは書いています。豊かな会話ができるようになって、それが自分自身の世界を広げていくことに繋がってほしい、というのは学校で教えていて願っていることなので、とても興味深く読みました。

この「会話の豊かさ」は、営まれる会話において登場することばづかい、すなわち語彙や推論の多様性によって評価することができます。そして、こうした多様性が増大することは、「人類の会話」というものの存続可能性の向上にも寄与するはずです。これはちょうど「生物多様性」の確保が「自然環境と生態系の持続可能性」を高めるのと同じような関係になると覆います。それはつぎのような理路です。
まず「人類の会話」とは、たしかにそれじたいの完全な消失という事態(たとえるなら「地球上からのあらゆる生物の消滅」という事態)を懸念したり、そのための予防策を提言すべきようなものではなさそうです。しかし、個別具体の会話において、「会話を打ち切る」タイプの話法や言動がはびこることは、それぞれの主題においての自由なことばづかいの発展を阻害します。それはまず直接的には「それ以上は会話できない」主題を増やすからです。
同時に、こうしたタイプの「黙らせる」話法は、「会話」の一部である「議論」のような一種の勝ち負けがある言論シーンにおいて、安易に「勝てる」(と思えてしまう)ことばづかいを提供します。この手の一見すると便利な道具は、語彙や推論という道具をみずから創りだしたり鍛えたりする訓練を受けていない者にとって、その手軽さゆえについ頼ってしまい、ことばをめぐる訓練から遠ざけてしまいがちです。それは、みずから新しいことばづかいを生みだすような創造性を奪い、画一的な「テンプレ」表現ばかりがはびこる状況を招くでしょう。(p.113-114)

 画一的な「テンプレ」表現ばかりがはびこる状況というところで、こないだ読んだ三宅香帆さんの『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 自分の言葉でつくるオタク文章術』で、「クリシェは、あなたの言葉を奪う敵だと思ってください」と書かれていたのを思い出しました。

blog.ict-in-education.jp

 さらに、インターネットが普及したからこその問題、また「たんなる意見ですよね?」と言って会話を打ち切る人たち(子どもたちも真似するんですよ…)についても書かれていました。

一般論として、たしかな客観的事実というものが存在するという前提に立てば、「たんなる意見」ではないことが証明できるはずの「事実についてのことばづかい」ですら、今日のようにインターネット上にフェイクニュースがあふれる言論環境では検証がきわめて難しくなっています。ましてや、事実に加えてそれをどうするべきなのかに踏みこんで「正しいことば」を使ったならば、それを「たんなる意見ですよね?」と切り捨てることは、ほとんど万能と言っていい無敵の論法になるでしょう。
ところで、この話法は価値や理念にかかわる「正しいことば」の特徴を突いて、「どっちもどっち」という泥試合にもちこもうとするテクニックですので、じつは「論破」と言いつつも、ルールを備えた議論におけるカギカッコつきの「勝利」である「説得」や「合意」をまっとうにめざすものではなく、ただひたすら「負けない」ことをめざしている戦術です。
ここでの「負け」とは、相手の主張を受けて「自身の信念を改訂する」というかたちで影響を受けることを指すでしょう。そうすると、この論法の使い手は、他者から影響されることを「ダメージを負う」「恥ずかしい」ことだと考えているということになりそうです。社会とかかわりながら多様なことばづかいを学び、自己を変容させることが「敗北」であるというルール設定は、きわめてエクストリームなものだと思いますが、そうした特殊なルールを支持する「観客」がいることもまたたしかなのです。(p.120-121)

 負けないために無敵の論法を使ってしまうのが癖になると、建設的なディスカッションもできないし、そもそも「みなでとりくむ命がけの挑戦」である社会への参画もしにくくなってしまうと思うので、学校で教えるときに意識したいと思いました。

6章 「関心」をもつのはいいことか

 個人的にとても大事だと思ったのは、この章でした。「関心をもつこと」は良いことだと何となく受け入れてきましたが、すべてがそうではないのだ、と。

社会的なものについて「関心をもつ」とは、「わがこと(自分ゴト)のように考える」ことを意味しそうです。じっさい、こどもや生徒に対して社会問題や歴史的な事件について教える親や教師は、「関心をもとう」という呼びかけと同時に「あなたにとっても他人事ではないんだよ」という決まり文句を発するでしょう。
おそらくですが、こうしたことばづかいには、3章で検討した日本における道徳教育もかかわってしまっているように思います。つまり、相手に親身になって、わがことのように心を寄せるのが大切だ、という教育です。日本で初等教育を受けたならば、小学校において「相手の気持ちになって考えよう」という標語を聞かなかったひとはいないのではないでしょうか。
もちろん、こうした共感能力をはぐくむ教育は重要なものです。ただ、例によって原理的には達成不可能なこと――相手の気持ちになること――を個人の努力として求めているという点は指摘しておいてもよいと思います。その結果、「関心をもとう」というフレーズがたんなる建前にすぎない、空虚な常套句になってしまっている場面は少なくないはずです。(p.127-128)

 「関心をもとう」というフレーズが空虚な常套句になってしまっている、というのはショックな書き方ですが、たしかに…と思うところも僕はありました。では、関心をもって自分ゴト化することの何が悪いのかを読み進めます。

複雑な社会的事象と自分自身の利害をむすびつけ、自分ゴト化させる想像力には、ネガティブな副作用もあります。どんな問題であれ、自分自身の利害に関係しているとして――日本語特有の表現ですが――「当事者」としてふるまうことは、場合によっては危険なことでもあります。典型的には「陰謀論」を考えてみればよいでしょう。(p.132)

 2020年のアメリカ大統領選挙でのトランプ現象や、日本国内での在日特権の例などもです。教育に関して言われるさまざまな言説にも似た部分はあるかも知れません。
 社会学者C・ライト・ミルズの言葉と合わせて、ソーシャルメディアが普及した今だからこその危険性が説かれます。

これらはいずれも、ミルズが述べたように社会のなかで生きていて個人として「不安」を感じるひとびとに向けて、その原因としての「陰謀」――とその陰謀をたくらむ加害者――の存在を提示することで、社会的なできごとを自分ゴト化させるものです。とりわけ被害の側面での「利害関心」をトリガーとして自分ゴト化をうながすことの有効性とそれゆえの危険性は、これらの陰謀論のケースからも明らかだろうと思います。
こうした被害当事者としてのことばづかいがもちうる無敗の力については、4章でもトランプ現象の事例を通じて検討しました。ソーシャルメディアを介して、気軽にこうした強力なことばづかいをふりかざし、またそれを見聞きすることができる環境では、その魅力はいやますばかりでしょう。
(略)
ソーシャルメディアが普及し、見聞きした社会的なできごとや他者の言説に対してだれもが自分の関心を自由に発信することができる言説環境においては、わたしたちはむしろ暴走しがちな「想像力」に対して積極的にブレーキをかけ、自分の利害関心が過度に反応していないかを気にかけるべきでしょう。(p.133-135)

 ニュースを見ていて、トランプ現象などにモヤモヤしていたことに、説明の言葉が与えられてような気が僕はしました。

 ロールズがどう言っているかも紹介されています。読めば読むほど、ロールズおもしろいですね…(大学時代に『正義論』には挑戦したのでしたが…、挫折しました…)

ロールズは「公正としての正義」が合意されうる理想的な状況において満たされるべきいくつかの条件を検討しますが、その条件のひとつに挙げられるのが、関係者がみな、「相互に利害関心をもたない(mutual disinterested)」ことです。つまり自分の善構想についての関心はあっても、ほかのひとがどんな利害関心を有しているか――ひいてはどんなことを「善」としているか――については関心をもっていない、という条件です。
(略)さきほどまでのことばづかいでいうと、ほかのひとの利害関心を「自分ゴト化」せず、他人事のままでいることを指します。
これはまずは、自分以外のひとの利害関心を気にかけない、という一見するとエゴイスティックな態度です。しかし同時に、この態度は自分以外のひとに対して自分とまったく同じ利害関心――ひいては善構想――をもたせようだとか、あるいはもとから同じ利害をもっていることを前提として、みなにとってのよいことを追求したりといったことも、いっさいしないのです。こうした態度のポイントは、だれかの利害関心の追求を、自分の利害と直結させないことです。つまり、だれかがなにかをすることを、自身の損得という観点から評価しない、ということです。
「無関心」にも「関心」と同様、ポジとネガの両面がありますが、ロールズが強調するのはそのポジティブな側面です。それは、ロールズの社会観に由来します。そもそもわたしたちがともに営んでいる「命がけの挑戦」であるところの社会では、それぞれが異なる善の構想をいだき、したがって異なる利害関心をもつのが大前提でした。そうした社会をともに営むうえで、周囲のひとの利害関心に配慮すればうまくいくのでしょうか。そんなことはない、というのがロールズの見解です。(p.136-137)

 最後にこの章のまとめです。ここ、メモをとりながらめちゃくちゃいいな、と思っていました。

まとめましょう。「寛容」とは、思いやりや配慮などではなく、自身の利害関心に適度にブレーキをかけ、他者の利害関心の追求に首をつっこんで、それを自分ゴト化しないように心がけることです。さらにいえば、それは自身の利害関心にもとづいた想像力をはばたかせてしまい、あらゆるものを敵か味方かに二分してしまうような習慣を見直すことです。
だれかの利害関心の追求について、みずからの利害関心をもつ――自分ゴト化する――とは、ポジティブな面に目を向ければ、仲間を探すことであり、また仲間うちで折りあえる地点を模索することです。しかしそれは同時に、だれかの基本的な価値観や習慣に立ち入り、それを自身の利害という観点から評価することでもあります。また、その結果として「仲間でないひと」をつくることになるのでした。
重要なのは、公正な社会を構想するということは、「気のあう仲間」をつくってその輪を広げることとは根本的に異なる、ということです。公正な社会を構想することは、むしろ「仲間でも敵でもないひと」たちどうしが、どうやってともに生きていけるかを考えることでしょう。だからこそ、わたしたちがどうしてもいだいてしまう「関心」のネガティブな面をも理解し、それを乗りこなしていくことが求められるのです。(p.140)

 最後に書かれていた「公正な社会を構想するということは、「気のあう仲間」をつくってその輪を広げることとは根本的に異なる」というところが、すごく響く言葉でした。

8章 わたしたちの「残酷さ」と政治

 社会に関わっていく方法として、政治ももちろん大事です。政治哲学者ジュディス・シュクラーの提案が紹介されていました。

これまでたびたび論じてきたように、なにをよいものとして位置づけ、どんな理念を共有するかについての考え、すなわち「善」の構想は多様にあり、それらはなかなか一致しません。だからこそ、「正義」ということばをそれとは区別し、多様な善構想を共存させうるものとして大切に使おう、というのが本書を通じてくり返し提案してきた正しいことばのロールズ流運用テクニックの肝でした。
シュクラーの提案は、この方向性を補強するものです。つまり「善」についての一致はできずとも、避けるべき「悪」についてであれば、ある程度の広範な一致を確認できるはずで、その一致を足場としていっしょにやっていくことができるのではないかと提案するのです。これまで、では「正義」の内実とはなんであるのか、具体的にどういった目標が立てられるのかといった課題については、そこに「公正」というキーワードこそ与えられたものの、どうしてもあいまいなままでした。
しかし、シュクラーを経由するならば、「正義」をめざす実践である政治の目標を、つぎのように述べることができます。それは、わたしたちが恐る恐る社会を営み、他者とともに生きていく日常において満ち満ちている「残酷さ」を、あたうかぎり最小にしていくことだ、と。(p.169-170)

 政治の目標を「残酷さを、あたうかぎり最小にしていくことだ」と考えると、いまの日本の政治ってどうなのだ?と考えてしまいました。そして、最小にしたい「残酷な事態」とはどんなことだろう、と考えてしまいました。こうした正義への取り組み方もあるのだな、と思います。

9章 理論的なだけでは「公正」たりえない

 政治を進めていくにあたっては、きちんとした議論をしなければいけない。できる限り理論的な方がいいとも僕は思います。でも、実は「理論的」なことばを聴いていればいいのかというと、そうではないのだ、ということが書かれていました。

シュクラーは、わたしたちの日常に絶えることのない「悪」に着目することで、「自由」や「正義」といった正しいことばが陥りがちな空転――抽象的で、具体的なケースで考えづらいこと――を避けようとします。これはきわめて実際的な戦略です。というのも、おそらくほとんどの場合において、残酷さにさらされた被害当事者は、それを説明する理論的なことばなどもたないからです。
端的にいって、身体的な苦痛のさなかにあって、ひとは理性的なことばをもって苦痛を理路整然と説明することはできません。そしてまた、圧倒的な「力」の勾配にもとづいた抑圧の構造において、理論的なことばを支配するのもまた強者の側です。そうした支配のためのことばを使わざるをえない――それ以外にことばをもたない――弱者は、この抑圧構造から自由にみずからを表現するためのことばをもてないのです。
身体的な苦痛の体験、あるいは現在進行形での抑圧的な社会構造のなかで味わう個々の「残酷さ」について、わたしたちが――自分自身のことについてさえ――表現することばをもちえるとしたら、それは理論ではなく、フィクションやルポルタージュ、詩をもふくむような「物語」ではないかとシュクラーは述べています。(p.195-196)

 この観点もめちゃくちゃ大事だなと思います。語られていない「ことば」もたくさんあるのです。自分自身の仕事にも引きつけて考えたいと思いました。自分のところに届いている言葉だけで判断してはいけいないし、いま業界に流通できていない言葉を届けられるようにしたい、と思いました。

12章 正義をめぐって会話する「われわれ」

 「10章 「公」と「私」をつらぬく正義」のなかで、朱さんはローティによる「バザール」と「メンバー制クラブ」という比喩を紹介します。

  • バザール
    • 公共空間であり、店の人間、客などが無数に集う。
    • 必要や利害関心が折り合って、商談という共同作業も行われる。
    • 居心地の悪い人物ともやり取りをしなければならないこともある。内心がどうあれ、社交的に振る舞う必要がある。
  • メンバー制クラブ
    • 気心の知れた間柄の人とコミュニケーションができる場。
    • 仲間内の軽口も。
    • 外では喋れないようなこともやりとりできる(外へは出ない限り)。

ローティによる「バザール」と「メンバー制クラブ」という比喩が秀逸なのは、それぞれの魅力ばかりでなく、公共空間のしんどさや私的空間の危うさまでもが、明確にイメージできる点にあると思います。(p.219)

 めちゃわかります。公私を行ったり来たりしながら社会生活を営んでいます。自分の場である「クラブ」では言えることでも、公共の場である「バザール」では言えないこともあります。「バザール」の場で聞きたくないことを聞いてしまうこともありますし、意見の合わないことをやんわりとやりすごしたりすることもあります。

10章におけるローティの比喩でいえば、場違いな「クラブ」に混ざってしまったとき、それが出入り自由なものであれば、肩をすくめて離脱して、ホームといえるような自分のクラブや自宅に帰ればよいのです。そこでは、自分が立ち去るほかなかった会話のことも題材に、さらに別の会話をつむぐことができるでしょう。(そうした最低限の「自分のクラブ」や「自宅」がだれにもそなわっているようにすることもまた、公共的な課題です。)
しかし、公共的空間としての「バザール」において、どこにも居場所がなく、そこから排除されているひとたちがいるのであれば、それはバザールの安定的な運営に関わる重大問題です。ローティの比喩にのっとって、あえて露悪的な物言いをすれば、それは遠からず「治安」についての重大なリスクを招来するでしょう。
だれもにとって自分の利害にかかわってくる「正義」をめぐる会話――つまり「政治」の各プロセス――において、そこからあらかじめ除外されてしまっているひと、それに参加できないひとがいるということは、その理念の根幹にかかわる最重要事項なのです。(p.246-247)

 「バザール」も「クラブ」も両方をもっていて、出入りを自由にできることは大切です。こうした場を作ることも本当に大事だなと思います。「バザール」と「クラブ」を両方もてない人が多くいることも、8章でシュクラーの提案とされていた「避けるべき悪」だと僕は思いました。

最たる「会話の失敗」とは、会話の結果として生じることですらなく、そもそも会話の参加者としてあつかわれていない、そこにいる権利をもたないものとされることなのです。(p.249)

 この、最たる「会話の失敗」で、会話の参加者としてあつかわれていない人は、実は学校という場にもいるのではないかと思っています。こうした問題についても学校教育でできることはないのか、考えたいと思いました。

まとめ終わっての感想

 こんなに長くなってしまいました。哲学についての本で、学校にはあんまり取り入れられないのでは?と思う人もいるかもしれませんが、「3章 道徳教育と「正しいことば」の危険運転」をはじめ、先生方のヒントになることもたくさん書いてあるように思います。また、ソーシャルメディアでのコミュニケーション、フェイクニュースなどのトピックとも繋がっていることがたくさんあります。
 全体でなくても、この本の一部でも、子どもたちの学ぶ場を作る先生方の参考になったらいいと思っています。

(為田)