歴史学者である與那覇潤さんと、お寺の住職であり世界のボードゲーム情報サイト「Table Games in the World」を運営するボードゲームジャーナリストでもある小野卓也さんの共著『ボードゲームで社会が変わる 遊戯(ゆげ)するケアへ』を読みました。学校で一人1台の端末が使われるようになって、ゲーム感覚で学習をするツールやコンテンツを使う授業をよく見るようになりました。一方で、「子どもたちがゲームをしちゃうので困る」という声を先生方から聞くこともあります。僕は、デジタルゲームに限らず、ボードゲームをはじめとするアナログゲームにも教育的に良いものもたくさんあると思っているので、こうしたタイトルの本は大好きです。
本のテーマは「ボードゲーム」なのですが、デジタルゲームも含めて読むこともできるところがたくさんあるし、何より「学校」という文脈でも読みながらとった読書メモを共有したいと思います。
ボードゲームで社会をよい方向に変えることができる
まず、日本はデジタルゲームがすごく盛んな感じがしますが、いまはボードゲームもすごくブームだ、ということから始まった、この本の主張からです。
小野 実は今日につながる日本のボードゲームブームも、東日本大震災をきっかけと考える見方が一種の通説になっています。震災後の空気の中で「節電」と「絆」が強調されたこともあり、電力を消費せずに楽しめ、かつ家庭の絆が深まるボードゲームを推す空気が生まれました。実際にボードゲームカフェの草分けである、JELLY JELLY CAFEの1号店(渋谷)がオープンしたのも11年の9月です。
ただおっしゃるように、「社会のためになるから」やってくれと頼むニュアンスが強すぎると、ゲームはかえってゲームらしさを失い、悪い意味で「タスク」になってしまう。ボードゲームの普及活動においても、有益さを強調することが副作用をもたらさないかは、常に意識するところです。與那覇 この本を通じて、私たちとしてはぜひ、そうした懸念にしっかり応えた上で「やはり、ボードゲームで社会が変わる」と主張したい。決して遊びとしての楽しさを減じることなく、かつ社会をよい方向に変えることができると。(p.16-17)
この本のタイトルの「遊戯」は、「ゆうぎ」ではなく「ゆげ」と読むそうです。上達するということを「目的」にしてしまうと伸びない、ということが語られています。これ、勉強でも同じことが言えるかもしれないですね。
小野 実は「遊戯」という言葉は、仏教用語としては「ゆげ」と読みます。「ゆげ」とは、菩薩は色んな人を助けてあげるけど、その人助けは「けっこう遊びでやっているんですよ」とする思想を指すもの。あくまでも自然体で、当たり前のことのように軽く営む善行が「ゆげ(遊戯)」。人類の救済といった崇高な「目的」を設定し、無理や我慢をしてでも貢献せよと唱える発想とは逆なんです。
與那覇 言われてみるとボードゲームに限らず、上達するという「目的」を置いてプレイすると、かえって到達できる上限は低くなりがちですよね。サッカー選手やバイオリニストが典型ですが、本当に上達する人は「うまくなるぞ!」と思って訓練するというより、本人が楽しいから練習自体が日常生活における「自然」になって、結果としてトッププレイヤーに育つような。(p.21-22)
『私の世界の見方』(テンデイズゲームズ)というボードゲームを紹介するところで、與那覇さんが「コミュ力」について書かれていました。この箇所、とてもいいなと思いました。
與那覇 他人とコミュニケートせずに社会で生きてゆくことはできませんが、コミュ力はしばしば「天性のもので、ない奴にはない。だからどうしようもない」のようにイメージされがちです。精神科医の斎藤環さんと議論すると、若い人がよく使う「コミュ障」(コミュニケーション障害)とは相手を全否定する用語で、そう呼ばれてしまう事態を誰もが恐れているという話になります(『心を病んだらいけないの?』新潮選書)。
しかし、歩行に障害がある人がいるなら「社会の側が『車いすとスロープ』を用意して、サポートしよう」とする発想は普通にありますよね。だったら仮にコミュ力が低い人がいたとしても、社会の側が「話し方の松葉杖」に相当する補助ツールを提供して、十分やっていけるはずじゃないか。そうしたヒントを『(私の世界の)見方』からもらえたと思っています。(p.31)
「だったら仮にコミュ力が低い人がいたとしても、社会の側が「話し方の松葉杖」に相当する補助ツールを提供して、十分やっていけるはずじゃないか」というところ、学校でのいろんな風景にあてはめて考えたくなる言葉です。
ボードゲームの「必勝法」やルールについて
ボードゲームを紹介するときの「必勝法」の扱い方という話もおもしろかったです。前に読んだ『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』を思い出しました。ボードゲームも「どうやれば勝てるのかを速く教えて」になっちゃったら、いろいろ良さが失われてしまうな、と思いました。
小野 実はブログでボードゲームを紹介する際、いちばん気をつけるのが「必勝法」の扱いなんです。あまりに詳しく「この戦法が有利ですよ」といったガイドを載せると、プレイヤーが自ら試行錯誤して勝ち方を見つけていく喜びを奪ってしまいますから。ゲームのプレイが単なる「マニュアルをなぞる作業」になってしまう。
逆に私が積極的に記事にするよう心がけているのは、勝つためではなく「一緒に楽しむためのマナー」に相当する部分です。たとえば、ゲームに詳しい人だけでの席では「待った」で指し直すのは遠慮すべきだけど、ルールに習熟していない初心者が混じっているなら、その人に限っては認めてあげた方がいい。こうしたエチケットに関しては、むしろ広く周知されて事前に共有されていた方が、遊びが遊戯らしくあることができます。(p.42)
この話をうけて、與那覇さんが「ボードゲームのルールには3段階ある、ということを紹介してくれていました(p.42-43)。
ルールには3段階ある
- 「絶対に守らないといけない」ルール
- ルールブックが定めているルール。これに従わないとゲーム事態が崩壊してしまう。将棋で言えばコマの動かし方。
- 「勝つためには従ったほうがよい」ルール
- いわゆる定石に相当するもの。守らないと勝ちにくいけど、破ったからといって反則にはならない。
- あえて必勝法から外れたプレイングが「そんな勝ち方もできるのか!」と新たなイノベーションを生む可能性もある。
- 「楽しむためのマナーやエチケット」としてのルール
ゲームの最中でも現実の世の中でも、居心地が悪くなるのはこれらが混同される時だと思うのです。
この分類、学校のルールとかクラスのルールとかでも使えそうな分類だと思いました。そして、最後に書かれていた、「ゲームの最中でも現実の世の中でも、居心地が悪くなるのはこれらが混同される時だと思うのです」というのはそのとおりだと大きく頷きました。
ボードゲームを通じて考える「多様性」と社会
ボードゲームにはいろいろな種類があります。好きなボードゲーム、あまり好きじゃないボードゲーム、得意なボードゲーム、苦手なボードゲーム、いろいろあると思います。ここでのちょっとしたTipsがいいなと思いました。子どもたちが授業中に何かをするときに「これ、ぼく、きらーい!」って言うこともがときどきありますが、そのときに教えてあげたいなと思いました。
與那覇 僕が初めて知った時に「いいな」と思ったのは、ノット・フォー・ミー(Not for me)って言い方があるじゃないですか。ボードゲームのファンどうしで議論する際に、たとえ否定的な感想でもこのゲームは「つまらない」とは言わず、「むー、ノット・フォー・ミーだね」とか。
「つまらない」だと、誰にとっても駄作だという価値観を周囲に押しつけることになって、そのゲームが好きな人は嫌な気持ちになってしまう。だけど「自分には向かない」であれば、お互いに好みの違いを尊重できるわけです。小野 そのとおりですね。しかも、あるメンバーで遊んだ時はノット・フォー・ミーに感じたゲームが、別のメンバーと遊んだ時は「あれ?面白いかも」となることも多い。そうした感覚があれば、周囲との相互関係を無視して自分の好悪感だけを一方的に振りかざす発想からは、自ずと距離がとれるようになると思います。(p.162)
ボードゲームのルールを説明することを「インスト」と言いますけど、そのときにボードゲームに参加する人たちの様子を見ながら、伝え方を変えるということを與那覇さんが話していました。ここでの小野さんとのやりとり、「ダイバーシティ」の話を考えるときにとても参考になります。
與那覇 プレイヤーによって「なにを前提として話を聞くか」が違うので、それを見抜いてインストする側が合わせていかないと、うまく伝わらない。勝敗にこだわるタイプの人には「所持金を効率よく使えるかを競うゲームです」と、ずばりルールのコアから説明した方がいいし、雰囲気をのんびり楽しみたい人には「大富豪の暮らしを味わってみませんか?」のように、むしろゲームの世界観から入っていった方がいいわけです(ともに『ハイ ソサイエティ』のインスト例)。
小野 仏教の世界でも「人を見て法を説く」という言葉があります。説法を始めた後も聞き手の表情をよく見て、「ついてきているな」と感じたら先へ進むし、「わかっていなそうだな」と思ったら説明の仕方を平易にしてみる。そうした対面での関係における「個別性」への配慮がないと、ダイバーシティ・アンド・インクルージョン(包摂)のうち、後者がおちてしまうんですよ。
與那覇 気になるのはいま社会的に、そうした「個別のケア」をないがしろにする傾向があることです。いわば、誰に対してもそのまま読み上げるだけでいい「究極の説明書」を作ってくれよと。それさえ読み上げたら、多様性に十分配慮したことになるので、後はもういいですみたいな。そうしたアリバイ作り的な形での「ダイバーシティのマニュアル化」が進んでいます。
小野 それが生むのは、文字どおり「包摂のない多様性」に過ぎないんですよね。(p.163-164)
多様な相手と対面してゲームプレイすることの意義についても書かれています。ボードゲームで学べることのいちばんの良いところは、僕はこういうところだと思っています。配られたカードでどうするか考える、ということをボードゲームで考えるのであれば、「もう1回カード配れ!」と怒るんじゃなくて、手札でできることを考える。いま自分がいる環境で、いま自分のもっているスキルで、何ができるかを考える、そういう練習としてボードゲームができたらいいのにな、と思っています(こういうところは、実はデジタルゲームよりずっとボードゲームの方ができることが多いな、と思います)。
與那覇 「客観的な最適戦略としてのベストな一手」なんて、実際の人生では存在しないことが多い。そのことに気づかせてくれるのが、相手と対面してのゲームプレイという「社会の縮図」の中で遊ぶことの意義なわけですね。
小野 近代インドの国民詩人として知られるラビンドラナート・タゴールの言葉に、「I can’t choose the best, the best chooses me.というものがあります。つまり「私がベストを選ぶことはできない。むしろ、ベストが私を選んでくれる」。
人生における選択って、往々にして「自分が主体的に行う」というよりも、今の私にはこれしか選べないといった形で「到来」するところがありますよね。ボードゲームが「カードは◯枚までしか出せない」のように、ルールの形で「選択できる範囲」を狭く規制するのは、どんな内容の選択――本人にとってのベストがプレイヤーに到来しても、ゲームが壊れないように守るガードレールを設けているわけです。與那覇 示唆が深いです。現実の世界ではつい「自分の実力」を高め、「自分が選べる範囲」を広げることの方を、自由を最大化する道だとして捉えがち。しかしまさに遊戯の世界だからこそ、「選択する自由」を背後で支えている、より根源的な自由に人は気づけるのかもしれません。
私たちの社会では平成からずっと、選択の自由は「お前が選んだんだから、お前の責任だ」とする論理とワンセットになってしまい、選ぶごとにかえって不自由感を覚える状況が続いてきました。その反動から、令和に入って以降は「もう偉い人、賢い人が全部決めてくれ」「強い人の尻馬に乗って生きるのがいちばん楽。自分は無力で別にいい」といった、下品で矮小なパターナリズムが広がるばかりとなっています。
しかし人間が必要とする自由とは、本来はもっと違うものだったのではないか。むしろどんな選択をしても「負けるかもしれないけど、楽しむことはできるよ」「最後はなんとかなるよ」といった安心感が得られるときに、人っていちばん自由だと感じますよね。(p.172-173)
「第5章 ボードゲームはどこまで世界を掘り下げるか」で、小野さんが『パンデミック』という協力ゲームを紹介しているところで、「奉行問題」と「戦犯問題」という言葉が出てきていたのですが、おもしろいなと思いました。学校でのグループワークとかでもありそう、とか思いました。
ダイバーシティ社会は、ややもすると「働いていない人を働かせる」という文脈で語られがちだが、肝心の労働環境が画一的なままでは、既存の枠に収まることができない人をかえって排除してしまうだろう。背景も価値観も多様な人たちが一緒に働くためには、コーディネート(調整)とコミュニケーション(対話)が必要である。
協力ゲームでは、誰かが仕切って他の人を従わせるだけの「奉行問題」と、失敗した時にお互いに責任を押し付け合う「戦犯問題」を回避しなければならない。各自が主体的に関わることができるための心理的安全性を確保した上で、各自の特性を相互に理解して長所を発揮できるようにサポートしあい、多くの視点から想定することで失敗を回避する。こんなスタンスが、ボードゲームを遊ぶ上での話だということが信じられるだろうか?(p.196)
まとめた感想
読み終えて、ボードゲームを最近やっていないなと思いました。前は子どもたちと教室でよくやったり、部活が終わった放課後の教室で先生たちと「カタン」やってたりしていたなあ、と懐かしく思い出しました。
(為田)