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『新版 学校を改革する 学びの共同体の構想と実践』ひとり読書会

 佐藤学 先生の『新版 学校を改革する 学びの共同体の構想と実践』を読みました。先日読んだ、『学びの共同体の創造 探究と協同へ』の続きの学びです。読書メモとしてまとめたものを共有したいと思います。

学校改革について

 まず、「学びの共同体の学校改革」とはどういうものなのか、学校を改革するとはどういうことなのかについて書かれていた部分です。学校をサポートする仕事をしている人間として、興味深いことが書かれています。

学びの共同体の学校改革は、しかし「方式」でもなければ「処方箋」でもない。学びの共同体の学校改革を「方式」あるいは「処方箋」として導入した学校で、成功した事例はない。最近25年、この改革において失敗した事例は、わずかに存在するが、それらは学びの共同体の学校改革を「方式」あるいは「処方箋」として導入した学校であることが、それを証明している。
(略)
学校は内側からしか改革することはできない。明治以来、数々の教育改革が国家権力を中心としてトップダウンの方式で断行されてきた。それら上意下達の改革によって学校が改善されたことがあっただろうか。あるいは、上意下達の改革による成果が、今も学校の内側に残っているだろうか。(p.5-6)

 僕は、「内側からしか改革することはできない」とまでは思っていなくて、外側からしか変えられない・変えることを手伝えない、というのがあると思うので、学校改革は内側と外側とから、「卒啄同時」にやらないとだめじゃないかな…と思いながら読みました。

学校の改革は、それが「可能である」と信じる者によっては達成不能であり、ほとんど「不可能である」ことを知り尽くした者だけが、その成功を導くことができる。学校の改革がいかに難業であるかを知ることが、改革の第一歩である。学びの共同体の学校改革も例外ではない。(p.7)

 これは賛成です。「可能である」と信じて仕事をしていきたいと思っています。

学びの共同体の学校改革のヴィジョン

 学校を改革するためには、ヴィジョンが大切だ、ということが書かれていました。

学校改革について教師に語ると、「時間がない」「人がいない」「資源がない」という答えが必ず返ってくる。改革において最も足りないのはヴィジョンなのだが、それを指摘する教師は稀である。ヴィジョンがなければ、どんなに時間とエネルギーと人と資源を投入しようとも、それらは無駄になってしまう。あらゆる改革において“vision is the first priority(ヴィジョンが最優先)”なのである。
「学びの共同体」は、学校改革のヴィジョンであり哲学である。そもそも、なぜ学校を改革するのだろうか。学校が果たすべき中心的な責任は「特色ある学校」をつくることだろうか。学校改革の中心目的は「学力の向上」だろうか。「国際競争に打ち勝つ人材の育成」だろうか。「優れた授業の創造」だろうか。そうではないだろう。
学校の公共的な使命と責任は「一人残らず子どもの学ぶ権利を実現し、その学びの質を高めること」にあり、学びの<質と平等の同時追求>によって「民主主義社会を準備すること」にある。教師の使命と責任も同様である。(p.18)

 学校の公共的な使命と責任は、「一人残らず子どもの学ぶ権利を実現し、その学びの質を高めること」と「民主主義社会を準備すること」の2つ、と書かれています。

学びの共同体の学校改革の3つの哲学

 続いて、学びの共同体の学校改革の哲学について書かれていた部分をまとめてみました(p.20-23)。

私は、学びの共同体の学校改革を、三つの哲学によって基礎づけている。公共性の哲学(public philosophy)と、民主主義(democracy)の哲学と、卓越性(excellence)の哲学である。

  1. 公共性の哲学
    • 学校は公共空間であり、内にも外にも開かれていなければならない。
    • 公共空間として機能させるためには、年に最低1回は自らの授業を公開し、すべての同僚と共に、子どもを育てる関係を築く必要がある。
  2. 民主主義の哲学
    • 学校ほど民主主義の重要性が強調される場所はないが、学校ほど民主主義が機能していない場所もない。
    • 学校での「民主主義」とは、ジョン・デューイが定義した「他者と共に生きる行き方(a way of associated living)」を意味する。
    • 学校と教室に民主主義を実現するためには、子どもと子ども、子どもと教師、教師と教師の間に「聴き合う関係」を創造しなければならない。
  3. 卓越性の哲学
    • 授業と学びはいずれも、卓越性を追求することなしには、実りある成果を生み出すことはない。
    • 卓越性とは、どんな条件にあっても、その条件に応じてベストを尽くすこと。

 この3つの哲学のことがわかると、学びの共同体の活動のなかで、協同的学びを入れていたり、<ジャンプの課題>などを実施したりすることと繋がるなと読みながら思いました。

学びの共同体の学校改革の3つの活動システム

 学びの共同体の学校改革のヴィジョンと哲学を実現するための活動システムが紹介されていました。

学びの共同体の学校改革は、前記のヴィジョンと哲学にもとづき、その実現のために以下の三つの活動システムで構成されている。教室における協同的学び(collaborative learning)、職員室における教師の学びの共同体(professional learning community)と同僚性(collegiality)の構築、保護者や市民が改革に参加する学習参加、の三つの活動システムである。この三つの活動システムは、前記のヴィジョンと哲学を教師と子どもの日々の活動に具体化するシステムであり、自然にかつ必然的に、学びの共同体が構築される装置である。(p.24)

 そのなかでも、「教室における協同的学び(collaborative learning)」は非常に興味がある内容でした。なぜ協同的学びを中心に授業を行うのか、その理由を以下にまとめます。

学びの共同体の学校改革が協同的学び(collaborative learning)を中心に授業を組織している理由(p.28-31)

  1. 協同的学びは、学びの本質である
    • どんな学びも個人で行われることはない。個人で行えるのは<練習>と<記憶>だけ。
    • あらゆる学びは新しい世界との出会いと対話であり、対象・他者・自己との対話による意味と関係の編み直しであり、対話と協同によって実現している。
  2. 一人残らず子どもの学びの権利を実現するためには、協同的学びによって子ども同士が学び合うより他に方法はない
    • 4人以下の小グループの学び合いは、強制的に学びを促す機能がある。どの子も学びに参加することを余儀なくされる。
  3. 小グループの協同的学びが、学力の低い子どもの学力を回復する機能を発揮する
    • 教師だけの努力で低学力問題は解決しにくい。
    • しかし、小グループの協同的学びによって学力の低い子どもが学力を回復した事例は多い。
  4. 協同的学びが、学力の高い子どもにも、より高い学力を保証する
    • 協同的学びが<ジャンプの課題>と呼んでいる高いレベルの課題への挑戦を含んでいることが条件。
    • <共有の課題>(教科書レベル)と<ジャンプの課題>(教科書レベル以上)の2つの課題で授業をデザインする。

 なぜ、<ジャンプの課題>(=教科書レベル以上の課題)を行うのか、ということについてはさらに詳しく書かれていました。

<ジャンプの課題>の協同的学びは、学力の高い子どもにとってメリットがあるだけではない。先に述べたように、<共有の学び>が、わからない子ども以上にわかっている子どもへの恩恵が大きいように、<ジャンプの学び>は高学力の子どもだけでなく、低学力の子どもにとっても大きな恩恵をもたらすことがわかってきた。どういうことか。
一般に学びは<基礎>から<発展>へ、<理解>から<応用>へと進むと言われている。それはそのとおりなのだが、このプロセスをたどることができるのは、学力の高い子どもだけである。低学力の子どもは<基礎>の段階と<理解>の段階でつまずいてしまう。それでは、低学力の子どもはどこで学んでいるのだろうか。<共有の学び>と<ジャンプの学び>を組織した協同的学びを子細に観察してみると、低学力の子どもが<ジャンプの学び>において、つまり基礎的知識を応用する学びにおいて、「これはこういうことだったのか」と<基礎>を理解する光景が頻発していることに気づく。低学力の子どもは、<発展>から<基礎>に降りる学び、<応用>を通して<理解>を形成する学びを遂行しているのである。(p.32)

 協同的学びは、ともすると「教え合う関係」になってしまうこともあるかと思うのですが、そうなってはならない、ということも書かれていました。

「教え合う関係」ではなく、「学び合う関係」を推奨するのには、他にも理由がある。「教え合う関係」では、教師や仲間の援助を「待つ子ども」を育ててしまう。「待つ子ども」は、中学校、高校になると、ほとんど必然的に「恨む子ども」へと転じてゆく。自分を見捨てた教師、見捨てた友達を「恨む子ども」である。こうなると転落の泥沼である。低学力の子どもには自らの力で窮地を抜け出す能力、すなわち他者を信頼し、他者に援助を求める能力を育てなければならない。わからない子どもの問いから出発する「学び合い」は、このことを可能にしている。(p.33-34)

 「教え合う関係」ではなく、「学び合う関係」を目指す。本当に大事だと思います。

 最後に、「協力的学び」と「協同的学び」の2つの言葉の整理もしたいと思います。自分をふりかえると、授業を見るときには混同してこの2つの言葉を使ってしまっていることがあるような気がします。

協力的学び(cooperative learning)と協同的学び(collaborative learning)の整理(p.34-36)

  • 協力的学び(cooperative learning)
    • 2つの理論によって成立している。「個人で学ぶよりも集団で学ぶ方が達成度が高い」「競争的関係の学びよりも協力的関係の学びの方が達成度が高い」
    • 学びの方式として、広く流布。
    • 「聴き合い」ではなく「話し合い」になり、「学び合い」ではなく「教え合い」になる傾向がある。
  • 協同的学び(collaborative learning)
    • 学びの活動を対話的コミュニケーション(協同)による文化的・社会的実践として認識し、活動的で協同的で反省的な学びを組織している。
    • 協力的学びと比較すると、協力的関係よりも、むしろ文化的実践(文化的内容の認識活動)に重点が置かれ、意味と関係の構築としての学びの社会的実践が重要とされる。
    • 理論であって方式ではない。

 「聴き合い」ではなく「話し合い」になり、「学び合い」ではなく「教え合い」になる、というのは、授業を見るときのひとつの評価軸を得たような気がしました。

 まだまだ、学びの共同体についての理解を深めていきたいなと思えました。

(為田)