教育ICTリサーチ ブログ

学校/教育をFuture Readyにするお手伝いをするために、授業(授業者+学習者)を価値の中心に置いた情報発信をしていきます。

書籍ご紹介:『学びの共同体の創造 探究と協同へ』

 佐藤学 先生の『学びの共同体の創造 探究と協同へ』を読みました。ある学校で校内研修の打ち合わせをしていたら、先生から「学びの共同体」を目指したい、という言葉が出たので、きちんと勉強したいと思ったからです(今まで読む機会がなかったのです…)。

 興味深かったところを読書メモにして共有します。

学校を変えるための、「同僚性」というキーワード

 学びの共同体は、子どもたちが学ぶのはもちろんのこと、先生方も専門家として成長することを目指すようです。キーワードとして出てくる「同僚性」や組織の話はとても興味深いです。一人では学校は変わらず、どんな人たちが一緒に学校で働いているか、は大事ですよね。

奥間小学校の素晴らしさは、同僚性の素晴らしさとすべての教室で対話的で深い学びの追求が<ジャンプの学び>を中心に進められていることにある。(学びの共同体では授業の前半を教科書レベルの<共有の学び>、授業の後半を教科書レベル以上の<ジャンプの学び>で組織している。)(p.12)

 後半には、学びの共同体の授業が、前半:<共有の学び>と後半:<ジャンプの学び>で構成されていることが書かれていました。これを設計するのも先生の大事な役割だと思います。パフォーマンス課題とかと同じような感じに考えればいいのかな…と思いながら読みました。

 続いて、高校の改革について書かれていた部分です。二つの大きな桎梏を打開しなければならない、と書かれています。僕は高校の現場にはそんなに多く行っていないので、どこまでこれが正しいかはわかりませんが、「学校を改革する」ためのヒントとして読めると思いました。

高校の改革を実現するためには、二つの大きな桎梏を打開しなければならない。一つは、教師たちの「no pedagogy」(教育学的思考の欠落)を克服することである。高校教師の専門性は「教科の専門性」に閉じ込められており、「教育の専門家」としての使命感と能力を欠いている。もう一つは校内における同僚性の欠落である。多くの高校教師は「唯我独尊」の職業生活が日常化しており、都道府県教育委員会が改革を提起しても、校長が改革を提起しても、職員会議で改革を決定しても応じようとしない。(このような現象は企業でも行政でも大学でも小中学校でも見られない特異な現象である。)高校教師の職域は「聖域化」され「私事化」されていると言っても過言ではない。この現実を打開するためには、ヴィジョンを明確化した改革を推進し、校内に同僚性に支えられた専門家共同体を建設する以外に方途はない。
学びの共同体の改革においても、率直に言って、この二つの桎梏に十分に対応してきたとは言い難い。学びの共同体の改革に参加する高校教師たちは少なくはないが、そのほとんどが個人もしくは校内の少数派として改革を実践している。学校ぐるみの挑戦を行ってきた高校もいくつも存在するが、その継続は難しく、多くが少数の教師による改革から全体へと拡大する方略で行われてきた。しかし、学びの共同体の改革は、一部から全体へ拡大する方略で実現できるほど簡単な改革ではない。この難しさをどう乗り越えればいいのだろうか。(p.32-33)

 「この現実を打開するためには、ヴィジョンを明確化した改革を推進し、校内に同僚性に支えられた専門家共同体を建設する以外に方途はない」という部分にも、「同僚性」というキーワードが入っています。僕がしている校内研修のお手伝いも、もっと「同僚性」というキーワードを意識してやってみようかと思わされます。

「探究と協同」

 この本のサブタイトルにも入っている「探究と協同へ」という言葉ですが、その2つの言葉がどういう関係にあるのかが書かれていました。「探究は思考とは異なっている」というのは大事なキーワードかもしれません。僕はあまりこの2つを分けて考えていないように思います。

グループ学習の精髄は「探究と協同」を実現することにある。探究(inquiry)は思考(thinking)とは異なっている。思考は自己との対話であり一人でも可能だが、探究は他者との協同によって実現する。すなわち探究は多様な思考の練り合わせ(熟考 deliberation)によって実現する。(略)「探究」は「協同」を必須条件としており、逆に「探究」と結びつかない「協同」は無意味である。
さらに、探究による学びはそれ以上の意味をもっている。かつて哲学者のグレゴリー・ベイトソン文化人類学者マーガレット・ミードの夫)は、「学び」には知識の内容を学ぶ「ラーニングⅠ」(あるいはproto-learning)と知識の学び方を学ぶ「ラーニングⅡ」(あるいはdeutero learning)の二つがあると指摘していた。(p.98-99)

 ここで出てきた「ラーニングⅠ」と「ラーニングⅡ」について、さらに詳しく紹介されていました。

あらゆる学びには知識の内容を学ぶ「ラーニングⅠ」と知識の学び方を学ぶ「ラーニングⅡ」の二つが内在している。ベイトソンは、さらに「ラーニングⅠ」は可視的であるのに対して、「ラーニングⅡ」は不可視であることに言及している。「ラーニングⅠ」は、どう学ばれたかが見えるし確認することもできる。しかし「ラーニングⅡ」は外からは見えないし、確認することも不可能である。私に一次関数とグラフを教えた教師は、私がデカルトを読んで感動していたことを知る由もなかった。
ベイトソンが議論しているのは「ラーニングⅠ」と「ラーニングⅡ」のどちらが学びにとって本質的かという問いである。もちろん「ラーニングⅡ」である。「ラーニングⅡ」を学ぶことなしには、あらゆる数学(教科)の知識は、雑多な無意味な知識の寄せ集めでしかないだろう。因数分解にしても、微分積分にしても、そのまま生活で使うことはないからである。
このベイトソンの議論は、これまでの学校教育に根本的な問いを投げかけている。これまでの授業は、膨大な量の知識の学びを「ラーニングⅠ」として組織してきたが、その学びの本質である「ラーニングⅡ」の学びを実現してこなかったのではないだろうか。(p.100-101)

ICTも探究と協同へと結びつけて使うべき

 「新型コロナ下における学びのイノベーション」として、ICTを活用したさまざまな授業の例も紹介されていました。ただICTを活用するのでは意味がなく、探究と協同へと結びつけることで質の高い学びを実現できると書かれていました。

社会科の授業においても、学びの共同体の教室(小学校、中学校、高校)では、タブレットを活用した質の高い学びがいくつも創造されてきた。たとえば、消費税のメリット、デメリットの国際比較、失業率の国際比較、地球温暖化の経年比較、各国のGDPの比較と特徴など、タブレットは「小さな図書館、資料館」として学びのリソースを豊かにしてくれる。インターネットで情報を検索してワークシートに書き写すようなタブレットの活用では、通常の授業以下の効果しかもたらさないが、それらの情報を協同的な探究へと結びつけるならば、タブレットは通常の授業では実現できない質の高い学びを実現する。
(略)
資本とテクノロジーの奴隷にするのがICT教育の役割ではないだろう。未来を拓くICT教育は、探究と協同によってハイテク社会を生きる主人公を育てることにある。(p.160-161)

教師の性格の変化

 佐藤先生が講演の締めくくりで言っている言葉も紹介されていました。

学び続ける教師だけが教職の幸福を享受することができる(Only learning teachers are blessed with happiness of teaching profession.)。この数年、海外で講演を行う時、毎回のように、この言葉で締めくくっている。21世紀の教師は「教える専門家(teaching professional)」から「学びの専門家(learning professional)」へとその性格を変化させてきた。そこには二つの意味がある。学び中心の授業になった現在、教師は教える技術や技能よりも学びに関する専門的な知識と実践的な見識が求められている。もう一つの意味は、変化する社会の中で教師自身が学び続けなければまっとうな仕事ができなくなっている。(p.170)

 言いたいことはわかるけれど、忙しい先生方が学び続けるというのはなかなか大変です。やはりここでも大事になるのは「同僚性」な気がします。学校内で共に学び続けられる同僚の先生がいる、というのは本当に大事な要因だと思いました。

まとめ

 いろいろな要素が入った本で、「学びの共同体」について最初に読むべき本だったかはわかりませんが、とても勉強になりました。
 たくさんの学校での学びの共同体の様子、授業の様子がレポート形式で読める本で、このブログのメインコンテンツだと思っている授業レポートの参考にもなりました。

 「学びの共同体」をもう少し理論的に知りたいなと思って検索してみたら、『学校を改革する 学びの共同体の構想と実践』という本があることを知りました。こちらも読んでみようかと思います。

 「学びの共同体を目指したいんです」と言ってくれた先生の希望に寄り添えるように、僕も努力をしたいと思います。

(為田)